植民地台湾における朝鮮人接客業と「慰安婦」の動員

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二 接客業従業者の特徴

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表9  表10  表11  表12-1・12-2  表13-1・13-2  表14  図1


二 接客業従事者の特徴

 『台湾総督府統計書』の警察取締営業として、「料理店」「飲食店」「貸座敷」「芸妓」「娼妓」「酌婦」など、接客業関係の項目が現れるのは一九一五年のことであり、一九三二年からはこれに「カフェー」「女給」が追加された。表3〜10はこれを民族別(台湾総督府側の当時の用語では「種族別」)に区分し、とくに朝鮮人については居住州庁別に細分して一覧表にしたものである。

 まず表3を見ると、朝鮮人の料理店業者は一九二二年に初めて出現、漸増した後、二〇年代後半には停滞していたが、三〇年代初めに急増し、中盤に落ち込む時期があったものの後半は回復して、三七年の五八軒をピークに漸減傾向に転じている。

 一般に料理店で客の接待にあたるのが、「芸妓」に分類される女性であり、朝鮮人芸妓の中には日本式の「芸者」だけでなく、「妓生」も含まれていたはずである。しかし表6によれば、台湾在住の朝鮮人芸妓はごくわずかであり、料理店の数的変遷とも連動していない。朝鮮人芸妓は料理店が出現する前年の一九二一年に、すでに統計に現れているが、その数は一九二五年の一九名を例外として、四名を超えることはなかった。しかも州庁別に見ると、一九三三年から三八年にかけての高雄州の事例を除けば、朝鮮人芸妓が一定地域で営業し続けた可能性のあるケースは見当たらない。要するに朝鮮人芸妓は台湾社会に定着しなかったわけだが、それならば朝鮮人経営の料理店で、どのような女性が接客にあたったのかが疑問点として浮かび上がってくる。

 この料理店と芸妓の関係とは逆の意味で、統計値が連動していないのが、飲食店と酌婦の関係である。このころ飲食店に分類された業種の中には、大衆的な酒場などの享楽施設が含まれている(17)。表4に見られるように、台湾において朝鮮人経営の飲食店は、一九三四年になってようやく継続的に現れるものの、最高でも三軒にとどまる、ごく少数者の職業であった。一方、酒場で客を接待するのが、一般に酌婦とよばれる女性であるが(表8)、朝鮮人酌婦は一九二二年に初めて出現し、三〇年代初めには百名を超え、三〇年代後半には二百名以上に達していた。台湾在住の朝鮮人酌婦は、朝鮮人経営の「飲食店」で働いていないケースが圧倒的に多かったわけである。(ことによると朝鮮人経営の「料理店」で酌婦が接客にあたったケースが存在したのかも知れないが、現時点では判断できない。)なお新しいタイプの接客業と言うべきカフェーとそこで働く女給は、朝鮮人の場合ごくわずかであり(表9、表10)、朝鮮人接客業の中でも業種によって、かなり台湾社会への浸透度が違っていたことが分かる。いずれにせよ、台湾での朝鮮人接客業の形態は、日本「内地」や朝鮮のそれとはいささか違った様相を示していたと言えよう。

 さて台湾における朝鮮人接客業の中で、とくに注目されるのが、娼妓=公娼と、これを抱える貸座敷の動向である。表7を見ると、一九二〇年に初めて出現した朝鮮人娼妓が、以後漸増しながら一九三〇年には一二九名となって台湾人(一一九名)を逆転し、以後両者の較差は年ごとに広がっていく。朝鮮人娼妓数は三〇年代後半にやや落ち込む年があったものの(18)、ほとんど一貫して増加傾向を示しており、四〇年前後には二五〇名に迫る勢いを見せ、台湾全体の娼妓数の約四分の一を占めるに至った。この点は、一九一〇年代後半より停滞もしくは漸減傾向にあった日本人・台湾人娼妓の動向と、著しい対照をなしている。

 一方、表5によれば朝鮮人経営の貸座敷は、娼妓より一年遅れて一九二一年に初めて現われて以来、微増を続け、三〇年代に入ってからはほぼ横ばい状態になっている。この停滞現象の理由としては、当局によって政策的に朝鮮人貸座敷の開業が抑制された可能性もあるが、朝鮮人娼妓の増加傾向と比較して考えると、両者が連動しながら推移しているとは必ずしも言えないようである。なお娼妓・貸座敷ともに四〇年代に入って若干減少しているのは、戦時体制の下で、享楽施設の利用が規制されはじめたことによるものであろう。

 台湾における朝鮮人の貸座敷業者や娼妓の状況を記録した文献はきわめて少ないが、収集できた範囲で紹介しておこう。台湾側の出版物でも、朝鮮人妓院が出現したのはやはり一九二一年前後のこととされており、古くからの娼家街として知られる台北の■■(のち萬華(19))に「半島楼」「朝鮮楼」など六軒の妓院が開業し、また台南の新町遊廓(20)でも朝鮮人妓院が開かれたという(21)。時期が下がって一九四〇年の時点では、台北の大稲■遊廓(22)で営業していた娼家二五軒の中に、「朝鮮楼」「新鮮楼」「新朝鮮楼」「半島楼」など明らかに朝鮮人経営と見られるものがあり、同遊廓の娼妓二二〇名中、四二名が朝鮮人であったという(23)。先に紹介したこの時期の統計値よりやや比率は低いものの、全体の一九パーセントを朝鮮人が占めていた計算になる。

 このような台湾での買売春の状況を、当時の警察当局者は次のように観察していた。一九三四年発行の雑誌論文からの引用である。

……台湾には公娼制度は認められてゐるけれども、それは殆んど内地人向きの公娼制度という実況で、全島に本島人向の遊廓(貸座敷)は二三軒しかないのであるから、大多数の本島人青年の欲望を満たすが為めには、多数の密売淫が行はれることになるのも已むを得ないことであらう(24)

 これは時期的に見て、日本の公娼制度がすでに台湾に根を下ろした段階での叙述と言える。しかるにこの時点でも台湾の公娼は、ほとんどが日本人を対象としていたと言うのである。したがって台湾に渡航してきた朝鮮人の貸座敷業者や娼妓も、主として日本人向けの営業が目的だったのではなかろうか。

 では台湾に朝鮮人娼妓が多い現象は、いかなる原因によるのだろうか。

 何よりも根本的な理由として、女性を送り出す側の朝鮮社会に、日本の支配の下で一九一〇年代末までには、公娼制度を中核とする日本の買売春システムが定着していたと考えられる点(25)を、まず指摘しておかなければならない。こうした状況の中で、先述のように、台湾では「内地」や朝鮮よりも娼妓の年齢下限が低いこと(一六歳)が、低年齢の朝鮮人女性を台湾に流入させた可能性がある。植民地朝鮮で「稼業」する娼妓の年齢は、日本人よりも朝鮮人の方が低く(26)、このことは貧困などの要因によって、低年齢層の「娼妓予備軍」が朝鮮社会に蓄積されていたことを示すからである。 また一九三五年に発行された警察資料には、次のような説明がある。

本島人は一般に娼妓となるのを嫌ふ傾向があるので本島人貸座敷は全島数へる程しかない。尚ほ前借金が少くて済む関係もあつて朝鮮人を娼妓に抱へ来るものも少くなく寧ろ本島人を凌駕する数字を示してゐる。(27)

 右の引用文からは、日本式の貸座敷・娼妓営業が台湾の風土になじまない存在であったことが読みとれるが(28)、一方で、朝鮮人娼妓が多い原因の一つとして、前借金が日本人より低額であったことが指摘されている。朝鮮人業者が日本人娼妓を抱えることはまれなケースに属するので、日本人と比較して朝鮮人女性の「前借金が少くて済む」点に着目するのは、主として日本人業者であったはずである。したがってこの資料の内容は、日本人の貸座敷業者が朝鮮人娼妓を抱えていた状況を示唆するものと言えよう。実際、先に述べたように、統計上初めて台湾に朝鮮人娼妓が現れるのは一九二〇年のことであり、朝鮮人貸座敷業者の出現(一九二一年)より一年早い。すなわち台湾で朝鮮人娼妓を抱えた最初の貸座敷業者は、朝鮮人ではないことになる。

 とすれば、朝鮮人娼妓が台湾に渡航する契機は、日本人業者によってつくられたと考えるのが自然であろう。そしてその後も台湾では、相当数の朝鮮人女性が日本人業者に娼妓として抱えられていた可能性が高いのである。


(17)台湾の警察当局では「料理店」と「飲食店」を次のように区別していた。「一料理店業/一定ノ客席ヲ設ケ飲食物ヲ来客ニ供シ之ヲ販売スルヲ目的ト為ス営業ヲ謂フ」「客室ヲ設クト雖モ鮓、麺類、飯類、汁粉、酒類、氷ノ販売ヲ専業ト為ス者ハ飲食店業者ト見做ス但シ客室ハ仕切ヲ為サス婦女ヲ客席ニ侍ラセシメサルコト」(一九二三年一一月二〇日、警保第七八〇六号警務部長通牒「席貸貸座敷料理店飲食店ノ区別ニ関スル件」台南州警察部編『台南州警察法規(一)』帝国地方行政学会、一九三一年、第三編保安、二三頁)。

(18)表7を見ると、一九三〇年代後半の朝鮮人娼妓数は、一八一名(三五年)→一五八名(三六年)→一九八名(三七年)→一五五名(三八年)→二四〇名(三九年)と激しく上下しているが、三六年と三八年に娼妓数が減少したのは、両年の花蓮港庁での統計値がゼロになっているところに主な原因がある。これが単なる記載漏れ(もしくは調査漏れ)によるものか、あるいは後述する日中戦争期の「慰安婦」動員政策などが影響しているのかについては、現時点では判断できない。

(19)■■地区は一八九六年六月に、当時の台北県が貸座敷営業地域に指定した(廖秀真、前掲論文、四一七頁)。淡水河のほとりに位置する同地区は三つの埠頭が建設されたことで栄え、地区内の凹■仔(現・華西街)に多数の娼家が開業したと言う。日本の植民地統治初期より、日本人の貸座敷営業も盛んに行われた模様である。

(20)台南市の新町一丁目、二丁目は、一九一九年四月の台南庁令第三号により、台湾人の貸座敷営業地域に指定された(『台南庁報』第四二六号、一九一九年四月一二日)。

(21)婦女救援基金会主編『台湾慰安婦報告』台北、台湾商務印書館、一九九九年、八五頁。なお、柯瑞明『台湾風月』台北、自立晩報社文化出版部、一九九一年、一四〇頁、にも同様の記述があり、「生嶋楼」「半島楼」「鮮月楼」「新鮮楼」「朝鮮楼」「新朝鮮楼」などの「韓国妓院」を紹介しつつ、その規模は「日本妓院」より大きくはなかったと述べている。ただし同書が、登楼者は「韓国人」と台湾人であり、「韓国妓女」は民族意識が強かったため日本人の接待を喜ばなかったと記している点は、後述する同時代の記録から考えると疑問が残る。

(22)一九二八年四月七日、大稲■地区の九間仔街(現・南京西路)は台湾人の貸座敷営業地域に指定された(台北市文献委員会編『台北市史』巻四〔社会志〕・風俗篇、台北市政府、一九八八年、一八〇頁)。大稲■は萬華に比べると街の発展は遅れたが、清朝統治の末期、付近に台北駅が建設されたことで、徐々に萬華をしのぐ繁華街となったと言う(又吉盛清『台湾 近い昔の旅〈台北編〉――植民地時代をガイドする――』凱風社、一九九六年、二一三、二二七頁)。また萬華地区の河床が土砂のため高くなり埠頭が大稲■に移ったため、娼家も萬華の凹■仔より、大稲■の九間仔街から六館仔街へ至る地域に移転したとも言う(前掲『台北市史』風俗篇、一七九頁)。

(23)又吉盛清『日本植民地下の台湾と沖縄』沖縄あき書房、一九九〇年、六九〜七〇頁。

(24)畠中市蔵「台湾の犯罪に就て」『台湾時報』第一七一号、一九三四年二月、三七頁。

(25)この問題については別稿を用意しているが、さしあたり、拙稿「一九一〇年代の朝鮮人風俗営業――日本公娼制度の定着過程―― 」『青丘文庫月報』第一五六号、二〇〇一年一月(http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/sb/200101geppou.html)を参照のこと。

(26)宋連玉「日本の植民地支配と国家的管理売春――朝鮮の公娼を中心にして――」『朝鮮史研究会論文集』第三二集、一九九四年一〇月、五九〜六〇頁。

(27)『台湾の警察』台湾総督府警務局、一九三五年、一〇〇頁。


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