植民地台湾における朝鮮人接客業と「慰安婦」の動員

本文・注(3)

三 台湾経由で中国大陸に渡航した朝鮮人女性たち
おわりに

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表1-1・1-2  表2  表3  表4  表5  表6  表7  表8

表9  表10  表11  表12-1・12-2  表13-1・13-2  表14  図1


三 台湾経由で中国大陸に渡航した朝鮮人女性たち

 『台湾総督府統計書』には、一九一〇年以降「内地人台湾渡帰航者」「内地人外国渡帰航者」という統計表が掲載され(29)、一九一二年からは朝鮮人「渡帰航者」数もここに記載されはじめる。(そのため統計表の名称も、一九二三年より「内地人及朝鮮人台湾渡帰航者」「内地人及朝鮮人外国渡帰航者」と改められている。)このうち後者の「内地人(及朝鮮人)外国渡帰航者」とは、台湾と「外国」との間の往来を意味するので、前者の「内地人(及朝鮮人)台湾渡帰航者」は、必然的に「外国」以外=「日本帝国」内の他地域と台湾との往来を示したものと考えられる。そこで台湾をめぐる朝鮮人の移動状況を、「「日本帝国」内の往来」と「外国との往来」に分けて項目を立て、年次別にまとめたのが表11である。これを見ると、「日本帝国」内と台湾を行き来する朝鮮人が本格的に増えるのは、やはり台湾・朝鮮間に定期航路が開かれた、一九二〇年代の後半からであることが分かる(30)

 ところで表11でとくに注目されるのが、一九三九年に日本帝国内から台湾に入航した朝鮮人女性と、台湾から外国に出航した朝鮮人女性が急増している点である。このことは、日本帝国内から台湾を経由して外国に渡った朝鮮人女性が、この年に急激に増えたことを意味している。

 彼女たちは何を目的に、台湾経由で外国に渡航したのだろうか。この疑問を解くため、改めて職業別に朝鮮人女性の出入航状況を整理したのが表12-1と表12-2である。まず表12-1で目を引くのは、一九三九年に日本帝国内から台湾に来航した女性のうち、この年急増した「商業」(三二一名)と「無業」(二二一名)が大半を占めている点である。「商業」の中には接客婦が含まれており、また台湾渡航の時点で「無業」に分類されていても、接客業への従事を目的として台湾に渡航してきた女性も多かったものと思われる。なお表13-1によれば、一九三九年に来航した朝鮮人女性五七七名中、慶尚南北道出身者が四〇四名と、全体の七〇パーセントを占めていることも特徴的である。このような傾向は、翌一九四〇年以降も基本的に変わっていない。(参考までに表13-1には、一九四〇年の統計値を掲載した。)

 一方、表12-2から明らかなように、一九三九年に外国に渡航した朝鮮人女性の多くは「商業」(一五一名)と「その他の有業者」(四四七名)に分類された女性である。しかもその渡航先を整理した表13-2を見ると、「商業」(接客婦を含む)一五一名中、台北から広東省への渡航者が一二四名、「その他の有業者」四四七名中、高雄から広東省への渡航者が四三七名となっており、ともに圧倒的な比率を占めていた。これは何らかの事情で集団的に渡航したとしか考えられない数字であるが、とくに「商業」従事者の場合は、すでに前年の一九三八年より外国への渡航者が急増していた点が注目される(表12-2)。なお「その他の有業者」が四〇年以降、全くいなくなっているのも奇妙であり、三九年にこの項目に分類されていた女性たちが、やはり何らかの理由で、翌年からは別の項目にカウントされることになったものと思われる。

 このように考えてくると、一九三九年に台湾から外国(しかもその圧倒的多数は中国の広東省)へ渡航した朝鮮人女性たちは、「慰安婦」ではなかったのかという疑問が湧いてくる。幸い一九三八年末から四〇年初めまでの時期に、台湾から華南地方に渡航した慰安所関係者数については、日本政府の公表した資料によりその動向を把握することができる(31)。以下、永井和氏のご教示を参考に、この時期、台湾から華南方面に渡航した朝鮮人「慰安婦」の動向を、ここまでの議論と関連づけながら整理しておきたい。

 表14は、台湾から華南方面に渡航した慰安所関係者への身分証明書・外国旅券発給状況をまとめたものである(32)。これによると一九三八年一一月から一二月に渡航した朝鮮人は二二九名であり、同年台湾から外国に渡航した朝鮮人三一六名(表11。うち男一五一名、女一六五名)中の七二パーセントを慰安所関係者が占めていたことになる(33)。前述したように、一九三八年以降、朝鮮人女性の「商業」従事者が外国に渡航する現象が目立って増えているが(表12-2)、これは「慰安婦」の華南方面への渡航を反映したものと考えて間違いない。翌三九年には前年に倍する三七二名の朝鮮人が、慰安所関係者として華南地方に渡航しており、朝鮮人「慰安婦」が台湾経由で中国大陸に渡航する流れが、この時期に形成されていたわけである。この年台湾に来航した朝鮮人女性の中には、すでに指摘したように「無業」が多く、このことは朝鮮で接客業の経験がない女性を、「慰安婦」として連れてきた可能性を示唆している。そして従来の研究成果(34)をもとに考えると、これらの女性が詐欺・誘拐など、日本の支配の下で横行するようになった手段により連行された可能性も、否定できないのである。

 ところで図1は、表14の合計値をグラフ化したものであるが、これを見ると、慰安所関係者の華南方面の渡航には二つのピークがあることが分かる。一つは三八年一一月から三九年三月にかけてであり、いま一つは三九年一〇月から一二月までである。

 周知のように、一九三七年七月の盧溝橋事件を契機として全面化した日中戦争は、ただちに華北から華中へと戦線が拡大し、翌三八年一〇月の広東作戦(35)で華南にも戦火が広がった。その後、華南方面の日本軍は援蒋ルート――具体的には、広東作戦による香港ルート断絶後、最大の比重を占めることになった仏印ルート――の遮断を目的として、三九年二月に海南島(36)、六月に汕頭、八月には深■と、広東省の沿岸部を占領したうえで、同年一一月、第二一軍の一部兵力が南寧攻略に着手した(いわゆる南寧作戦)。しかし一二月に入ると中国軍の猛反撃を受けて苦境に陥り、第二一軍主力の来援を得てようやく翌四〇年一月二八日に南寧を制圧するに至った。

 すなわち図1の一回目のピークは広東作戦直後の時期に、また二回目は南寧作戦の時期に重なっているのである。広東作戦終了直後に台湾総督府が、第二一軍の要請に応じて台湾から約三百名の「慰安婦」を渡航させるよう手配したことは、すでに明らかにされている(37)。また一九三九年四月現在、第二一軍が管轄する「慰安婦」は約千名と記録されているが(38)、この数字は一回目のピークの渡航者数合計一一六六名(表14の三八年一一月から三九年三月までの合計)にほぼ符合する。さらに「金原節三業務日誌摘録」(防衛庁防衛研究所所蔵)によれば、一九三九年四月一五日の陸軍省医務局課長会報で、松村第二一軍医部長が「兵一〇〇人につき一名の割合で慰安隊を輸入す」と述べており(39)、第二一軍の需要に応じて「慰安婦」が渡航していったことが、この発言からも読みとれるのである。

 一方、南寧作戦に関連しては、この作戦に参加した塩田兵団林部隊(台湾混成旅団台湾歩兵第一連隊)が台湾人経営の専属慰安所をもち、この慰安所が広東省の欽州から南寧まで同部隊に従って、高雄から台湾人「慰安婦」を呼び寄せた事例が明らかになっている(40)。朝鮮人「慰安婦」も同様に、第二一軍の軍事作戦の結果として生じた需要に合わせ、華南方面に連れて行かれたと考えて間違いあるまい。日本軍の大規模な軍事作戦に対応して、朝鮮(または「内地」)から台湾を経由して中国大陸に渡航する、朝鮮人「慰安婦」の流れが生じたわけである。

 さて図1を見ると、慰安所関係者の民族構成が一回目のピークと二回目のピークでは、大きく変化していることが分かる。広東作戦直後の時期には、日本人の比率が一貫して高いのに対し、南寧作戦の時期になると朝鮮人が大半を占めているのである。その理由はにわかに断定できないが、時期が下がるにつれて朝鮮人「慰安婦」の割合が高くなる傾向を、ここから読み取ることはできるだろう。

 ところでこのような日本軍の作戦行動と〈「慰安婦」の流れ〉の連動関係は、その後の軍事作戦においても確認できる。例えばすでに先行研究が指摘しているように、一九四一年七月から八月にかけて実施された関特演に際して、関東軍は二万名の朝鮮人「慰安婦」の動員を計画し、その依頼に応じた朝鮮総督府が三千名ないし八千名の朝鮮人女性を送り出したと言われている(41)。日中戦争を経験する中で、軍慰安所の開設とそれに必要な「慰安婦」の動員・調達が、日本軍の作戦・補給計画の一部に繰り入れられ、大規模な作戦行動を立案・計画・実施する際に、必須の項目としてマニュアル化されていたことが推測されるのである。そしてこの「マニュアル」には、朝鮮人女性を「慰安婦」として駆り出していく発想が、当然の前提として組み込まれていたのであろう。

おわりに

 第二一軍の作戦行動がつくり出した「慰安婦」の需要は、多数の朝鮮人女性を中国大陸に渡航させることになった。一九三八年一一月から四〇年一月にかけて、台湾から華南方面に渡った朝鮮人の慰安所関係者は六〇七名であり(表14)、これは一九三九年に台湾に在住していた朝鮮人接客婦四四五名(表2)を、一五〇名以上も上回っている。もちろん渡航した慰安所関係者が、すべて「慰安婦」であったわけではないが、控えめに見ても当時台湾にいた朝鮮人接客婦の総数に匹敵する規模で、朝鮮人「慰安婦」の流れが生じたことは間違いないだろう。

 それでは日中戦争期以前に、すでに台湾に定着していた朝鮮人接客業は、どのような意味でこうした〈「慰安婦」の流れ〉を準備したと言えるのだろうか。

 前述のごとく、広東作戦終了直後、台湾総督府は「慰安婦」三百名の動員を手配したわけだが、その中に台湾在住の朝鮮人接客婦が含まれていたとしても、何ら不思議ではない。またその後、朝鮮もしくは「内地」から「慰安婦」にさせるため朝鮮人女性を連れて来る際には、すでに朝鮮人接客婦を抱えたり仲介した経験のある貸座敷業者・周旋業者が、徴募を委託されたケースも多かったのではなかろうか。第二章で述べたように、台湾では朝鮮人娼妓を抱える日本人業者も一定程度存在すると推測されるところから、朝鮮人「慰安婦」を集めた業者の中には、朝鮮人だけでなく日本人が含まれていた可能性も想定できるのである。

 以上はいずれも推論の域を出るものではない。加えて朝鮮人女性を「慰安婦」として大陸に渡航させるにあたって、具体的にどのような手順を踏まえたのかについては、解明できなかった点が多々残されている。例えば表13-2を見る限りでは、中国大陸への渡航は台北と高雄からに限定されていたはずなのに、表14によると、両者以外の州庁がわざわざ朝鮮人の慰安所関係者に対して、身分証明書や外国旅券を発給している。これは一体どのような事情によるものだろうか。またこれだけ大量の女性をかりに朝鮮から動員するとなると、朝鮮総督府が何らかの措置を講じた可能性が高いのだが(42)、この点についても今回は全く調査できなかった。これらは筆者が引き続き追跡すべき課題である。

 現在、台湾では一名の韓国人元「慰安婦」が名乗り出ており、また近年、一四歳で新竹の慰安所に連れて行かれた韓国人女性(大邱在住)の存在も知られようになった(43)。本稿は統計資料の分析を中心に、植民地台湾における朝鮮人接客業の実態と、それが「慰安婦」の動員とどのような繋がりをもっていたのかについて、ごく表面的な観察を行ったに過ぎない。被害者の個別具体的な体験の意味するところを吟味しつつ、「帝国」日本の国家権力機構がつくり上げた「性支配」の全体像を見据える作業を続けていきたい。


(28)日本式の貸座敷営業が台湾人に嫌悪された様子は、廖秀真氏の次のような説明からも窺える。「かつて台湾人娼館の発祥であった凹■仔[現・華西街――引用者]は、下層の売春宿に転落していき、ここの台湾人娼妓にかぎって日本人客を相手にするので、台湾人から「番仔酒■」(野蛮人の酒瓶)と蔑まれていた」(廖秀真、前掲論文、四一七頁)。

(29)両表は「渡帰航地別」「本籍地別」に集計表を掲載している。

(30)先述のように、台湾・朝鮮間に定期航路が開設されたのは一九二七年のことである。したがってこれ以前の朝鮮人の移動は、「日本帝国」内と言っても、実際には日本「内地」との往来、または日本「内地」を経由した往来に、ほぼ限定されていたと言える。

(31)(財)女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第一巻、龍溪書舎、一九九七年、一七一〜四三〇頁。

(32)慰安所関係者の華南方面への渡航状況をまとめた、駒込、前掲論文、一四〇〜一四一頁の表5-4では、原資料で州庁や時期の不確実なデータを、慎重に除外している。(注(7)で紹介済みの、民族別渡航者数を整理した、同論文、一三九頁の表5-3も同様である。)しかし同じ資料をもとに吉見義明氏が作成した一覧表には、このようなデータも州庁や時期を推定したうえで掲載している(吉見、前掲書、三九〜四六頁)。筆者は、吉見氏の推定は充分な根拠があると判断したため、ここでは吉見氏の考えにしたがって作表した。

(33)一九三八年に「慰安婦」であった可能性のある「商業」「その他の有業者」に分類された朝鮮人女性は一五一名(表13-2。商業一三八名+その他の有業者一三名)である。

(33)宋連玉、前掲論文、拙稿、前掲「朝鮮植民地支配と「慰安婦」制度の成立過程」、尹明淑「日中戦争期における朝鮮人軍隊慰安婦の形成」『朝鮮史研究会論文集』第三二集、一九九四年一〇月、など。

(34)広東作戦は、一九三八年八月に開始された武漢作戦(南京陥落後、国民政府の事実上の首都であった武漢三鎮への進攻作戦)と並行して、いわゆる援蒋ルート(国民政府に対する物資補給路)の中心であった香港ルートを遮断するために実施された。この作戦の直前に編成された第二一軍が一〇月一二日、バイアス湾に奇襲上陸し、中国軍の抵抗をほとんど受けることなく、同月二一日には広州を占領した。

(35)日本軍が海南島を占領した後、海軍の委託を受けた台湾拓殖株式会社は、事実上の子会社である福大公司をダミーとして同島に慰安所を開設した。台湾から一九三九年四月に慰安所関係者二〇名(経営三名、芸妓四名、酌婦七名、仲居二名、料理人一名、雑役一名。芸妓・酌婦はすべて日本人)、五月に一六名(経営者一名、帳場一名、料理人二名、仲居二名、酌婦一〇名。酌婦は、日本本土出身者七名、沖縄出身者二名、朝鮮人一名)が、海南島に渡航したことが明らかにされている。海南島の慰安所については、朱徳蘭氏がすでに以下のような、詳細な研究と資料紹介を行っている。@朱徳蘭編『台湾慰安婦調査と研究資料集』台北、中央研究院中山人文社会科学研究所、一九九九年、A同「台湾慰安婦档案調査与歴史真相研究――以台拓会社档案為中心――」『台湾慰安婦档案調査与研究成果発表会』台北、中央研究院中山人文社会科学研究所、一九九九年、B同「戦争と性産業――台湾拓殖株式会社資料档案を中心とした考察――」『日米の冷戦政策と東アジアの平和・人権 沖縄シンポジウム報告集』国際シンポジウム「東アジアの冷戦と国家テロリズム」日本事務局、二〇〇〇年。また、駒込、前掲論文、一四二〜一四五頁、も参照のこと。

(37)一九三八年一一月四日、内務省警保局警務課長「支那渡航婦女ニ関スル伺」(前掲『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第一巻、七九頁)。内務省警保局もこのとき第二一軍からの要請を受けて、「内地」から約四百名の「慰安婦」を渡航させる計画を立てている。

(38)第二一軍司令部「戦時旬報(後方関係)」一九三九年四月一一〜二〇日(吉見、前掲書、二一四〜二一六頁)。

(39)日本の戦争責任資料センター「資料調査第一次発表」『季刊戦争責任研究』創刊号、一九九三年九月、二一頁。

(40)一九四〇年九月二日、千葉蓁一台湾総督府外事部長「渡支事由証明書等の取寄不能と認めらるる対岸地域への渡航者の取扱に関する件」(吉見、前掲書、一三〇〜一三八頁)。この文書が作成された当時、台湾歩兵第一連隊は南支那派遣軍(一九四〇年二月、第二一軍を廃止して編成)の隷下にあった。文書の内容に対する分析は、駒込、前掲論文、一三五〜一三七頁、を参照せよ。

(41)島田俊彦『関東軍』中央公論社、一九六五年、一七六頁。千田夏光『従軍慰安婦』三一書房、一九七八年、一〇三〜一〇五頁。「関東軍による「慰安婦」動員に関する手紙」前掲『「慰安婦」・戦時性暴力の実態T』三三四〜三三七頁。

 また前掲「金原業務日誌摘録」によれば、一九四二年九月三日の陸軍省課長会報で倉本敬次郎恩賞課長が、華南四〇カ所に対し、南方には一〇〇カ所もの「慰安施設」をつくりたいと述べたこと(前掲「資料調査第一次発表」二三〜二四頁)も、同年四月の南方作戦終了(開始は四一年一二月)と関係があるものと思われる。

(42)注(37)で述べたように、広東作戦にあたって「内地」では、内務省警保局が「慰安婦」の渡航計画を立て、五府県に動員すべき人員数を割り当てていた。大規模な軍事作戦の際に、朝鮮総督府が同様の措置をとった可能性は、充分に想定できるだろう。

(43)前掲『台湾慰安婦報告』二四、八五頁。


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