植民地台湾における朝鮮人接客業と「慰安婦」の動員

本文・注(1)

はじめに
一 台湾在住朝鮮人人口の推移

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表1-1・1-2  表2  表3  表4  表5  表6  表7  表8

表9  表10  表11  表12-1・12-2  表13-1・13-2  表14  図1


はじめに

 筆者はここ数年、上海や中国東北地方などを事例に、「帝国」日本が東アジア各地に移植した公娼制度(1)の実態と、そこで展開された朝鮮人接客業(2)の様相を検討しながら、日本軍「慰安婦」制度を生み出した「帝国」支配の構造を展望しようとしてきた(3)。周知のように、十五年戦争勃発以前の日本帝国は、いわゆる「内地」――固有の領土以外に「内国植民地」たる北海道・沖縄を含む――のほか、台湾・朝鮮・南サハリン・関東州・南洋群島などの植民地・租借地・委任統治領を領有(ないしは事実上領有)し、中国東北地方では関東州に加え満鉄とその沿線地域を、また中国本土地方では租界を中心に、勢力範囲を設定していた。そして日本はそのほとんどの地域に、「内地」の公娼制度をモデルとする買売春管理のシステムを導入していたのである。

 戦後の歴史研究において、日本「内地」の公娼制度の内容やその実態については着実な成果が蓄積されてきたのに対し、植民地をはじめとする日本の支配や影響力が及んだ地域で実施された公娼制度の研究は、近年ようやく緒についたばかりと言える。したがって公娼制度を中核とする接客業全般の分析を通じて、帝国日本による「性支配」の構造を、トータルな形で解明した実証研究は今のところ見当たらないようである。そこで筆者は、とくに朝鮮人接客婦の帝国内移動(もしくは帝国外縁地域への移動)の実態を掘り起こすことによって、日本統治下の諸地域における支配の様相の関係性を検証するとともに、こうした現実が「慰安婦」制度の成立過程と、どのような因果関係を結んでいたのかを究明するところに焦点を当ててきたのである。

 さて本稿では、日本帝国にとって最初の海外植民地である、台湾での朝鮮人接客業について基礎的な統計数値を整理し、あわせて台湾を経由した朝鮮人「慰安婦」の中国大陸への渡航事情について紹介する。それはこの間の筆者の作業の延長として、検討対象を台湾に拡大する目的のほかに、従来指摘されてきた以下の二つの問題を、筆者なりに考察したいという意図に基づいている。

 まず先行研究がすでに注目している、植民地台湾において朝鮮人接客婦が非常に多かった点についてである(4)。本稿ではこの問題を体系的に検証するために、台湾総督府の年次統計書として刊行されていた『台湾総督府統計書』(5)の掲載値を、さまざまな角度から分析する。この作業を手掛かりに、台湾社会における朝鮮人接客業の位相について、大まかな見取り図を提示したい。

 次に日中戦争期に、台湾から相当数の朝鮮人「慰安婦」が中国に渡航していたことも、すでに関心を集めている(6)。駒込武氏の試算によれば、一九三八年一一月から四〇年一月にかけて、慰安所関係者に対する中国方面への渡航身分証明書・外国旅券発給状況は、日本人八二八名、朝鮮人五二八名、台湾人二六六名となっており(7)、台湾からの渡航であるにもかかわらず、台湾人の約二倍の朝鮮人に証明書等が発給されるという、奇妙な現象が起こっているからである。

 以上を重ね合わせると、台湾における朝鮮人接客業の「隆盛」が、台湾経由での朝鮮人「慰安婦」の渡航を促す前提となった可能性が浮かび上がってくる。この問題の究明こそが筆者の当面の関心事なのだが、資料上の制約から、ここでは基礎的な事実関係の提示にとどまらざるを得ない。なお従来、植民地期の台湾在住朝鮮人については、接客業はおろか、その渡航や生活の状況を扱った論考さえ、ほとんど存在しないのが研究の現状のようである(補注)。統計値の分析だけではおのずから限界があるが、本稿がこうした研究上の空白を埋めるための一つの礎石になればとも念じている。

 一方、植民地台湾での公娼制度の内容をめぐっては、いくつかの優れた研究が存在するものの(8)、いまだその全体像が明らかにされたとは言えない段階である。これについては稿を改めて論じる予定であるが、さしあたり本稿の理解に必要な範囲で、以下に概要を述べておきたい(9)

 日清戦争直後の台湾征服戦争の時期において、台湾住民の抵抗を武力鎮圧して植民地統治を開始した日本が、民政移行(一八九六年四月一日)後、最初に着手した政策の一つが接客業の取締であった。例えば台北県では、九六年六月に、県令甲第一号「貸座敷並娼妓取締規則」、同甲第二号「娼妓身体検査規則」、同甲第三号「娼妓治療所規則」、同甲第七号「料理屋取締規則」などが矢継ぎ早に制定されている(10)。同様の法令は台中県でもやや遅れて同年七月に発布され(11)、また台南県では料理店・芸妓の取締規則は同年八〜一〇月に、貸座敷・娼妓の取締規則は二年後の九八年五〜六月に公布された(12)。こうして接客業を取り締まる諸法令とともに、公娼制度を中核とする日本の買売春管理システムが台湾に持ち込まれたのである。

 植民地台湾での接客業に対する取締法令は、当初このように各地方官庁別に制定されていたのだが、一九〇六年の民政長官通達「貸座敷及娼妓取締規則標準」で取締方針が全島的に統一され(13)、各地の法令もこの方針に基づいて改められた。これに先立ち一九〇一年一一月には台湾の地方行政区域が二〇庁に再編成されていたが、確認できる範囲でも、そのうちの台北・基隆・宜蘭・新竹・苗栗・台中・彰化・斗六・嘉義・台南・鳳山・澎湖の一二庁で、「貸座敷及娼妓取締規則」が制定されたのである(14)。各庁の条文はほぼ同一であったが、とくに目を引くのは娼妓の年齢下限の低さ(一六歳)であり、これは内地の一八歳、朝鮮の一七歳よりさらに低年齢女性の「稼業」を認めるものであった。

 その後一九二〇年の地方制度改正によって、台湾の行政区域は五州二庁に改められ、また中央の権限が大幅に地方に移管されたのにともない、翌二一年から二二年にかけて、各州庁の貸座敷・娼妓、料理店・芸妓に対する取締規則は再び改定された(15)。ただしこの段階で諸規定の内容自体にさほど大きな変化はなく、従前からの管理方針がほぼ踏襲されている。以後、時代の趨勢に応じて運用面では種々の変更が加えられたが、法令自体はほとんど条文を変更することなく、日本の敗戦=光復に至ったものと思われる。

*本稿で使用した台湾の地方官庁の公報類は、すべて台北の国立中央図書館台湾分館の所蔵資料である。

一 台湾在住朝鮮人人口の推移

 植民地期の台湾で日本が実施した戸口調査には、臨時台湾戸口調査・国勢調査と『台湾総督府統計書』の二つの系統がある。後者では一九三二年から四二年にかけて、毎年の「種族別」分類による朝鮮人人口を知ることができ、前者は一九〇五年から三五年まで、五年もしくは一〇年ごとの朝鮮人人口を記載しているが、分類の基準は「種族別」から「本籍・国籍別」中心へと移行している。これら二系統の統計値を、日本人・台湾人などの人口の推移と比較、整理したものが表1-1、表1-2である。以下、両表によりながら、植民地台湾における朝鮮人人口の変化の様相を概観しておきたい。

 朝鮮人が初めて台湾に渡航した時期がいつごろなのかは定かでない。ただ台湾総督府が一九〇五年に実施した臨時台湾戸口調査によれば、すでにこの年一八名の朝鮮人――正確に言えば当時の大韓帝国国籍の保有者ですべて男性――が台湾に滞在していたことを確認できる。臨時台湾戸口調査は、韓国「併合」後の一九一五年に第二次調査が実施され、このときは「種族別」分類に基づいて「朝鮮人」の人口を六名(すべて男性)と記載している。この調査を継承して、五年後の一九二〇年には台湾国勢調査が初めて実施され、以後一九三五年まで台湾では五年ごとに国勢調査が行われた(一九四〇年の実施は未確認)。なお一九三〇年以降は、従来の「種族別」に代えて「本籍・国籍別」による分類を、調査の中心に位置づけている。(各年の統計値の性格について、詳細は表1-1の備考を参照のこと。)一方『台湾総督府統計書』に、「種族別」分類に基づく朝鮮人人口が掲載されはじめるのは一九三二年のことであり、以後一九四二年まで年ごとの変遷を把握することができる。

 表1-1・1-2の両表を見ると、台湾在住朝鮮人の人口、およびそれが台湾全人口に占める比率は、ほぼ一貫して増加している。とくに表1-2に見られるような、一九三〇年代以降の順調な人口増加は、一九二七年の台湾・朝鮮間の定期航路開設(16)によるところが大きいと思われる。

 表1-2によると台湾在住朝鮮人の総数は、調査値を把握できる最終年の一九四二年に、最多の二六九二名を数えている。しかしそれでも朝鮮人がこの年の台湾全人口に占める割合は、わずか〇・〇四二パーセントに過ぎない。植民地統治期の最終段階である一九四三年以降の人口の変化は確認できないが、台湾在住朝鮮人は植民地時代の全期間を通じて、ごく少数にとどまっていたと見て間違いないであろう。

 ところで表1-1・1-2でとりわけ目を引くのが、朝鮮人の男女構成比の不均衡さである。一九二〇年まで台湾在住朝鮮人のほとんどは男性で、典型的な出稼ぎ目的の渡航であったと推測されるのに対し、一九二五年以降はそれまで皆無に近かった朝鮮人女性が男性を上回るようになった。年ごとの変化が分かる一九三二年以降の統計値では、一貫して女性が男性の、一・五倍から二倍近くに達しており、女性の比率が異常に高いのである。

 こうした傾向は、台湾に渡航した朝鮮人女性に「接客婦」が多かった点に理由を求めることができる。『台湾総督府統計書』には、朝鮮人全体の人口統計値が現れる以前から、警察取締営業中の「料理店」「飲食店」「貸座敷」「芸妓」「娼妓」「酌婦」などの項目に、朝鮮人従業者数が記載されていた。このうち「接客婦」に分類される「芸妓」「娼妓」「酌婦」「女給」などの推移をまとめたものが、表2である。この表から、一九二〇年に娼妓四名が現れたのを皮切りとして、植民地時代を通じて朝鮮人接客婦がコンスタントに増加し続けたことが分かる。彼女たちが台湾在住朝鮮人女性全体に占める割合は――統計値の不完全な一九三〇年以前は考察の対象から除外するとして――一九三〇年代前半には約四割に達しており、一九四〇年代初頭の時点でも三割近くという、通常では考えられないような高率を示していた。植民地台湾における朝鮮人女性の比率の高さは、まさしくこのような接客婦の多さに起因していたのである。


(1)近代における日本「内地」の公娼制度の内容を、簡単に説明しておく。一八七二年の「芸娼妓解放令」(太政官布告第二九五号)で、日本政府は人身売買の禁止を確認するとともに「芸妓」(いわゆる芸者)、「娼妓」(国家公認の「売春婦」=公娼)を解放すると定めた。だが日本政府には公娼制度そのものを廃止する意思はなく、従来の「女郎屋」は形式上、自らの自由意志によって「売春」を行う娼妓に場所を提供する「貸座敷」(貸席ともいう)という営業形態に改められた。しかし女性たちの身柄を拘束する前借金の制度は維持されたため、人身売買も事実上、存続したのであった。一九〇〇年に制定された「娼妓取締規則」(内務省令第四四号)には、娼妓の自由廃業の規定が盛り込まれたが、前借金制度の存在により、実際には自由廃業は困難であった。

(2)本稿では買売春に関連する業種を「接客業」または「風俗営業」と総称し、これに従事する女性を「接客婦」と呼ぶことにする。具体的に言えば、「接客業」「風俗営業」とは、注(1)で説明した貸座敷をはじめ、料理店、飲食店、カフェーなどを指し、「接客婦」としては貸座敷に抱えられた公娼=娼妓のほか、芸妓、酌婦、女給などを想定している。

 なお筆者はこれまで「風俗営業」という用語を主に用いてきたが、この言葉は朝鮮語や中国語に翻訳した場合、意味が把握しづらいため、本稿ではできるだけ「接客業」で統一することにした。

(3)拙稿「上海の日本軍慰安所と朝鮮人」『国際都市上海』大阪産業大学産業研究所、一九九五年。

 同「日露戦争と日本による「満州」への公娼制度移植」『快楽と規制〈近代における娯楽の行方〉』大阪産業大学産業研究所、一九九八年。

 同「朝鮮植民地支配と「慰安婦」制度の成立過程」VAWW-NET Japan編『「慰安婦」・戦時性暴力の実態T――日本・台湾・朝鮮編(日本軍性奴隷制を裁く――二〇〇〇年女性国際戦犯法廷の記録 第三巻)』緑風出版、二〇〇〇年。

(4)廖秀真(森若裕子・洪郁如訳)「日本統治下の台湾における公娼制度と娼妓に関する諸現象」林玲子・柳田節子編『アジア女性史――比較史の試み――』明石書店、一九九七年、四二一、四二八頁、駒込武「台湾植民地支配と台湾人「慰安婦」」前掲『「慰安婦」・戦時性暴力の実態T』所収、一二六〜一二七頁、など。

(5)台湾総督府の編纂による年次統計書は、一八九七年(または一九八七年度)の各種統計値を集成した『台湾総督府第一統計書』が一八九九年に刊行されて以来、一九四二年(度)の統計値を掲載した『台湾総督府第四六統計書』(一九四六年刊行)までの発行を確認できる。本稿では、これを『台湾総督府統計書』と総称することにする。なお統計書の編纂・発行部署は、台湾総督府民政部文書課→台湾総督官房文書課→同統計課→同調査課→台湾総督府企画部→同総務局→台湾総督府、と変遷している。

(6)吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店、一九九二年、三九〜四六頁。駒込、前掲論文、一三七〜一一三九頁。

(7)駒込、前掲論文、一三九頁の表5-3。なお駒込氏の統計処理の考え方については、後出の注(32)を参照。

(8)早川紀代「海外における買売春の展開――台湾を中心に――」『季刊戦争責任研究』第一〇号、一九九五年一二月、廖秀真、前掲論文、駒込、前掲論文、など。また、竹中信子『植民地台湾の日本女性生活史』第一巻(明治篇)・第二巻(大正篇)、田畑書店、一九九五・一九九六年、にも随所に関連する記述があり参考になる。

(9)以下は、拙稿、前掲「朝鮮植民地支配と「慰安婦」制度の成立過程」二〇三〜二〇四頁の叙述を、若干修正、加筆したものである。

(10)廖秀真、前掲論文、四一五、四一九頁。

(11)台中県令第一号「料理屋飲食店営業」(一八九六年七月二一日発布)、同第二号「貸座敷並ニ娼妓取締規則」(同年七月二六日発布)、同第三号「娼妓身体検査規則」、同第四号「娼妓治療所規則」、同第六号「密売淫取締規則」(以上、同年七月三〇日公布)、など。これらは、国立中央図書館台湾分館所蔵『台中県報』複写合本に収載されている。

(12)料理店・芸妓などについては、台南県令第三号「料理店並飲食店取締規則」(一八九六年八月七日公布)、同第一〇号「芸妓稼業取締規則」(同年一〇月二三日公布)。貸座敷・娼妓については、台南県令第一〇号「貸座敷並娼妓取締規則」、同第一一号・貸座敷営業区域指定(以上、一八九八年五月二〇日公布。『台南県報』第九四号)、同第一三号「娼妓身体検査規則」(同年六月一七日公布。『台南県報』第九八号)。以上は、国立中央図書館台湾分館所蔵『台南庁報』複写合本に収載。

(13)廖秀真、前掲論文、四一五頁。鷲巣敦哉『台湾警察四十年史話』私家版、一九三八年、一五六頁。

(14)例えば台北庁が制定した法令は、台北庁『庁報』第四六〇号、一九〇六年三月七日、に掲載されている。

(15)台北の国立中央図書館台湾分館所蔵の各州公報や、日本の国立国会図書館法令議会資料室所蔵の警察法規集より、このとき台中・台南・高雄・新竹の各州で、新たな「貸座敷及娼妓取締規則」が制定されたことを確認できる。

(16)近海郵船株式会社(一九二三年設立)は、台湾総督府命令航路として、一九二七年に高雄・大連・仁川線(三角航路)を開設し(主な寄港地は、高雄・基隆・大連・鎮南浦・仁川・釜山)、この航路は同社が親会社の日本郵船株式会社に合併される一九三九年の時点で、月二回以上運航されていた(日本郵船株式会社編『七十年史』同社、一九五六年、一四六、二二九〜二三二頁)。

(補注)本稿脱稿後に、岡本真希子「在台湾朝鮮人についての覚え書」『朝鮮史研究会会報』第一四二号、二〇〇一年一月、が発表された。この文章は、朝鮮史研究会関西部会二〇〇〇年九月例会の報告要旨であるが、筆者もこの例会に出席し、岡本氏の報告から示唆を受けたことを付言しておく。


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表1-1・1-2  表2  表3  表4  表5  表6  表7  表8

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