植民地朝鮮における公娼制度の確立過程

本文・注(3)

III 植民地公娼制度の確立
1. 新規則の制定
2. 遊廓の第2次再編
3. 接客婦の増加と女性売買構造の「日本化」
おわりに

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III 植民地公娼制度の確立

1. 新規則の制定

  植民地朝鮮において公娼制度が全土で統一的に実施されたのは、1916年3月31日に公布された警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)によってである。前述のように、それまで朝鮮での接客業は、開国後の領事館法令を引き継いだ保護国期の理事庁法令、大韓帝国の警察当局が制定した諸法令、そして「併合」後に警務総監部や各道警務部が定めた法令などによって取り締まられていた。しかし日本人と朝鮮人で適用する法令が異なり、また領事館令・理事庁令の施行地域が行政区域と一致しないなど、運用上きわめて煩雑であったこと(『毎日申報』16/04/01)、また「第二種芸妓」などの名称が「出稼者をして往々誤解を招かしむるのみならず、中には故らに芸妓と称して応募者を誘惑する」事態が発生したこと(『朝鮮新聞』16/02/18)などの理由から、全面的な制度改定が実施されたのである。

  また「貸座敷娼妓取締規則」と同時に、警務総監部令第1号「宿屋営業取締規則」、同第2号「料理屋飲食店営業取締規則」、同第3号「芸妓酌婦芸妓置屋営業取締規則」も公布された。「三年余の日子を費し各道の風俗、人情、衛生等に就き巨細調査を遂げた」(『京城日報』16/04/01)結果、植民地朝鮮において性風俗政策の根拠となる法体系が一通り整うことになったのである。

  「貸座敷娼妓取締規則」はその標題が示す通り、それまで「国家の体面」上、日本が法令用語としての使用を避けてきた「貸座敷」と「娼妓」に対する管理法規であった。すなわち従来の「第二種」料理店、「乙種」芸妓などの不明確な呼称は廃止され、日本内地に合わせてこれらを「貸座敷」「娼妓」として取り扱うことになったのである。この規則の内容についてはすでに先行研究が詳しく分析しているので、ここでの詳述は避けるが、その植民地的な特徴として、@日本人・朝鮮人娼妓ともに、年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定されたこと(第17条)、A自由廃業や文書閲覧・物件所持の自由など、娼妓に対する人権保障規定が内地法令に比べて不徹底であったこと、などには注目しておきたい。ただし一方で、これら一連の接客業取締り法令が制定されたことにより、日本内地と基本内容を同じくする制度が朝鮮へ本格的に導入された点は、やはり重視しなければならないだろう。

  一連の法令は、言うまでもなく日本人・朝鮮人に等しく適用することを原則としていた。娼妓の最低年齢設定に見られる折衷的態度は、こうした原則にもとづく妥協的措置と言える。それまで平安北道・黄海道・忠清北道など一部地方では「芸妓」の最低年齢を、日本人は内地と同じ18歳、朝鮮人は16歳と規定していたのだが、「貸座敷娼妓取締規則」では両者の中間をとって娼妓の最低年齢を17歳と定めたのである。

  しかし多くの場合は、朝鮮人接客業を日本の接客業の分類に押し込めて管理するため、朝鮮人接客業の枠組み自体を再編成し、その存在形態の変更を要求する方針が追求された。まず妓生のケースについて見ておこう。

  「料理屋飲食店営業取締規則」では料理屋営業者の芸妓置屋兼業を禁じていたものの(第5条)、施行日より1カ月以内に届け出れば3年間の兼業が認められることになっており(第29条)、芸妓置屋を兼業する日本人料理店の営業形態がただちに変更を余儀なくされたわけではなかった。しかし一方で芸妓置屋に対しては、料理店兼業を禁止したことはもちろん(「芸妓酌婦芸妓置屋営業取締規則」第10条)、料理店営業者のような猶予期間も設定されなかった。自宅に客を招いて宴席を設ける従来の妓生の営業形態は、芸妓置屋の料理店兼業と見なされ継続できなくなり、朝鮮人側では「大狼狽を極めてゐる」と報道された(『朝鮮新聞』16/05/14)。その結果、妓生の自宅は妓生と妓夫・収養父母の住居としての機能しかもたなくなり、妓生の伝統的な営業形態は消滅していった。妓生の営業の場は料理店に限定されたため、料理店と妓生をつなぐ券番の組織が必要となり、ソウルの妓生組合は券番へと衣替えすることになる。こうして諸規則が施行された翌年の1917年春ごろ、前述のように大正組合から分離、設立された漢南組合は、早くも同年7月に「漢南券番」へと衣替えすることになった(『毎日申報』17/08/02)。続いて翌1918年1月には広橋組合が漢城券番に、大正組合は大正券番へと改編されたのである(『京城日報』18/01/29夕)40)

  ところで一連の規則が公布された直後の1916年5月19日、かねてより「妓生」への「昇格」を希望していた三牌の新彰組合の女性たちに対して、娼妓免許を返還させ、改めて妓生免許を下付する措置がとられた(『毎日申報』16/05/21)。従来「娼妓」に分類されていた三牌が、性風俗政策関連の法体系整備を機に、彼女たちの望み通り「妓生」へと「昇格」したのである。それは彼女たちが技芸
の修練を積み、各種演奏会を活発に開くなどの努力を積み重ねた結果でもあるが41)、一方で妓生の「低俗化」を示唆する現象と見ることもできる。ともかくこの措置によって「妓生」の範囲が確定した。1918年にソウルで色酒家や蝎甫を遊廓に移転させる計画が進められたとき(後述)、移転を嫌った女性たちが「妓生」となることを、警察当局は認めなかった42)。1918年1月には新彰組合も、漢城・大正・漢南の3券番と同格の京和券番へと改編され(『京城日報』18/01/29夕)、三牌の「妓生」としての地位は確固たるものとなった。

2. 遊廓の第2次再編

  「貸座敷娼妓取締規則」では、貸座敷営業を指定地域=遊廓内に限定しながらも(第3条)、朝鮮人娼妓を抱える貸座敷営業者に対しては「当分ノ間」この規定を適用しない措置をとっていた(第42条)。一連の規則のなかで、法文上、朝鮮人に対する適用除外規定を設けたのはこの項目だけであり、植民地権力が、日本式の集娼政策はいまだ朝鮮社会の実情にそぐわないケースがあると判断した結果であろう。

  しかしソウルでは「朝鮮人にして蝎甫と称せるものは之れを娼妓と称する」と定義したうえで「京城市(ママ)の蝎甫に対しては最も急速にその[営業地域の]制限を為すべき方針」が定まっていた(『京城日報』16/04/01)。朝鮮人「蝎甫」(=色酒家)を「娼妓」として営業指定地域に集中させる方針が、新規則制定の段階で表明されていたのである。ソウルの警察当局は、朝鮮人に対する集娼政策も積極的に進める構えであった。

  新規則制定の前から朝鮮人女性を対象として集娼化を求める声は上がっていた。「併合」前に大韓帝国の警察当局が三牌を詩洞に集中させようとしたことは前述の通りであるが、「併合」後の1914年2月には、日本人商業会議所が朝鮮人「娼妓」を一定の場所に集めることを決議している(『毎日申報』14/03/01)。ただし新規則制定後に営業地域指定の対象となったのは、すでに「妓生」に「昇格」した三牌ではなく、「酌婦」との境界が曖昧な「蝎甫」「色酒家」であった。

  1917年2月末、ソウルの本町署では所轄管内の色酒家に対し、3月15日までに新町遊廓東隣の並木町(現・双林洞)に移転するよう命じた。当時の状況は次のように報道されている。

いま本町署管内の色酒家は、北米倉町・並木町その他にいる者を合わせて総数が213名であり、その戸数は106戸の多数に達しているが、最も多いのは北米倉町で酒を売る娼妓と、そのほかいわゆるチョットというのが多く、市街の体面と風教上、関係が少なくない……(『毎日申報』17/03/01、原文朝鮮語)。

  色酒家は「酒を売る娼妓」とも「チョット」とも言い換えられており、このころの彼女たちの営業形態を垣間見ることができる。「チョット」とは明らかに日本語から来た言葉で、日本人を対象とする酒場の女性が増加していることを窺わせる。以下、史料上では「色酒家」「蝎甫」「娼妓」などの語が入り混じっているが、原資料の使用例にしたがって移転の経緯を紹介したい。

  本町署は「色酒家」に並木町への移転命令を出したものの、このころ並木町には家屋が多くなく、ただちに全員が移転することはできないので、さしあたり並木町と、三牌が集められていた笠井町(旧・詩洞)の2カ所に移転することとし、並木町の家屋事情が好転した段階で、全員をこの地域に集めることにした(『毎日申報』17/03/01)。警察当局は1917年8月に貸座敷営業地域を拡張し43)、新町遊廓東側の4893坪を遊廓地に加えた(『朝鮮新聞』17/08/19、『毎日申報』17/08/22)。のちに「東新地」と名づけられたこの地域(並木町)は、日本人貸座敷業者の出資で造成されたと言われる )。本町署では1918年春よりこの地域に家屋を建てはじめ、同年末に工事が完成したので、北米倉町の朝鮮人「娼妓」は12月27、28両日にすべて移転し、残る笠井町の「娼妓」も翌1919年3月までに移転させる予定であった(『毎日申報』18/12/29)。こうして1919年に北米倉町・笠井町の「蝎甫」は並木町「東新地」に移転させられた )。「色酒家」「蝎甫」は「娼妓」となり、ソウルに初めて朝鮮人営業者の遊廓が誕生したのである。

  ただしこのとき「東新地」に移転させられたのは、北米倉町・笠井町所在の営業者たちだけであった模様である。1918年7月京畿道警察部では次のような方針を定めていた。

一、新町以外ノ地域ニ於ケル鮮人(ママ)貸座敷営業ハ現在以上可成許可セサルコト但龍山ヲ除ク
[中略]
五、移転実施後[京城]府内ニ散在スル鮮人(ママ)貸座敷営業者カ彼是移転セントスルトキハ可成新町拡張区域ニ入ラシムル方針ヲ執ルコト46)

  北米倉町・笠井町以外の地域に居住していた朝鮮人「貸座敷営業者」に対しては、その数を増やさないことを前提に営業の継続が認められた。本節冒頭で紹介した「貸座敷娼妓取締規則」第42条の例外規定にもとづきとられた措置であろう。ただしこれはあくまでも「貸座敷」「娼妓」の免許を持つ者だけに対する措置であったと思われる。「娼妓」とならなかった「色酒家」「蝎甫」や、「妓生」「娼妓」の枠からはみ出した隠君子(二牌)などは、次節で述べるように、私娼として警察当局による取締り、検挙の対象になっていった。

  ところで釜山・仁川・平壌など一部地域では、ソウルに先だってすでに朝鮮人「娼妓」の集娼化を進めていたが、朝鮮全土で本格的に遊廓の再編成が進められたのは、やはり「貸座敷娼妓取締規則」が制定された後のことである。新規則制定後、各道がこれに対応して法制度を整備するなか、遊廓の移転・拡張・新設・廃止が各地で実施されている。1916年から20年にかけて公布された営業地域指定に関する各道の告示を、新聞報道の内容などと総合すると、このときの遊廓再編成は以下のような特徴をもっていた。@それまで地方によっては管轄警察署の裁量で指定していた営業地域を、改めて各道警務部告示の形式で明確に指定した。A日本人の増加などで遊廓所在地が市街地中心部に位置するようになった場合は、市街地のはずれや郊外へ移転する措置がとられた(元山、鎮南浦、大田)。B日本人はもちろん朝鮮人営業者に対しても可能な限り遊廓への集中がはかられた(鎮海、咸興)。C日本人遊廓と朝鮮人遊廓は同一地区内にあるものの基本的に営業地域は分離されていた(明確な例として兼二浦)。

  紙幅の関係上、具体例は省略せざるを得ないが、ソウルで見られたような朝鮮人営業者に対する集娼政策は、「貸座敷娼妓取締規則」の制定を契機に朝鮮全土で実施されはじめていたのである。

3. 接客婦の増加と女性売買構造の「日本化」

  一連の新規則が制定された第一次世界大戦期の前後で、朝鮮社会の性風俗意識やこれを取りまく状況は大きく変化していた。このころ朝鮮で発行されていた新聞は戦争景気にわく花柳界の模様をしばしば伝えており、のちに「大正四五年[1915、16年]から大正八・九年[1919、20年]頃迄は京城の花柳界に再び春が訪れ、全盛を極めた」47)と回顧される時期となった。

  1910年代半ばから20年代初頭にかけて、朝鮮の娼妓数は日本人・朝鮮人ともに急増した。『朝鮮総督府統計年報』に掲載された朝鮮人娼妓数は、第一次大戦前の1913年に585名であったのが、戦争終結後の1919年には1314名と、2.2倍も増えている48)。「元来当局に於いて鮮人(ママ)芸娼妓を減少せしむる方針であるに拘わらず、此反対の現象を見るに至ったのは、一般の需用が増加した結果」ということであった(『大阪朝日新聞鮮満版』19/07/17)。戦争景気により「発展」した朝鮮人接客業は、態勢を整えたばかりの日本の性風俗管理制度のもとで「日本化」を余儀なくされることになる。

  一連の規則が施行された直後の時期、ソウルの警察当局では私娼に対する取締りを強化した模様である。記事によっては「一時は八百近くも居た京城の私娼も総監部令発布と同時にドシドシ検挙されて今は早くも二百ばかりに減少した」(『朝鮮新聞』16/07/30)とその成果を強調するものもあった。しかし一方では「私娼中検挙されたるものは……僅々三十人にも満たぬ」(『朝鮮新聞』16/08/05)と、同じ新聞が1週間も経ないうちに全く矛盾する内容の記事を掲載しており、取締り強化の成果が本当に上がったのかは、はなはだ疑問である。

  諸規則の施行から2年が経った1918年夏のソウルでは、本町署管内(日本人居住地域にほぼ重なる)に312軒の料理屋があり、その350名の雇女のうち250余名が私娼と目され、これに鍾路署管内の朝鮮人「売春婦」を加えるとおびただしい数となると見られていた(『朝鮮新聞』18/07/07)。本町・鍾路両警察署ではたびたび臨検などを実施しており、たとえば1918年6月10日の臨検において、本町署は抱主21名と女性35名(記事によっては31名)を検挙し、抱主は拘留20日、女性は同3日の即決処分に処し、また鍾路署でも17名を検挙したという。本町署に検挙された女性たちは「規定の年齢に達してゐない甚しいのは十三歳の少女」「民籍の判明してゐないもの」「家人の承諾を得ず身を売られてゐるもの」「鑑札を受けず稼いでゐるもの」「其の他相当取締りの網を潜つてゐる娼婦」などであった(『京城日報』18/06/12夕、『毎日申報』18/06/12)。

  朝鮮人接客婦が多数存在するようになった背景として、このころの新聞報道は次のように伝えている。

  京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた形跡がある……(『京城日報』18/06/12夕)。

  戦争景気に後押しされた娼妓の需要増大は、朝鮮社会に日本と同じような女性売買の構造を移植する結果をもたらした。前述のように、この時期以前の朝鮮人女性の誘拐・売買事件は主として「妻」として売ることを目的に発生したものであった。しかしとくに1910年代の後半になると、甘言に騙され、誘拐された女性が娼妓などに売られるという報道が目立って増加している。植民地朝鮮においても女性売買によって娼妓などの接客婦が供給されるという日本と同様の仕組みが、社会に根を下ろしはじめていたのである。

おわりに

  植民地朝鮮における日本の公娼制度は、1916年の「貸座敷娼妓取締規則」をはじめとする一連の接客業取締規則の制定を契機に確立した。それはたんに法制度が整備されたという意味からだけではなく、従来の朝鮮人接客女性(妓生、隠君子、三牌、色酒家・蝎甫)が、日本の警察当局が定めた「芸妓」「娼妓」「酌婦」という分類にあわせて再編成された現象をも含んでいる。遊廓に集中させる基本方針がとられた娼妓と、それ以外の接客婦との間は、空間的にも理念的にも明確な線引きが図られ、娼妓=公娼以外の「売春」する女性は私娼として摘発の対象となった。

  日本側の基準で再編成された朝鮮人接客業においては、日本人接客業の営業形態を参酌して存続をはかろうとする傾向が、従来よりもいっそう強まったことであろう。券番制度を導入せざるを得なかった妓生はその典型であるが、その他の接客業も事情は同様であったと思われる。また「チョット」という呼称の出現に象徴されるように、日本人を対象とする朝鮮人接客業もいっそう拡大する傾向にあった。こうした状況は営業者のみならず、朝鮮社会全般にわたって性風俗意識の面での「日本化」を加速化させたものと見られる。

  一方、公娼制度の確立と時期を同じくして、朝鮮社会では第一次世界大戦による好景気が接客婦需要の急増をもたらしていた。「日本化」した性風俗意識の持ち主たちは、日本式の女性売買にもとづく接客婦供給の仕組みを導入することによって、接客婦需要の増大に応えようとした。誘拐・詐欺などの手段をも駆使しながら接客婦を供給する女性売買のメカニズムが、この時期に形成されていったのである。

  同時期に進行していた現象は、以上にとどまらなかった。旧稿で触れたように、この時期には朝鮮人接客業が朝鮮の外へと移動する現象もはじまっていたのである。第一次大戦期には朝鮮在住の日本人接客業者が多数、占領地の青島に渡っており(『朝鮮新聞』15/01/26、15/01/27、15/01/29、15/02/11ほか)、こうした日本人業者の移動は朝鮮人にも強い印象を与えたことであろう。日本人業者と競合する形で青島に渡航した朝鮮人営業者はごく少数と思われるが、歴史的に関係が深く、すでに鉄道で連絡されていた中国東北地方(満洲)には、日本の支配下にあった関東州・満鉄沿線地域を中心として、この時期に朝鮮人接客業者の移動がはじまっていた。中国東北地方のうち日本の影響下におかれた地域にも、すでに日本の公娼制度が導入されていたのである49)

  こうして植民地朝鮮社会においては、第一次大戦期の公娼制度確立や接客婦需要の急増などを背景として、日本内地と同様の性風俗営業を支える仕組みが定着していった。そして再編成された朝鮮人接客業は、朝鮮内の事情ばかりでなく、他の東アジア諸地域の動向にも規定されながら活動範囲を拡大することになる。朝鮮における植民地公娼制度の確立は、土壌を同じくする性管理システムをもった日本「帝国」内の他地域との間に、性風俗営業のネットワークを形成する契機ともなったのである。


40) ただしソウルで実施されたような強引な措置は、必ずしも朝鮮全土で一律に実施されたわけではなかった模様である。たとえば慶尚南道では私娼の跋扈を恐れる立場から、妓生の自宅を「料理屋」とするよう誘導するなど、ソウルとは正反対の方針がとられていた(前掲「妓生及鮮人娼妓ノ為其ノ父兄等ニ料理店又ハ貸座敷営業許可ニ関スル件」270)。

41) 姜貞淑、前掲論文、232-233。

42) 1918年9月、京保第5703号「鮮人貸座敷移転ニ伴フ取締方ノ件」京畿道警察部編『京畿道警察法令聚』朝鮮警察協会京城支部、1924年(加除式、1927年12月現在。青丘文庫所蔵本)54ノ2-55。

43) 1917年8月27日、京畿道警務部告示第1号。

44) 赤萩与三郎、前掲「遊廓街二十五年史」48。

45) 同前。

46) 前掲「鮮人貸座敷移転ニ伴フ取締方ノ件」54ノ2-55。

47) 市井散人「京城花柳界の今昔」『朝鮮及満洲』293(1932年4月)102。

48) 『朝鮮総督府統計年報』掲載の娼妓実数値は精度に問題があるが、同一基準にもとづく通時的なデータであるので、増減の傾向については参考になると思われる。

49) 前掲拙稿(2000)参照。


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