植民地朝鮮における公娼制度の確立過程

本文・註(2)

II 「併合」直後の動向
1. 過渡期の管理方針と遊廓の第1次再編
2. 「芸妓」「妓生」の組織化

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II 「併合」直後の動向

1. 過渡期の管理方針と遊廓の第1次再編

  1910年6月、日本は大韓帝国政府に「韓国警察事務委託に関する覚書」を強要し、朝鮮の警察権を完全に掌握して、いわゆる憲兵警察制度(憲兵が警察官を兼任)を成立させた。その直後の韓国「併合」(同年8月29日)で日本が朝鮮を完全に植民地化すると、統治機関として朝鮮総督府が置かれ、すでに大韓帝国政府の警察業務を吸収していた統監府の警察官署は総督府に継承された。ソウルの警察業務(かつては京城理事庁〔日本人側〕・警視庁〔朝鮮人側〕が管轄)は総督府警務総監部に、地方の警察業務(同じく各理事庁〔日本人側〕・各道〔朝鮮人側〕が管轄)は各道警務部に引き継がれたのである。そして「併合」翌年の1911年から13年にかけて、全国13道のうち8道が料理店・飲食店、芸妓・酌婦などに対する管理法令を新たに制定し、集娼政策の徹底、年齢下限の調整、検黴規定の整備などが行われた28)

  これら諸法令の効力は「併合」前の日本人だけを対象とした領事館令・理事庁令や、朝鮮人だけを対象とした大韓帝国政府の「妓生団束令」「娼妓団束令」とは異なり、法制上は日本人・朝鮮人の両者に等しく及ぶはずであった。しかし咸鏡北道や江原道では当該法令を朝鮮人営業者に「準用」するという条項があり29)、また慶尚南道の「料理店及飲食店営業取締規則」(1912年9月、道警務部令第1号)では朝鮮人に一部規定を適用しない措置をとるなど、日本人営業者に対する取締りが法令制定の主な目的であったと見られる。

  1910年代前半の朝鮮人接客業に対する管理政策について、ある警察官僚は「妓生・蝎甫の娼業に対する警察上の取締規則は、之れを設定したる地方と全く缺如せる地方あり。従て健康診断の如きも大体病毒伝播の防止を目的とする限度に於て、之れを施行すべきものと信ず」30)と述べており、それがいまだ不徹底な段階にあることを認めている。また後述するように、この時期にも朝鮮人「売春婦」を遊廓に囲い込もうという動きはあったが、「鮮人(ママ)芸娼妓中自ら進んで遊廓に入り、営業に従事する者は之を別とし、朝鮮古来の慣習上彼等に対する営業居住の制限は、内地人芸娼妓の如く重く之を制限することを得ず」31)という状況であった。同じころ慶尚南道警務部が「従来鮮人(ママ)ノ慣習上貸座敷ニ準スヘキ営業ヲ存セス」32)と見ていたように、少なくとも1910年代前半ころまでは、抱主が数名から十数名程度の女性を抱えて売春をさせる日本の貸座敷のようなシステムは朝鮮人社会にはほとんど見られず、したがって総督府警察機構による性管理政策も、日本内地と同様の方式では徹底できなかったのである。

  日本は朝鮮の植民地統治に着手した当初から、「民風改善」政策の一環として隠君子や色酒家を取り締まり、また妻への売春強要や妓生の「密売淫」なども警察当局により摘発されていた。ただし1910年代前半に目立つ女性売買の形態は、新聞報道などを見る限り、騙した女性を「妻」として売りとばす事例であった。女性を誘拐して「蝎甫」「娼妓」などに売る事例も存在はするものの、そうした風潮が社会全体に浸透していた段階にはなかったように思われる。

  ところで朝鮮の警察権を掌握した日本の警察機構は、「併合」直前に私娼取締強化の方針を打ち出していた。1910年8月19日、明石元二郎警務総長はソウル南・北両警察署管内の主要な小料理店・小飲食店経営者(日本人が中心と見られる)を招集し、自ら8項目の「示達」を伝達した。その要点は、@小料理店・小飲食店でいかがわしい女性を雇い入れた者には警察署からいっそうの注意を与えること(第2項)、Aとくに長谷川町・米倉町・旭町・青坡(それぞれ現在の小公洞・北倉洞・会峴 洞・青坡洞に該当)にある小料理店・小飲食店の風儀がよくないので今後しばしば臨検を行うこと(第3項)、B第2・3項の励行で営業が立ちゆかなくなる者は10カ月以内に転業するか、第二種料理店指定地(新町・桃山・中の新地各遊廓)で営業すること(第4・5項)、などであった33)。ソウル城内の日本人小料理店は前述のように、1907年ごろに「中の新地」遊廓へ移転させられたことがあったが、「其後又々市内至る所に増加し、旭町の今の青木堂横町(ママ)、太平町[現・太平路]、長谷川町、黄金町[現・乙支路]青坡辺は軒並みに、怪しげな行燈を掲げ、闇に咲く花の毒臭を放つて居た、朝鮮人支那人相手専門の極下等もあり、又女一人に数千円を出した上等もあつた」 )という状況になっていた。

  当時「曖昧屋」と呼ばれた私娼をおく小料理店は、このころソウル市街に130余軒が散在していたと言われ(『朝鮮新聞』11/04/19)、その酌婦は検黴を受け半ば公認された存在であったという(『毎日申報』11/06/18)。三遊廓のうち中の新地は土地狭隘のためもはや新築の余地がなく、新町・桃山両遊廓には「堂々たる貸座敷」が店を構えているため、零細な小料理店では太刀打ちできないと考えられた(『朝鮮新聞』11/04/19)。そのため小料理店はたびたび移転延期を申し出た模様であり、先の示達では「併合」翌年の1911年4月中に移転を終える方針であったにも拘わらず(『朝鮮新聞』11/02/22)、結局6月18日を最終期限として移転が完了した模様である(『毎日申報』11/05/23)。

  移転に備えて新町遊廓は西側に隣接する2274坪の地所を加え(『朝鮮新聞』11/04/13)、この拡張地域は「大和新地」と呼ばれた。また龍山の桃山遊廓でも地域を拡張し、家屋新築や大門新設、外郭新築などの工事をすすめていた(『朝鮮新聞』11/02/22)。

  移転の結果、桃山遊廓を除くソウルの市街地で営業する「第二種芸妓」(朝鮮人は含まない)の総数は353名となった。その分布は新町の旧遊廓地域に204名(貸座敷12軒)、大和新地に89名(同19軒)、中の新地に57名(同10軒)、外国人3名(同2軒、所在地は不明)で、このほかに第一種芸妓が96名、仲居・酌婦が131名いたという(『朝鮮新聞』11/09/28)。指定地域に移転できない小料理屋は地方に移るか、廃業するしかなかったが、移転に先立って日本人女性が朝鮮人街に移動したり(『朝鮮新聞』11/03/26)、「蝎甫」をおく朝鮮人小料理店の新規開業が続出し、日本人の遊客が増えたとも伝えられている(『朝鮮新聞』11/05/11)。なお平壌や仁川などでも「曖昧屋」を遊廓に移転させる政策がこのころ実施されていた(『毎日申報』11/04/27、『朝鮮新聞』11/04/09、11/09/24)。

  しかしソウルでの小料理屋移転政策は、さほど効果を上げなかったようである。移転翌年の1912年3月には、日時が経過するにつれて「外貌で飲食店を装いながら実際は風俗を壊乱する行為がときどきある」と報道されている(『毎日申報』12/03/23、原文朝鮮語)。同じく1912年3月に公布された制令第40号「警察犯処罰規則」が私娼の処罰を規定したことから、警察当局は私娼摘発に本腰を入れはじめたようで、同年3〜6月ごろには日本人・朝鮮人のいずれに対しても「密売淫」検挙の行われている模様が集中的に報道されている(『毎日申報』12/03/23、12/05/11、12/05/14、12/05/29、12/06/05、12/06/15、12/06/20)。このころにはソウルだけでなく、開城・仁川・大邱などでも私娼が検挙されており(『毎日申報』12/06/02、13/01/11、13/01/21)、朝鮮全土で取締りが強化された模様である。

  その後もソウルの警察当局は、さまざまな形で買売春管理の徹底化をはかろうとした。 1914年から15年にかけての冬より黄金町通一帯では飲食店の新規開店を許可しないことになったが、それでも15年の春ごろには50軒以上が営業しており、どの店も2〜3人の「白首」を置き、彼女たちは「公娼の如く心得」客引きまでしていたという(『朝鮮新聞』15/06/03)。しかし始政五年記念朝鮮物産共進会の開催が近づくと、ソウル本町署ではいっそう取締りを厳重にしたため多数の接客業者が廃業した模様である(『朝鮮新聞』15/08/17)。警察当局は、京城府庁や南大門停車場(現ソウル駅)などソウルの主要施設に近い、中の新地遊廓の廃止を決定し、同遊廓の8軒40余名の「娼妓」は、1915年8月中に大和新地または弥生遊廓(旧桃山遊廓)へ移転するよう命じられた(『朝鮮新聞』15/06/06、15/07/01)。

  1910年代前半のソウルでは、このように遊廓の整理・再編と、私娼に対する取締り強化という二つの政策が連動して実施され、植民地朝鮮社会における性管理システムの構築が模索された時期と言えるだろう。

2. 「芸妓」「妓生」の組織化

  さて前節で述べたような「売春婦」の営業指定地域(遊廓)への隔離と、遊廓以外の地域での私娼取締りは、公娼(日本内地の用語では「娼妓」)とその他の接客婦(同じく「芸妓」「酌婦」など)を差別化しようとする政策的意図にもとづくものであった。日本の公娼制度のたてまえとしては、公娼以外の女性の売春を「公認」するわけにはいかない。前節で紹介した私娼取締り政策は、主として日本人「酌婦」、朝鮮人「色酒家」「蝎甫」を対象とするものであったが、日本人「芸妓」や朝鮮人「妓生」の場合も事情は同じであった。とくに問題になるのは、総督府警察当局が日本の「芸妓」のカテゴリーにあてはめて管理しようとした朝鮮人「妓生」の営業形態が、「芸妓」と著しく異なっていたことである。

  妓生管理政策のモデルとなる、日本人芸妓への管理方針からまず見ておこう。日本の官憲は芸妓の密売春を防止する方策として、次の2点を重視していた。

彼等[芸妓]に対する取締方法の一は検番の設置なり。検番は第一種料理店営業者をして之を設置せしめ、芸妓の風紀を矯正し、抱主芸妓間の紛争を防止し、警察取締趣旨を伝達せしむる等の用に供する機関なり。而して取締方法の二は居住の制限なり。即ち従来抱主との契約に依り、現に料理店に同居する者を除くの外、料理店又は其の構内に居住するを許さず。従て芸妓置屋又は自宅に居住せざるべからざることゝなる35)

  この2点のうちとくにポイントとなるのが、前者の検番(朝鮮では一般に「券番」と表記)の設置である。券番の本来の役割は、料理店への芸妓の取次ぎや玉代(料金)の精算などであるが、ここで芸妓の風紀矯正、抱主・芸妓間の紛争防止、官憲からの注意事項伝達などの役割が強調されているのは注目に値する。朝鮮の日本人居住地で芸妓営業が認められて以来、しばらく券番は設置されず、芸妓たちはおおむね料理店に抱えられ、その料理店内に居住していた。そのため芸妓による密売春が容易に行われたと言われている。取締方法の第2が指摘するように、芸妓を料理店内に居住させないようにするためには、芸妓の営業の場(料理店)から、芸妓の生活の場を芸妓置屋として分離しなくてはならないため、芸妓置屋と料理店の仲介役である券番がどうしても必要になってくるのである。こうしてソウルでは1910年に「東券番」と「中券番」という二つの券番がつくられた。その事情は次のように説明されている。

一昨年[1910年]迄芸妓を抱へて居るのは料理屋に極まつて居たもので芸妓とは名のみで其家に居て其家の客に出る丁度遊廓の女郎同然であつた、それが風紀取締と云ふ名義で時の理事官三浦弥五郎君が券番設置を命じた、茲に於いて中券番、東券番の二つが出来た36)

  ただし芸妓置屋と料理店をただちに完全に分離することは難しかったため、当面は両者の兼業も認められており、とくに中券番は「ホンの形式に作られたばかり依然として料理屋と置屋の兼業」という状況であった )。なお一方の東券番は1911年3月に「京城券番」と改称し、さらに1916年5月には京城券番から「新券番」が分離、独立することになった(『朝鮮新聞』11/03/04、16/05/11)。

  しかし妓生の場合は、第T章第1節で述べたように、もともと自宅に客を招く慣習になっており、1910年代半ばころになっても彼女たちが料理店で営業することは少なく、そもそも朝鮮人経営の料理店自体がほとんど存在しなかった )。すなわち日本人の目から見ると妓生の営業形態は「内地人の夫れのやうに料理屋兼置屋でなく……置屋のみ」(『朝鮮新聞』16/05/14)であったため、券番設置の要求は躊躇されたのである。そこで妓生を管理するため警察当局では、まず前出の「妓生団束令」(1908年)にもとづいて組合を組織させることにした。すでに「併合」前の1908年に京妓が「広橋組合」を設立しており )、1913年には平壌出身の妓生を中心に「茶洞組合」(のちに「大正組合」と改名)がつくられた。前者は「有夫妓組合」、後者は「無夫妓組合」とも呼ばれる。のちに1917年には大正組合から嶺南地方(慶尚道)出身の妓生が分離して、漢南組合がつくられている(『毎日申報』17/02/27)。

  以上はすべて、かつて官妓(一牌)であった女性を中心につくられた組合である。しかし前述のように「下級の妓生」とも「準妓生」とも見られていた三牌は「妓生」と「娼妓」の中間に位置する存在であった。三牌は色酒家(蝎甫)とともに1909年に漢城娼妓組合(前出)を組織しており、検黴を強要されるなど、警察当局が彼女たちを管理しはじめたころは「娼妓」として扱われていた。しかし1914年3月には次のような消息も報道されていた。

京城南部詩谷・新彰妓生組合所の芸妓らがみな共同して銅峴警察署に申請したところでは、これまでのような売淫は決して行わず……妓生にふさわしい業務に従事するので、[妓生として]認許して欲しいと切に求めたが……[銅峴署では]正当ではないとして昨12日に申請書を却下した……(『毎日申報』14/03/13、原文朝鮮語)。

  ここでは「妓生組合所」「芸妓」と報道されているものの、詩谷(詩洞)を根拠地とし「売淫」を行ってきた女性たちと言えば、三牌にほかならない。漢城娼妓組合との関係は不明だが、このころ三牌たちは「新彰妓生組合所」―通常「新彰組合」と呼ばれる─を設立しており、娼妓から妓生への「昇格」を求めたのであった。この時点では彼女たちの申請は却下されたものの、このような申請の行われたこと自体が「妓生」と「娼妓」の境界がいまだ流動的であったという事実を示しているのである。


28) 紙幅の関係より、これら法令の内容紹介は別の機会に譲りたい。

29) 「警察署長又ハ警察署ノ事務ヲ取扱フ憲兵官署長ハ本則中必要ト認ムル事項ヲ朝鮮人ノ営ム酒幕、酒家ノ営業者ニモ準用スルコトアルヘシ」(1911年5月、咸鏡北道警務部令第6号「料理店飲食店取締規則」第16条)。「本令ハ朝鮮人ノ妓生稼業者ニ準用ス」(1912年8月、江原道警務部令第4号「芸妓及酌婦取締規則」第9条)。

30) 永野清『朝鮮警察行政要義』(巌松堂書店、1916年)266-277。

31) 西脇賢太郎、前掲「風俗警察に就て」38。

32) 1916年6月27日、慶保発第2134号「妓生及鮮人娼妓ノ為其ノ父兄等ニ料理店又ハ貸座敷営業許可ニ関スル件」慶尚南道警察部編『慶尚南道警察例規聚』1935年(加除式、1942年4月現在。青丘文庫所蔵本)270。

33) 1910年8月19日、警発138号「小料理店小飲食店取締方の件」『警務月報』2(1910年8月)28-29、原文朝鮮語。

34) 今村鞆、前掲書、431。

35) 西脇賢太郎、前掲「風俗警察に就て」36-37。

36) 「変手古な芸妓屋(京城芸妓の内幕)」『朝鮮及満洲』53(1912年6月25日)33。

37) 同前。

38) 『朝鮮総督府統計年報』によれば、1915年12月末の朝鮮全体の料理店は642軒あったが、実際のところ「朝鮮人営業ニ係ル料理店ナルモノハ京城ニ於テ二三之アルノ外他ニ於テハ一般酒幕ト称シ飲食店ニ比スヘキ種類ノモノナリ」(永野清、前掲書、281)という状況であった。妓生を料理店に呼んで遊興するという日本の花柳界の風習は、1910年代半ばの時点でも朝鮮には定着していなかったのである。

39) 前掲「京城の花柳界」97。


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