植民地朝鮮における公娼制度の確立過程

本文・註(1)

はじめに
I 「併合」までの買売春管理政策
1. 朝鮮人接客女性の「出現」
2. 朝鮮人接客業に対する管理のはじまり

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はじめに

日本の近代が幕を開け、海外への渡航者が増加するなか、その先頭を切る形で多数の売春業者がアジア・太平洋地域に渡ったことは広く知られた事実である。貧困に押し出されるように海外へ渡っていった「からゆきさん」たちは、急速に資本主義化する近代日本社会の矛盾を体現する存在であった。しかし一方でこうした女性たちが、日本国家のアジア侵略・植民地化政策を底辺で支える存在として利用されたことも、残念ながら否定することはできない。女性たちは、男性が圧倒的多数を占める初期の海外日本人社会に「娯楽」を提供するとともに、彼女たちや売春業者への課税は居留民社会の重要な財政基盤となった。またとくに日露戦争は、戦場での軍人に対する「慰安」という役割を売春業に担わせる決定的な契機となった。

  他方、日本の「帝国」支配という観点から見たときいっそう注目しなければならないのは、売春業の取締りを理由として、海外の日本人社会に日本内地の制度をモデルとする性管理システムが導入されたことである。初期居留民社会の形成や戦時の軍事占領というプロセスを経て植民地化された地域では、被支配民族にまで日本の性風俗文化が浸透し、日本の統治機関は被支配民族の性をも管理下におこうとした。公娼制度を中核とする性管理システムは、当初の日本人買売春に対する管理から、植民地社会の性風俗をコントロールするための仕組みへと役割を膨張させることになるのである。

  私はこれまで日本帝国の支配地域やその周辺地域で実施された性管理政策の内容を明らかにしたうえで、これら諸地域に拡散していった朝鮮人接客業―本稿では「売春」に関連する料理店業・貸座敷業・飲食店業などの総称として「接客業」という用語を用いる―の実態や、それが朝鮮の外へ押し出されていく事情について考察してきたが1)、こうした現象の前提として明らかにすべき植民地朝鮮社会での性管理システムや性風俗意識の実態については、断片的にしか言及することができなかった。そこで本稿ではソウルでの事情を中心に、朝鮮における植民地公娼制度の確立とそれにともなう朝鮮人接客業再編の過程を追究することで、朝鮮社会にもちこまれた性管理システムの性格や性風俗に対する意識変化の様相について検討したい。

  ところで日本の侵略・植民地化政策の進展にともない、朝鮮に日本の公娼制度が導入される過程については、すでに孫禎睦・山下英愛・宋連玉・姜貞淑らの実証的な研究があり2)、また植民地下の接客業全般の動向を見据えながら15年戦争期の「慰安婦」制度の性格を展望しようとする研究も現れている3)。公娼制度導入の事実経過についてはほぼ明らかにされている今日の研究状況において、本稿が焦点に据えたいのは、上述のような公娼制度の「確立」が朝鮮人接客業を再編成することによってはじめて実現したという論点である。

  周知のように、もともと朝鮮の伝統社会に公娼制度は存在しなかった。もちろん「売春」を行う女性がいなかったわけではないが、それを専業とする者はごく少数であった。その意味で売春に深く関わる「接客業」の出現は、朝鮮においては「近代」の産物と見ることができる。しかしながら各接客業の営業形態や接客婦の類型は、当然のことながら朝鮮独自の歴史的・社会的条件に規定され、近代日本の料理店・貸座敷・飲食店、あるいは芸妓・娼妓・酌婦といった分類などとは、著しく異なる形態をとっていたのである。

  だが日本の統治機関が植民地社会において、人びとの性を一律に管理しようとすれば、朝鮮人接客業・接客婦の諸類型を再編成して日本式の類型に押し込める作業が必要となってくる。言い換えれば、植民地朝鮮において公娼制度を「確立」するためには、まず朝鮮人「娼妓」の範疇を確定し、その他接客婦との差別化をはからなければならなかったのである。

  私は別稿において、朝鮮全土における貸座敷・娼妓制度の統一的実施、朝鮮人接客業の量的拡大、女性売買による接客婦供給の増大、朝鮮人業者を対象とする遊廓の形成などを指標として、第一次世界大戦の時期に、朝鮮社会に日本内地と同様の性風俗意識や接客婦供給のメカニズムが定着しはじめたと述べたことがある4)。本稿ではこのような論点とも関連づけながら、改めて植民地朝鮮において公娼制度が「確立」に至る事情をトレースしていきたい。

*本稿において新聞記事にもとづく記述は、本文中に日付を略記することで典拠を示す。
例:『京城日報』1911年1月1日→『京城日報』11/01/01
なお夕刊は検索の便宜を考慮して、紙面最上段の日付をとり「夕」字を付した。実際はその日付の前日夕方に刊行されている。

I 「併合」までの買売春管理政策

1. 朝鮮人接客女性の「出現」

  朝鮮開国(1876年)後、ソウルの性風俗状況に大きな変化をもたらす最初の契機となったのは、日清戦争(1894〜95年)であった。植民地期の民俗学者・李能和の著書『朝鮮解語花史』(1927年)は、日本語の「遊女」に相当する朝鮮女性の総称として「蝎甫(カルボ)」という語を用い、ソウルに蝎甫が増えたのは「高宗甲午」年、すなわち日清戦争のはじまった1894年以降のことであると述べている。その背景には、ソウルの日本人花柳界が「日清戦争後、居留民の激増により、一躍進を為し」 )た事情があると見られる。1885年2月に日本の民間人のソウル居住が正式に認められて以来、日本領事館では売春業を禁じていたが(1885年4月、京城領事館達「売淫取締規則」)5)、日清戦争後には料理店が十数軒に増え、芸妓営業も公式に承認されたのであった(1895年5月15日、京城領事館達第11号「芸妓営業取締規則」6)。日本人居住地域における接客業の拡大は、朝鮮人の性風俗意識にも当然、一定の影響を及ぼしたことであろう。

  さて『朝鮮解語花史』は蝎甫を、妓生(妓女、一牌)、殷勤者(隠勤子、二牌)、搭仰謀利(三牌)、花娘遊女、女社堂牌、色酒家(酌婦)などに分類している。このうち「花娘遊女」(漁場・収税地・僧坊などを行きかう売春婦)と「女社堂牌」(放浪芸能集団の構成員)はソウルへの立ち入りを禁じられていたので、さしあたり検討対象から除外して差し支えない。また各種接客婦の呼称・表記とその定義は論者によって違いがあり、本稿では「殷勤者」についてはより一般的な表記である「隠君子」を、「搭仰謀利」についてもより常用的な呼称である「三牌」を採用することにしたい。さらに「蝎甫」を「遊女」になぞらえる李能和の解釈にもいささかの問題が含まれている。朝鮮側文献では「蝎甫」を「色酒家」と同じ意味で使用するケースが多く、また日本人の論者は「蝎甫」を「妓生」と対照させて「売春婦」一般の意味で使用する例が多いからである。たとえば1916年に西脇賢太郎という日本人警察官僚(警視)が「朝鮮人芸妓は之を妓生と称し、一牌二牌三牌の区別あり。所謂上中下の意なり。何れも歌舞音曲の素養を有す。娼妓は蝎?と称し、売淫を専業とする者なり」7)と述べているのは後者の一例である。

  以上より、ここでは便宜上、ソウルの「接客婦」を妓生・隠君子・三牌・色酒家の四者に区分し、それぞれの性格を検討するところから議論をはじめることにしよう。

  ところで上記の西脇の説明で興味深いのは、一牌(妓生)・二牌(隠君子)・三牌をすべて広い意味での「妓生」の範疇に含めていることである。そこでしばしば日本の「芸妓」になぞらえて理解される傾向のある「妓生」についてまず検討しておきたい8)

  朝鮮王朝時代の妓生は、基本的に中央や地方の官庁に所属する「官妓」であり、いわゆる「八賤」のひとつ―賤民の身分に置かれていた。その主な役割は、宮中・官庁で行事や宴会があるときに歌舞を演じ、出席者の接待にあたることである。ソウルで宮中行事などに参席する官妓は、中央官庁に所属する「京妓」と、地方官庁から送られてきた「郷妓」(または「選上妓」)―とくに平壌は名妓の産地として有名である―から構成されていた。また官妓は官吏の求めに応じて自宅で宴を催し、酒食を提供したり歌舞を披露することもあった。しかし妓生に対する国家の給与は充分ではなかったため、朝鮮王朝時代の後期になって、下級官吏が「妓夫」(または「妓生書房」「仮夫」)と呼ばれる後援者となり、この妓夫の仲介によって、特定の男性と性的関係を結んで金銭を受け取り、場合によっては妾として扱われるようになった。妓夫をもたない妓生は、彼女を養育し技芸を教えた収養父・収養母が同様の役割を果たしたという。一般に京妓は妓夫をもつケースが多く、郷妓はもたない者が多かったので、前者を「有夫妓」、後者を「無夫妓」と呼ぶ場合もあった。

  李能和の言う「妓生(一牌)」とは、以上のような官妓を指すものであった。ところが日清戦争期に朝鮮政府が実施した甲午改革(1894〜96年)により身分制が廃止されたことで、妓生は賤民の身分から解放され、一方で「官紀の粛清」を理由に官妓制度も廃止されたのであった9)。官庁の所属から解かれ、給与がなくなった妓生は、新たな収入の途を探さなければならない状況に追いやられたのである。

  隠君子や三牌も、一牌と同様、自宅に客を招いて酒食を提供し、歌舞を演じる接客女性であったので、これらを「妓生」の範疇に含める先の西脇の理解もあながち的外れとは言えない。隠君子は高年齢(25〜30歳程度)となり引退した元官妓が中心で、結婚をしなかったり、妓生の収養母などにならなかった場合は、官妓のころと同様に自宅で宴席を設け接客にあたったのである。一牌や三牌は日本の植民地化が進行するにつれ、日本人を客として迎える機会が次第に増えていったが、隠君子は公然たる営業を控えていたため、日本人にとっては最も馴染みの薄い存在であった。また三牌は、雑歌(民間に伝わる歌謡)を歌う程度の技芸しか身に着けておらず、妓生や隠君子のような伝統芸能の素養を備えてはいなかった。したがって一牌・二牌を「妓生」、三牌を「準妓生」と分類する見方もある10)。そして隠君子と三牌も場合によっては売春を行っていた。

  最後に色酒家とは、ソウルの場合、零細な飲食店や酒幕(大衆酒場)で接客にあたる女性を指すことが多かった。客に酒を飲ませ、ときには売春を行うこともあるが、芸能の心得などはなく、おもに底辺社会の男性を相手とした。「蝎甫」も色酒家と同様の意味で使用される場合があることは、前述した通りである。

  開国後の朝鮮社会における急激な経済システムの変動は、貧富の差を拡大するとともに、朝鮮王朝後期以来の身分制解体の傾向を促進し、甲午改革での身分制廃止は社会諸階層間のいっそうの流動化をもたらした。身分的な拘束は解かれたものの経済的に困窮する女性が、この時期大量に出現したと見られる。また甲午改革では人身売買禁止も掲げられてはいたが、後述するように売春目的の女性の誘拐・売買は、むしろこの時期以降、日本の侵略・植民地政策が進展する中で拡大していく。論者により「妓生」「蝎甫」などの定義が混乱しているのは、こうした朝鮮社会の流動化が各種接客女性の「接客」の内容に急激な変化をもたらしたことの反映にほかならないと言えよう。

2. 朝鮮人接客業に対する管理のはじまり

  日露戦争(1904〜05年)の勝利により日本が朝鮮を保護国として事実上支配した時期(1905〜10年)、日本人売春業は量的にさらに膨張した11)。この時期、日本の官憲当局(領事館業務は統監府のもとに新設された理事庁が継承)による日本人売春業の管理方針は、@「第二種」「乙種」「特別」などの語を「料理店」「芸妓」に冠して事実上の「貸座敷」「娼妓」として管理する、A各地に売春業の営業地域=遊廓を設置し集娼政策を実施する、というものであった12)。@は欧米人に対する「国家の体面」維持のため、売春業を意味する「貸座敷」「娼妓」などの使用を避けるための措置であった。またAの集娼政策は日本国家の性管理システムにとって不可欠な構成要素の一つと言え、1900年10月に釜山で「特別料理店」の営業地域が指定されたのを皮切りとして各地に広まっていった13)。日本内地とコンセプトを同じくする公娼制度が、日本人居住地域で実施されはじめたのである。

  1904年6月、ソウルの居留民団はソウル城内南東隅の双林洞に7000坪の地所を買収し、この地を「第二種料理店」(=事実上の貸座敷)の営業地域と定めた。のちの新町遊廓のはじまりである14)。やや遅れて1906年には、日露戦争を契機に日本軍(韓国駐箚軍)が駐屯しはじめた城外の龍山地区に桃山遊廓(のち「弥生遊廓」と改称)が開設された15)。さらに1907年ごろ京城理事庁は吉野町(現・厚岩洞)南廟前に「中の新地」遊廓を新設し、私娼を抱える小料理屋(いわゆる「曖昧屋」)を同遊廓に移転させる措置をとった16)

  一方で保護国期には、大韓帝国政府も朝鮮人接客婦の取締りに着手していた。ただし事実上、日本の支配下におかれていた当時の状況にあっては、朝鮮人接客婦の管理方針も実際には日本側の意向を強く反映するものとなった。

  開国後の急激な経済的・社会的変動や、日本の売春業上陸の影響を受けて増加したソウルの朝鮮人接客婦に対し、大韓帝国政府は日露戦争中の1904年にまずその居住地を制限しようとした。同年4月、全国の警察事務を管掌する警務庁では、ソウルにおいて三牌などの居住を一定地域に制限する方針を明らかにし、その後、三牌の居住地域として定められた詩洞(植民地期の笠井町、現・笠井洞)へ40日以内に移転するよう命じたのである。その期限は6月10日ごろであったが、結局8〜9割ほどは家屋を購入できず、移転できないままであった。警務庁の調査では、このころソウルにいた三牌は280名であり、詩洞以外では一切売春を禁じる訓令が出された。そして詩洞の三牌が居住する家屋には「賞花堂」の門牌が掲げられた(『皇城新聞』04/04/27、『大韓日報』04/06/12)。警務司(警務庁の長官)申泰休がこうした集娼政策をとったのは、ソウルでも地方でも「游女」が淫らな姿で門前に立っていることを憎み、彼女たちを1カ所に集めて一般住民と交わらないようにするためであったという17)。以後「詩洞(詩谷)」「賞花堂」は三牌の代名詞として用いられるようになっていった。

  次に警務庁では1906年、売春に関係すると見られた女性たちに対する検黴(性病検診)実施に乗りだした(この時期の警務庁はソウルのみを管轄)。最初に検黴が実施されたのは同年2月6日で、受検者139名中47名が罹病者と診断された(『帝国新聞』06/02/08)18)。3日後の2月9日には丸山重俊警務顧問が「健康診断施行手続」を制定したところから19)、この検黴実施は明らかに日本側の主導によって実施されたものと見られる。対象になったのは「妓生」と「搭仰謀利」(三牌)と報道されているが、記事内容(註18参照)やその後の経過などから見て、ここで言う「妓生」とは主に「隠君子」(二牌)を指すものと思われる。また「健康」と診断された者には「健康証」が付与された模様だが、これは姜貞淑が指摘するように「公娼制度の初期の姿」20)であり、以後、隠君子と三牌を「娼妓」として取り締まろうとする政策的意図が感じられる。局部に対する検診は非倫理的・非人間的な取扱いとして受診者に屈辱感を与え、反発した詩谷の「賞花堂」(三牌)たちはストライキを行い(『大韓毎日申報』06/02/11)、ある者はアヘンを飲んで自殺をはかるなどの手段で抗議したほか、地方出身の隠君子の中には帰郷する者も現れた21)。しかしこうした検黴強制への反発にも拘わらず、その後も毎月1回のペースで検黴は続けられていった。

  ところで興味深いのは、このとき検黴の対象となった女性たちが次のように述べている点である。

……売淫婦トシテ検梅ヲ要スルハ妓生モ亦売淫婦ナリ然ルニ妓生ハ検梅セス今後尚ホ妓生ノ検梅ヲ実行セサルニ於テハ寧ロ妓生ニ転籍セバ検梅ヲ免ルヽヲ得ント22)

  検黴を強制された隠君子・三牌が、これを免れるための手段として「妓生」への「転籍」の可能性を口にするということは、この時点では「妓生」の範疇がいまだ流動的であったことを示唆していると言えよう。

  さて1907年7月、警務庁に代わるソウル管轄の警察機関として警視庁が設置され、翌1908年9月28日には大韓帝国最初の接客業取締法令である警視庁令第5号「妓生団束令」、同第6号「娼妓団束令」が公布されている(「団束」は取締りの意)。両者はともに全5条のごく簡単な内容で、しかも「妓生」「娼妓」以外の条文は全く同一であり、妓生・娼妓を認可営業とすること(第1条)、それぞれに組合設立を認めること(第2条)などが定められた23)。1907年8月の第3次日韓協約以降、日本人官吏が大韓帝国政府に任用されており、こうした接客業取締りの方針も日本人警察官僚の意向に沿って決定されたと見るべきだろう。警視庁が作成したと見られる「妓生及娼妓ニ関スル書類綴」収録の公文書類が、ほとんどすべて日本語で記載されているのも、このことを裏付けていると言えよう。

  両「団束令」公布から3日後の10月1日にはソウル在住の妓生・娼妓が召集され、警視庁第二課長・浜島尹松が諭告をおこない、@妓生・娼妓とも夫のある者には認可しないこと、A両者ともに結婚許可年齢の満15歳に満たない者は認可しないこと、B同業組合は妓生・娼妓みずからが組織し同業者以外の者はみだりに干渉しないこと、などを告げたうえで、とくに娼妓に対しては、C検黴は「止ムヲ得サル」として婉曲に強制実施の継続を表明し、D自ら健康であることを証明しなければ認可しない方針を伝えた24)。10月6日には警視庁訓令甲第41号「妓生及娼妓団束令施行心得」が制定され、上記@が第3条に、Aが第4条に盛り込まれたほか、Dについては「娼妓稼業届ヲ為スモノニハ警察医ノ健康証明書ヲ徴スヘシ」(第5条)と具体的に規定された25)

  ところで10月1日の妓生・娼妓に対する諭告の中で、警察当局は「妓生」「娼妓」の定義を初めて明らかにしている。「妓生」とは「旧来官妓又ハ妓生ト呼ヒタルモノヲ総称スルモノ」、また「娼妓」とは「賞花室、蝎甫、又ハ色酒家ノ酌婦ヲ総称スルモノ」とされたのである。1906年2月の検黴開始の際に検診の対象となった隠君子(二牌)は「娼妓」から除外され、代わって「蝎甫」と「色酒家ノ酌婦」(両者はほぼ重なる)が「娼妓」に追加されたのである。

  この定義にしたがって、官憲は「娼妓」の組織化に乗り出した。1909年8月20日、賞花堂(三牌)・色酒家・蝎甫が警視庁の指示で集められ、「漢城娼妓組合」の結成総会が開かれたのである26)。酒商(色酒家の抱主)らは負担金の過重さを訴え反対したが、結局、当局に押し切られる形で組合の設立は決まった。漢城娼妓組合はソウルの「娼妓」免許をもつ大部分の女性を網羅し、詩谷(詩洞)近傍の「娼妓」(主に三牌)180余名、市内に散在する「酒商娼妓」(色酒家)140余名から構成されていた。この組合の役員には娼妓だけが就任できたが、妓夫・酒商なども相談役として組合に対する影響力をもっていたと見られる。徴収された組合費のほとんどは「治療費」として支出されているところから、娼妓組合結成の主要目的の一つは検黴費用の捻出にあったと言えよう。なお日本人警察官僚は、組合組織によって妓夫・酒商などの抱主の排除をもくろんでいたようであるが、このねらいは充分には達成できなかった。

  さて保護国期には、経済的困窮から「売春」を行う朝鮮人女性が目立って増加した模様である。「併合」翌年の1911年の新聞報道は次のように伝えている。

昨今朝鮮婦人間には社会状態の変遷につれて生活難を唱ふるに至り就中下級婦人等は切実に金銭の生活上必要なるを感じ之が結果如何なる労働にても従業する者あると同時に一方身を醜業界に投じても一家生計の方法を講ぜんとする二傾向を生するに至りし……現下の京城にては未だ十分に之等朝鮮婦人を使用すべき事業なく……(『朝鮮新聞』11/05/05)。

  しかし一方で当時、朝鮮に赴任していた日本の警察官僚は、朝鮮での女性売買の状況を次のように観察していた。

悪漢が良家の子女を略奪して売買することあれど、極めて少なき事件に属す。只妓家が妓生・蝎甫等の売春婦と為す目的を以て幼少より他人の女子を買い、之に相当の技芸を教え、自家に於て賤業に従事せしめ、或は他に転売することあり27)

  「妓生」「蝎甫」の理解には混乱が見られるものの、この時期に女性誘拐の風習はほとんど見られなかったこと、売買された女性は単なる売春目的ではなく「相当の技芸」をもつ接客婦として育成されていたことを読み取ることができる。

  保護国期には急増する朝鮮人接客婦を管理するために、居住・営業地域の指定、検黴、免許付与、同業組合結成などの措置がとられた。これらの政策によって、大韓帝国末期のソウルでは朝鮮人を対象とする公娼制度が実施されはじめたと言ってよいだろう。しかし当局による「妓生」「娼妓」の定義は示されたものの、その境界はいまだ流動的な側面を残していた。また誘拐などの暴力的手段をも駆使しながら売春を専業とする女性を確保するという、日本で行われていたような女性売買の風習も、さほど多くは見られなかったようである。日本式の性風俗意識は徐々に朝鮮社会を浸食していたものの、性風俗営業をめぐる状況は、日本社会のそれとはいまだ大きな隔たりが存在していたのである。


1) 拙稿「上海の日本軍慰安所と朝鮮人」『国際都市上海』(大阪産業大学産業研究所、1995年)。同「日露戦争と日本による「満州」への公娼制度移植」『快楽と規制―近代における娯楽の行方―』(大阪産業大学産業研究所、1998年)。同「朝鮮植民地支配と「慰安婦」制度の成立過程」VAWW-NET Japan編『「慰安婦」・戦時性暴力の実態I―日本・台湾・朝鮮編―』(緑風出版、2000年)。同「植民地台湾における朝鮮人接客業と「慰安婦」の動員」『近代社会と売春問題』(大阪産業大学産業研究所、2001年)。

2) 孫禎睦「韓国居留日本人の職業と売春業・高利貸金業」『韓国開港期社会経済史研究』(ソウル、一志社、1982年)。同「日帝下の売春業―公娼と私娼―」『都市行政研究』3(1988年3月)。山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」尹貞玉ほか『朝鮮人女性が見た「慰安婦問題」』(三一書房、1992年)。宋連玉「朝鮮植民地支配における公娼制」『日本史研究』371(1993年7月)。同「朝鮮「からゆきさん」―日本人売春業者の朝鮮上陸過程―」『女性史学』4(1994年7月)。同「大韓帝国期の<妓生団束令><娼妓団束令>―日帝植民地化と公娼制導入の準備過程―」ソウル大学校国史学科『韓国史論』40(1998年12月)。姜貞淑「大韓帝国・日帝初期ソウルの売春業と公娼制度の導入」『ソウル学研究』11(1998年12月)。

3) 宋連玉「日本の植民地支配と国家的管理売春―朝鮮の公娼を中心として―」『朝鮮史研究会論文集』32(1994年10月)。同「公娼制度から「慰安婦」制度への歴史的展開」前掲『「慰安婦」・戦時性暴力の実態I』所収。尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)。

4) 拙稿「植民地公娼制度と日本軍「慰安婦」制度」早川紀代編『戦争・暴力と女性3 植民地と戦争責任』(吉川弘文館、2005年1月刊行予定)。

5) 今村鞆『歴史民俗 朝鮮漫談』(南山吟社、1928年)427。

6) 朝鮮開国後、各地の日本領事館の性管理政策は一様ではなかった。釜山・元山などが日本内地と同様に売春業を公認し「貸座敷」「娼妓」という用語を使用しながら取り締まる立場であったのに対し、欧米人が多数居住する首都ソウルとその外港の仁川では「国家の体面」から売春を禁止するたてまえをとっていた。宋連玉、前掲論文(1998)219-232。

7) 西脇賢太郎「風俗警察に就て(第一回)」『軍事警察雑誌』10-12(1916年12月)38。この文章は後述する「貸座敷娼妓取締規則」公布(1916年3月)後に発表されたものだが、料理店を第一種・第二種に分類して解説しているところなどから、1910年代前半の状況を述べたものと思われる。

8) 以下の記述は、李能和、前掲『朝鮮解語花史』のほか、姜貞淑、前掲論文、199-200、川村湊『妓生―「もの言う花」の文化誌―』(作品社、2001年)43-50、などを参考にした。

9) 「京城の花柳界」『開闢』48(1924年6月)97。

10) 同前、96。

11) 1907年ごろから10年までは「京城花柳界の尤も全盛を極めたる年」であったという(『朝鮮新聞』11/09/28)。

12) 詳細は、前掲拙稿(2005刊行予定)参照。

13) 実際に指定地域での営業がはじまったのは、2年後の1902年7月である(『日鮮通交史 附釜山史』釜山甲寅会、1916年、323-324)。嚆矢となった釜山や本文中で紹介するソウル以外にも「併合」までに仁川・元山・平壌・大邱・鎮南浦・羅南・光州などで遊廓がつくられた。

14) 赤萩与三郎「遊廓街二十五年史」『朝鮮公論』18-10(1930年10月)47。

15) 『京城府史』第2巻(京城府、1936年)1032。

16) 今村鞆、前掲書、430。

17) 黄玹『梅泉野録』(ソウル、国史編纂委員会、1971年)310。申泰休が日本の制度を参考にしたかどうかは不明であるが、彼は第1次日韓協約(1904年8月22日)後の、いわゆる顧問警察制度の導入に抵抗し、日本側からはむしろ「排日」的人物と見られていた。宋連玉、前掲論文(1998)255。

18) 地域分布(ソウル五署=東西南北中の各署別)は、南署101名、中署26名、東署2名、西署15名となっているが、以上を合計すると144名となり、記事中の合計値と一致しない。なお南署101名の内訳は「慇懃に(ひそかに)売春する者」56名、賞花室(三牌)45名であるが、朝鮮語で「慇懃」は「殷勤」と同音であるので、前者56名は「隠君子」とも考えられる。

19) 「妓生及娼妓ニ関スル書類綴」(『ソウル学史料叢書』第7巻、ソウル市立大学校ソウル学研究所、1995年、所収)145。この文書綴の表紙には「隆煕二年」「第二課」と記載されており、1908年に大韓帝国政府の警視庁第二課が編纂したものと見られる。

20) 姜貞淑、前掲論文、208。

21) 前掲「妓生及娼妓ニ関スル書類綴」145-146。

22) 同前、146。

23) 同年(1908年)12月には平安北道でも「妓生、妓娼団束令」を制定しているが、詳細な内容は不明である。

24) 前掲「妓生及娼妓ニ関スル書類綴」167-171。

25) 同前、171-172。

26) 漢城娼妓組合については、姜正淑、前掲論文、214-215、に詳しい。

27)『韓国警察一般』(韓国内部警務局、1910年)282。筆者は前出の今村鞆である。


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