日露戦争と日本による「満州」への公娼制度移植

本文・注(2)

第二章 日露戦後の「買売春」と公娼制度の確立

1 関東州における公娼制度の確立

2 満鉄沿線地域への拡散

3 その他の地域での「買売春」管理

おわりに


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第二章 日露戦後の「買売春」と公娼制度の確立

1 関東州における公娼制度の確立

 一九〇五年九月のポーツマス条約締結で、日本は関東州を租借地として支配することになったが、戦時中に出現した関東州の日本人「売春婦」は、むしろ戦後になっていっそう増加した模様である。例えば戦後の大連で、帰国途上の兵士を目当てに「売春婦」が急増した状況について、ある軍医は次のように記録している。

……宿営地の中でも最も厄介であつた問題は、乗船地区たる大連市街の急速なる発展に伴ふ売春婦の増加であつた。……当時売春婦の数は判つたものだけでも二千余人に上り、同地軍政署に於ける衛生業務は此の方面の事に忙殺さるゝ程の状況であつた(35)。

 ここで言う軍政署(正しくは関東州民政署)の「衛生業務」とは「売春婦」に対する検黴をさすものと見て間違いないだろう。このような「売春婦」の急増現象は一時的なもので、兵士の帰還が一段落した後には、その数を減らすことになるが、それでも大連で風俗営業に従事する女性は、一九〇七年五月の調査で六三〇名(芸妓一六七名、酌婦二八二名、娼妓一一三名、中国人娼妓七六名)(36)、一九〇八年五月の調査で八八三名(芸妓二四二名、娼妓一二九名、中国人娼妓八一名、酌婦一二名、ロシア人酌婦一二名、雇婦女四〇名)(37)に上っていた。また旅順では「日本人の店舗ハ殆ど二三軒おきに一軒の淫売屋のある割合だ」「『旅順で開業する医者ハ格別器械も薬もいらぬ只だ花柳病に対する準備さへあれバ沢山である』」(38)と伝えられる有様であった。

 以上のような状況の中で、関東州の軍政を担当する関東州民政署(一九〇五年六月二三日設置)は、一九〇五年秋から翌一九〇六年初めにかけて、各種風俗営業を取り締まるための一連の法令を制定した(39)。制定順に列挙すれば、以下のようになる。

[1]一九〇五年関東州民政署令第二号「芸酌婦及雇婦女取締規則」(一九〇五年一〇月一七日)

[2]一九〇五年関東州民政署訓令第一〇号「芸酌婦及雇婦女取締規則施行心得」(一九〇五年一〇月一八日)

[3]一九〇五年関東州民政署令第四号「料理店飲食店下宿屋貸席待合茶屋引手茶屋営業取締規則 (一九〇五年一〇月二二日)

[4]一九〇五年関東州民政署訓令第一四号「料理店飲食店下宿屋貸席待合茶屋引手茶屋営業取締規則施行心得」(一九〇五年一〇月二五日)

[5]一九〇五年関東州民政署令第一一号「娼妓取締規則」(一九〇五年一二月三〇日)

[6]一九〇五年関東州民政署令第一二号「貸座敷取締規則」(一九〇五年一二月三〇日)

[7]一九〇六年関東州民政署訓令第一号「娼妓取締規則施行手続」(一九〇六年一月一一日)

[8]一九〇六年関東州民政署訓令第二号「貸座敷取締規則施行手続」(一九〇六年一月一九日)

[9]一九〇六年関東州民政署令第二号「娼妓健康診断施行規則」(一九〇六年二月一日)

 このうち[1]〜[4]は、主として芸妓・酌婦と料理店・飲食店を取り締まるための法令であり、[5]〜[9]は娼妓と貸座敷を管理するためのものである。国家公認の「売春婦」たる娼妓を中心に、芸妓・酌婦など「接客婦」の「売春」行為をも事実上黙認する、日本公娼制度の法的枠組みが関東州においても完成したのである。内容も基本的には日本「内地」の制度に準じたものであり、次のような規定を骨格としていた(以下、関東州民政署制定の法令は前掲の丸数字で示す)。

(1)検黴の実施

 「娼妓ハ本署又ハ支署ノ指定シタル日時場所ニ出頭シ検査医ノ定期健康診断ヲ受クヘシ」([9]第一条)。

 すでに紹介したように、近代公娼制度において、検黴は娼婦登録制度と一対の関係にあると言うことができる。関東州では、娼妓だけでなく、芸妓や酌婦も、民政署に届け出て「営業」許可を得ることになっていた([5]第一条、[1]第一条)。

 なお娼妓への検黴が義務づけられていたのに対し、芸妓・酌婦については、性病のおそれのある者に対して実施すると定められていた([1]第九条)。ただし大連では、酌婦は週一回、芸妓は月一回〜週一回のペースで検黴が行われ(40)、実際にはすべての芸妓・酌婦に対して検黴を課していたようである。

(2)遊廓地域の指定

 「貸座敷営業ハ特ニ指定シタル地域内ニ限リ之ヲ許可ス」([6]第一条)。

 このような集娼政策により、大連では、一九〇五年関東州民政署告示第三八号(一九〇五年一二月二六日)で逢坂町が、また一九〇六年関東州民政署告示第六号(一九〇六年一月一七日)で小崗子が、遊廓として指定され(後者は主として中国人を対象)、市街地に散在していた娼家は、一九一一年末までに両地域への移転を完了した(41)。

 そして遊廓設定の必然的な帰結として、娼妓が遊廓地域外に居住することは厳禁され、また民政署の許可なく遊廓地域外に外出することも禁じられたのである([5]第三条)。

(3)年齢制限

 「左ノ事項ニ該当スル者ハ娼妓タルコトヲ得ス/一 十七歳未満ノ者[以下省略]」([5]第二条)。

 娼妓の年齢下限がこのように一七歳であったの対し、当初は存在しなかった芸妓・酌婦の年齢規定も、一九三〇年九月より、芸妓は一四歳以上、酌婦は一七歳以上と定められた(42)。

 なお植民地期の朝鮮で制定された「貸座敷娼妓取締規則」(一九一六年)でも、それまで道ごとにまちまちであった娼妓の年齢規定を、関東州と同じ一七歳以上に統一している。この当時の日本「内地」における娼妓の年齢制限が、一九〇〇年内務省令第四四号「娼妓取締規則」の定める一八歳以上であった点を考えると、わずか一歳とは言え、植民地・租借地において、より若年層から「売春婦」が供給されていったことの意義は、決して小さくないであろう。

(4)課税

 一九〇五年関東州民政署令第七号「関東州雑種税規則」(一九〇五年一〇月二五日)の第一条において、課税は月額で、芸妓七円、小芸妓(一二歳未満)三円、娼妓五円(中国人は半額)、酌婦は二円五〇銭と定められた(43)。のちに大連市では一九一九年度より独自に遊興税として、芸妓からは「花代」の二パーセントを、酌婦・娼妓からは一パーセントを徴収しはじめた(44)。

(5)廃業の自由

 「娼妓廃業セムトスルトキハ自ラ本署又ハ支署ニ出頭シ書面又ハ口頭ヲ以テ届出ツヘシ但シ自ラ出頭スル能ハサル事由アリト認ムルトキハ代人ニ依ル届出ヲ受理スルコトアルヘシ」([5]第一一条第一項)。

 前述した日本「内地」の「娼妓取締規則」に準じ、関東州でも娼妓の自由廃業に関する規定が盛り込まれていた。ただし「内地」では郵送による廃業の申請を認めていたのに対し、関東州ではこれを認めていない。「内地」でも現実には、楼主の妨害などにより廃業は困難であったが、関東州ではいっそう厳しい条件のもとに置かれていたと言えよう。

 

 こうして日露戦争期の軍による「買売春」管理を引き継ぐ形で、戦後軍政下の関東州において、公娼制度を裏付ける法体系が確立することになった。これらの諸法令は、一九〇六年九月一日の関東都督府設置で関東州が民政に移行した後もそのまま継承され、以後長く、日本の国家権力が「満州」での「買売春」を管理するうえで、中核的な役割を果たすことになる。

 ところで関東州当局では、一九〇九年一二月以降、日本人「売春婦」の管理にあたっては「娼妓」という呼称を用いず、もっぱら「酌婦」と呼ぶことになった。その理由は「本邦人婦女子に対しては対外関係を考慮して娼妓稼業を認めず、只芸妓、酌婦の公娼的行為を黙認した」(45)と記録されているように、公然たる「売春婦」を意味する「娼妓」の存在を認めることは、「対外関係」上、国家の体面を傷つける行為と判断されたからである(46)。ただし中国人女性の場合、「賤業に従事する支那人に対しては……娼妓取締規則に依って娼妓として許可し」(47)とあるように、従来通り「娼妓」として管理したということであるから、民族差別を前提とする日本の統治政策の欺瞞性は明白である。以後、形式上、関東州から日本人「娼妓」は姿を消したが、本来「料理店」「飲食店」で客の接待に当たるはずの「酌婦」が、実際には日本国内の「娼妓」と何ら変わらない性格の女性として存在しつづけたのであった。先に検討した「貸座敷」や「娼妓」に対する管理政策も、「料理店」「飲食店」および日本人「酌婦」に準用されたものと推測できるが、ただし「酌婦」の自由廃業に関する規定は―ある意味では当然だが―定められなかった。

 このような制度のもとで、一九一〇年代半ばには、植民地朝鮮より関東州に「売春婦」が送り込まれることになるのである(48)。

2 満鉄沿線地域への拡散

 日本はポーツマス条約で、関東州とともに長春以南の東清鉄道南満州支線をロシアから獲得し、この鉄道や沿線の炭鉱などを経営するため、一九〇七年一一月二六日、南満州鉄道株式会社(いわゆる「満鉄」)が設立された。また日本は、清国政府の反対にも拘らず、日露戦争中に建設した安東・奉天間の軍用鉄道を、戦後も改築、占拠しつづけ、満鉄をその経営にあたらせた。以上の鉄道沿線―本稿では便宜上これを、満鉄設立以前であっても「満鉄沿線」と称することにする―に、日本は広大な付属地(満鉄付属地)を設定し、事実上これを支配していた。

 一九〇六年九月一日、関東都督府が開設され、関東州が民政に移行すると、満鉄付属地の行政警察事務は関東都督府が担当することとなった。さらに一九〇七年関東都督府令第二六号「満鉄付属地に適用すべき関東都督府令及び関東州民政署令」(一九〇七年四月二七日)によって、前節で掲げた[1][3][5][6][9]の法令(いずれも関東州民政署令)は、満鉄付属地にも適用された。すなわち満鉄付属地においては、関東州と同一の公娼制度が実施されることになったのである。

 満鉄付属地の「買売春」管理は、形式上、関東都督府に所属する各地の警務署が担当したが、実際には各地の領事が関東都督府事務官を、領事館付警察官が警務署警察官を兼任し、満鉄付属地(関東都督府管轄)とそれ以外の地域(領事館管轄)に対する管理主体の一体化がはかられた。また先述のように、中国人「売春婦」は関東州では「娼妓」として管理されたが、満鉄付属地では、一九一六年関東庁令第四二号「営業取締規則」(一九一六年九月一一日)に定められた「俳優」として管理されることになった(49)。

 一方、関東州と満鉄付属地を除く地域は、軍政署の業務を継承した各地の領事館の管轄となり、日本人の「買売春」は領事館令で管理された。満鉄沿線所在の総領事館・領事館として、満州事変勃発までの期間に設置されたのは、奉天総領事館と、牛荘・安東・長春・遼陽・鉄嶺の各領事館である。一九〇六年七月、関東総督府は軍政の撤廃に関する綱領を定め、各軍政署に対し、日本人の居住営業、保護取り締まりを領事に引き継ぐ際の方針を指示したが(50)、その第五項には次のような規定があった。

一般地方衛生に関する件は領事これを監督す。領事より協議あるときは差し支えなき限り、検黴その他地方衛生に関し軍隊付軍医官をしてこれを援助せしむ(51)。

 このように領事館の検黴実施については、当面「満州」駐屯部隊の軍医に、引き続きこれを担当させる方針がとられたのである。

 領事館が軍政署から「買売春」管理を継承する過程を、営口・遼陽・瓦房店各軍政署の業務を引き継いだ、牛荘領事館(実際の所在地は営口)の例で確認しておこう(52)。まず一九〇六年八月一日の瓦房店軍政署廃止、および同年八月三日の遼陽軍政署廃止にともない、両軍政署所管地域の日本人営業の取り締まりが、牛荘領事館に引き継がれた(ただし遼陽軍政署からは海城と大石橋のみ継承)。瓦房店・遼陽軍政署が担当していた日本人「売春婦」への検黴業務は、当分の間は守備隊衛生部軍医が担当し、各地に組織されていた「日本人会」が、彼女たちから「衛生費」を徴収して、検黴の費用にあてることとなった。

 第一章第1節で述べたように「宿屋営業取締規則」「旅舎料理屋下婢取締規則」を定め、「下婢」に対する検黴を実施していた営口軍政署は、やや遅れて一九〇六年一二月一日に廃止された。これにともない開港場・営口の行政権は清国政府に還付されたが、牛荘領事館は即日、館令第二号「営口軍政署発布ノ規則中適用ノ件」を公布し、「料理店、飲食店其ノ他警察上ノ取締ヲ要スル諸営業者ニ対シテハ当分ノ間従来営口軍政署ノ発布シタル規則ヲ適用スル」ことを明らかにした(53)。その後、牛荘領事館では、一九〇七年八月九日に館令第三号「料理屋取締規則」を定め、またほぼ同じころに芸妓・酌婦の取り締まりに関する規則(54)を制定、さらに一九〇九年一一月六日には館令第七号「芸妓及酌婦健康診断規則」を制定して、管内の日本人風俗営業を管理するための法体系を確立していった。牛荘領事館管内において、事実上の公娼制度が完成したわけである。

 一方、領事館の指導のもと、一九〇七年九月一日に設立された牛荘居留民団(55)では、同年一〇月一五日に条例第三号を公布し(56)、「料理店業」「飲食店業」「芸妓及酌婦業」に対する「営業手数料」の徴収額を規定した(57)。同居留民団が条例第二号(同年九月一一日公布)で定めた一般の「取得課金」とは、別個の規定が設けられたわけであるが、その理由は「人格劣等ナル」料理店業者が居留民会議員の資格を取得し、これを濫用することを防ぐため、と説明されている(58)。

 以上の牛荘領事館の例のように、軍政の終了とともに検黴を中心とする「売春婦」の管理は、各地の領事館に引き継がれ、各領事館はこれを裏付ける法令を制定して公娼制度を確立し、他方で日本人自治機関(居留民団、居留民会、日本人会、日本人組合など)による「売春婦」への課税が実施されるようになったのである。

 さて日露戦後の満鉄沿線地域においても、関東州と同様、多数の日本人「売春婦」が在留しつづけた模様である。例えば長春では、一九〇六年一二月八日現在、料理店と料理店兼旅人宿を合わせた三四軒が、一五六名の酌婦を抱えており(孟家屯を含む)(59)、日本人女性は「悉ク醜業婦」(60)と公文書に記録されるほどであった。また奉天では、一九〇五年一一月一日から翌一九〇六年一月一九日にかけての調査で、日本人営業者(「主業」のみ)一五四名中、三四名が料理店経営者であり(61)、一九〇七年末の時点でも「各料理店ハいづれも日章旗を交叉して軒頭に掲げて置くと支那人ハ之を見て『アレハ淫売の印』と冷笑して居た」(62)と報告される状況であった。さらに前章で紹介した鉄嶺においても、一九〇七年一〇月一五日の調査では、料理店・旅館・飲食店の合計が七四軒、「之ニ依リテ生活スルモノ」四六六名で、在留日本人九〇七名の過半が、風俗営業を糧に生計を営んでいることが指摘されていた(63)。

 しかし一方で、日本軍兵士が帰国した後、風俗営業が不振に陥った地域もあった。例えば鉄嶺の場合、日本人経営の「売春宿」は、日本人を顧客とするだけでは経営が成り立たず、やがて中国人を対象とする方向に転換した模様である。一九一一年一〇月の時点で、鉄嶺には九軒の料理店が酌婦四六名を抱えていたが、同年一〇月一一日、領事館警察は鉄嶺居留民会に、次のような通知を出し、中国人相手の営業を戒めるとともに、今後新たに料理店および芸妓・酌婦営業を許可しない方針を明らかにした。

料理店営業者は内地に於ける貸座敷営業者と殆ど同視すべき状態にして随て同業者に付随する芸妓酌婦の如きは娼妓と等しく其結果は風俗を乱し衛生に害を及ほすこと少なからす特に清国人に対する営業の如き其然るを認む故に其取締に就き厳重励行し居るも当地大手裏町以東南門外一帯は清国下層社会の集合地点にして当地唯一の低地且つ最も不潔の区域たり然るに同地に於ける本邦料理店九戸酌婦四十五名を算す之れ等は皆軍政当時より営業するものにして其家屋の構造並に設備等頗る不体裁なるのみならす……帝国の体面上面白からざる結果を生するものと認められ候に付清国顧客専門料理店を漸次廃止するの方針を取り自今大手裏町以東一円に新たに料理店並びに芸妓酌婦営業を許可せざることに決定候(64)。

 さて満鉄沿線地域の各領事館が「買売春」管理のために制定した領事館令は、表2の(ア)から(カ)に示す通りである(以下、領事館令は表2の(ア)〜(カ)と(a)〜(e)の組み合わせで示す)。その内容は各地で微妙な違いがあるものの、「芸妓」「酌婦」その他「傭婦女」について言及しているだけで、「娼妓」という呼称は用いず、基本的には日本人「売春婦」を「酌婦」として取り締まるという関東州の方針を踏襲していた。先に述べたように満鉄沿線地域では、領事が関東都督府事務官を兼任し、鉄道付属地の警察事務にあたるという形式で、満鉄付属地とそれ以外の地域との行政警察業務の統一がはかられたため、「買売春」管理についても、両者の間に著しいギャップが発生しないような措置がとられたものと思われる。唯一の例外は「乙種芸妓」(65)に関する規定を館令に盛り込んだ安東領事館であり((イ)(c)・(d)・(e))、後述するように、少なくとも一九二〇年ごろまでは、安東領事館管内には日本人の「娼妓」「乙種芸妓」も存在していた。しかし一九三〇年の時点における、安東領事館の「買売春」管理の方針は、次のようなものであった。

娼妓ノ名称ハ国際関係上面白カラサルヲ以テ之ニ酌婦ノ名称ヲ寇シ貸座敷ノ名称ヲ排シテ料理店トナシ之ニ芸妓及酌婦ヲ住込マシメタルモノニシテ明治三十八年関東州民政署令第二号芸妓酌婦及雇婦女取締規則并ニ同則ニ基ク命令条項ニヨリ取締ヲ為シ支那人ハ支那古来ノ伝統的風習アリ日本人同様取締リ難キモノアルヲ以テ大正十五年関東庁令第四二号営業取締規則ニヨリ特ニ俳優ノ名義ヲ以テ許可ヲ与ヘ右芸妓酌婦及雇婦女取締規則ニ準シ取締ヲ為シツヽアリ(66)。

 すなわち安東領事館でも、一九三〇年までには、国際的な体面を重んじる立場から、「娼妓」の代わりに「酌婦」、「貸座敷」の代わりに「料理店」という名称を使用し、中国人「売春婦」に対しては「俳優」の名義で取り締まるという、満鉄付属地と同一の管理方式に転換していたのである。このような方針は、後述する満鉄沿線地域以外の日本領事館でも同様であり、「満州」の各日本領事館による「買売春」管理は、関東州を模範とする制度に統一されていったと言うことができる。

 さて各領事館が館令で定めた芸妓および「酌婦」への検黴実施状況は、表3のようになっており、(ア)〜(カ)に示した満鉄沿線のすべての領事館で、検黴に関する規定が設けられていたことが分かる。「酌婦」の検黴は、牛荘・安東・奉天・遼陽で義務づけられており、安東では週一回、牛荘では月三回以上と、回数まで規定されていた。芸妓に対する検黴は「酌婦」よりもやや緩やかであるが、それでも牛荘・奉天・遼陽では義務づけられており、残りの領事館でも必要に応じて実施されることになっていた。なお芸妓・「酌婦」に対し、条文の上では「伝染性疾患ノ虞アリト認ムル者」に「健康診断ヲ行フコトヲ得」と、比較的緩やかな規定であった長春領事館でも((エ)(b)第九条)、実際には一九三〇年の時点で、毎週一回、検黴を実施していたという(67)。

 また先の牛荘居留民団の事例で示したように、日本人居留民の自治機関をもつ地域(奉天、安東、遼陽など)では、「酌婦」をはじめとする風俗営業従事者に対し、自治機関がさまざまな名称の賦課金を徴収し、その重要な財源としていた点が注目される。例えば、一九〇六年二月一一日に設立された奉天日本人会は、当初「軍に委託して多数娘子軍の健康診断を実施」しており(68)、同年七月一五日、奉天居留民会と改称した後には、公示第二号「賦課金規則」(七月二九日公布)をもとに、芸妓から三円、小芸妓(一二歳未満)から一円、酌婦から二円を、毎月徴収していた。奉天居留民会の初年度会計となった一九〇六年度下半期予算では「芸妓酌婦賦課金」として三六〇〇円が計上され、これは歳入の六〇パーセントという異常なまでの高率を占めていた(69)。

 このような奉天居留民会のケースは、決して特異な例とは言えないようである。先に紹介した牛荘居留民団の場合も、事実上の会計初年度となった一九〇八年度の経常部歳入一万七一〇〇円のうち、「営業手数料」として、飲食店から一〇八円、料理店から二四七二円、芸妓から一七二八円、酌婦から三三三六円、合計七六四四円を徴収することにしており、風俗営業従事者からの徴収額は経常部歳入全体の四四・七パーセントを占めていた(70)。

 牛荘居留民団ととともに、「満州」で最初に設立されたもう一つの居留民団である、安東居留民団の例も見ておこう。同居留民団では設立日となった一九〇七年九月一日、条例第一号「安東居留民団課金賦課条例」を公布し、風俗営業に対しては「雑種課金」が徴収されることになった(71)。同居留民団の各年度予算に計上された風俗営業関連の課金額は表4の通りであり、毎年コンスタントに経常費の一〇パーセント以上を占めていたことがわかる。奉天や牛荘ほどではないにせよ、安東でも風俗営業に対する課税は、日本人自治機関にとって貴重な収入源だったのである。

 一方、風俗営業従事者の年齢制限に関する規定は、必ずしも積極的に設けられたようではなく、その下限も各地でまちまちであった。事実上の「娼妓」である「酌婦」の年齢規定が存在するのは、牛荘(一七歳以上。(ア)(d)第二条)、安東(一八歳以上。(イ)(d)第二条)(72)の二領事館にすぎない。とりわけ日本が一九二五年に婦女売買禁止に関する国際条約に加入する以前は(73)、年齢についてもさほど神経が使われず、若年層の女性が「満州」に連れてこられた可能性は高いと思われる。また自由廃業については「乙種芸妓」に関する規定が存在していた安東領事館のみ、きわめて制限された形での条項が存在していた(74)。

 その他、安東では「乙種芸妓」「酌婦」に対し、居住・営業地域を指定する条文が領事館令に盛り込まれており((イ)(c)第一条、(d)第一〇条)、前章で触れた「遊園地」とはまた別の地域に、新しい遊廓がつくられたようである。なお館令に条文は存在しないが、奉天でも集娼政策がとられており(75)、その他の地域でも事実上「売春宿」は一定の地域に集中させられていたものと思われる。

 総じて、満鉄沿線地域の公娼制度も関東州と同様に、検黴と引き換えに「営業」を許可することで「売春婦」を徹底的に管理するという近代公娼制度の特質を備えつつ、さらにこれを日本人自治機関の財源として利用するための措置が講じられていた。しかし一方で、年齢制限の緩やかさや「酌婦」であるがゆえに自由廃業の法的根拠をもたないなど、女性の人権を保護しようとする発想は、日本「内地」以上に希薄であったと総括できるだろう。そして満鉄沿線各地でも、大連と同様、一九一〇年代の半ばごろに朝鮮人「売春婦」が出現することになったのである(76)。

3 その他の地域での「買売春」管理

 満鉄沿線以外の地域において、日本人「売春婦」を管理する法的根拠は、もっぱら領事館令ということになる。満州事変以前にこの地域に存在していた(総)領事館は、哈爾賓・間島総領事館と、吉林・斉斉哈爾・赤峰・鄭家屯・満州里の各領事館であり、このうち今回は、哈爾賓、間島、吉林、斉斉哈爾についてのみ領事館令の内容を調査することができた。以下の検討対象はこの四つの(総)領事館ということになり、すべてが満鉄沿線地域と同様に、日本人「売春婦」を「酌婦」として管理していた。これらの領事館で出された、風俗営業関連の法令は前出表2の(キ)から(コ)までである。

 「酌婦」に対する検黴は、表3(前出)のように、すべての領事館で義務づけられており、吉林・哈爾賓・斉斉哈爾では週一回と定められていた。「酌婦」の年齢の下限は、やはり各領事館ごとに異なるが、吉林では一七歳以上((キ)(b)第三条)(77)、哈爾賓では一六歳以上((ク)(b)第一条)(78)、斉斉哈爾も一六歳以上((ケ)(c)第一条)(79)となっており、日本「内地」における娼妓一八歳以上の年齢制限より、一〜二歳低く設定されていた。なお斉斉哈爾では「酌婦」の居住・営業地域を指定する一方((ケ)(c)第五条)、「酌婦」が自ら領事館警察署に出頭した場合のみ廃業を認めていた((ケ)(c)第一五、一六条)。

 以上を見る限り、満鉄沿線以外の地域の領事館令の内容に、前節で紹介した満鉄沿線地域のそれとの大きな違いを見出すことは困難であり、基本的に両者は同じコンセプト―関東州の公娼制度をモデルとする形で「買売春」管理をおこなっていたものと考えられる。すなわち前節の最後に指摘した問題点は、ほぼそのまま満鉄沿線以外の地域にも当てはまるのである。

 日露戦争期の日本軍による「買売春」管理を出発点として、「満州」の日本人居住地域に確立した公娼制度は、関東州の制度を中核とする日本公娼制度の一変種であり、朝鮮各地や上海など、日露戦後の東アジア諸地域に日本が移植した制度とも、基本的性格を同じくするものであった。そしてそれは、事実上の公娼を「娼妓」と呼ばず「酌婦」と言い換え、年齢の下限は低く設定されるなど、日本「内地」の公娼制度に輪をかけた、欺瞞的で人権抑圧的な性格のものであったと言える。一九一〇年代に入って出現する「満州」の朝鮮人「売春婦」も、このような日本国家権力の管理下に置かれることになるのである。

 ところで前節で、中国人を顧客としていた鉄嶺の日本人「売春宿」を、領事館が規制しようとした事例を紹介したが、このように外国人を対象とする「売春」は、しばしば日本の当局者にとって、国家の体面を損なうものと認識され、取り締まりの対象となった。

 北部「満州」地方は、一九世紀末より中国人やロシア人を顧客とする日本人「売春婦」が出現していた地域であり(80)、日露戦争直前の一九〇二〜〇三年ごろ、その中心地である哈爾賓には、一一軒の貸座敷が存在していたという記録がある(81)。

 日露戦争の勃発で姿を消した日本人「売春婦」たちは、戦後、再び北部「満州」地方に現れることになる。一九〇八年の時点で、哈爾賓在留日本人女性四五九名のうち、九四パーセントにあたる四三二名が「醜業婦」であったとする資料もある(82)。一九一三年には「哈爾賓を中心として東は浦塩斯徳より西は満州里辺までの西伯利亜鉄道沼線に本邦の醜業婦がどれだけ居る事か知れぬ」と報告される状況であった(83)。

 彼女たちは海外に渡った日本人「売春婦」の中でも、とくに悲惨な生活を強いられた存在であった。次の資料には、このころの時代状況を反映してロシア人や中国人に対する偏見も見られるが、それでも当時の北部「満州」地方における日本人女性の悲惨な状態は窺い知ることができる。

奥地に於て彼等は何うして居るかと云ふに支那家屋とも付かず、露西亜家屋とも付かず、果は日本家屋とも付かぬ一種特別なる構造の家屋に十人二十人或は三十人と云ふ一群が一種異様なる洋装して露西亜人や支那人を相手に淫を鬻いで居る、而も其露西亜人や支那人の大部分は下級労働者か苦力共で宛ら乞食の様な顔触である……。[中略]/殊に多いのは病人である。気候の為めか肺病に罹る者が多い、次は梅毒患者である。[中略]遠く故郷を離れて満州の奥地に来たり、誰一人として同情する者もなければ看護する者もないから所謂彼等は野倒れ人となつて無限の恨を呑み異境の土となるのである(84)。

 こうした状況に対し、一九一八年、外務省は奉天で開催された領事官会議の決定を受け、「満州」での外国人相手の「売春」を禁止する方針を打ち出している。以下は、当時外務大臣であった本野一郎の名義で、中国駐在の各領事にあてた通達からの引用である。

従来本邦人ニシテ支那各地ニ於テ醜業ニ従事スル者少カラサル処右ノ内相当ノ店ヲ構ヘ料理業ヲ営ムモノノ如キハ兎モ角トシテ満州各地ニ於テハ不体極マレル場屋ニ於テ専ラ下級外国人ヲ顧客トシ醜業ヲ営ムモノ甚タ多ク之カ為一般本邦人ノ体ヲ毀損スルモノ少ナカラサルカ為過般奉天ニ於テ開催セラレタル領事官会議ニ於テ右様ノ醜業者ハ其ノ営業状態ヲ改善セサルニ於テハ本年末迄ニ之ヲ禁絶スルコトニ決議ノ次第有之候ニ付今般在満州各領事官及各分館主任ニ対シ右決議ノ趣旨実行方及訓令置候條貴管内ニ於テ右等下級醜業者之レ有ル場合ニハ右ノ趣旨ニ依リ相当御措置相成度此段申進候(85)。

 これにともない、同年二月四日、哈爾賓領事館では、次のような内容の告示第六号を出し、「下級外国人」を顧客とする「醜業」を厳しく取り締まる方針を明らかにした。

芸妓酌婦其他特種婦女ニシテ下級外国人ヲ顧客トシテ醜業ヲ営ミ又ハ此等婦女ヲシテ此種ノ醜業ヲ営マシムルモノ其状態風俗ヲ紊シ苟クモ帝国臣民ノ体面ヲ汚損スヘキモノト認ムルトキハ大正七年限リ其営業ノ許可ヲ取消シ又ハ禁止ヲ命スヘキニ付当該営業者又ハ其他ノ従業員ハ当館警察官吏ノ命令指示ニ従ヒ期ヲ刻シ改善ノ途ヲ計ヘシ/右告示ス(86)。

 こうした措置が、どの程度効果を上げたのかは明らかでないが、その後も北部「満州」地方に、外国人相手の日本人「売春婦」は存在し続けた。しかし一九二〇年代に入ると、この地方にも朝鮮人「売春婦」が出現し、次第に日本人女性にとって代わるようになる。朝鮮人女性が「下層売春婦」として日本式の風俗営業のヒエラルキーに組み込まれていったことを示唆する現象と言えるであろう。

 

おわりに

 日本による「満州」への公娼制度移植は、日露戦争期の日本軍による「買売春」管理を出発点としていた。日本軍は検黴を中心に「売春婦」に対する管理をすすめたほか、施設を整え、料金を設定するなど、さまざまな形態で「売春宿」の運営に関与し、なかには軍人専用の「売春宿」が出現した地域さえあった。これらは明らかに、日本軍慰安所のプロトタイプと言うべき存在であった。さらに日本軍は日露戦争において、中国人「売春婦」―異民族女性に対する「買売春」管理をも経験していた。

 日露戦争後には、関東州の公娼制度を中核として、「満州」各地の日本人居住地域で、日本「内地」と基本的性格を同じくする「買売春」のシステムが確立していった。しかし一方で「娼妓」ではなく「酌婦」という欺瞞的な呼称を用いたり、年齢制限の緩やかな点や自由廃業がいっそう困難なところに「内地」との差別性も存在していた。各種風俗営業に対する課税は、居留民団、居留民会などの日本人自治機関が担当し、その重要な財源となっていった。そしてこのような制度の存在を前提に、一九一〇年代半ばごろより、植民地朝鮮から「満州」へと「売春婦」が送り込まれることになるのである。

 本稿で明らかにした「満州」での公娼制度確立過程は、さまざまな意味において、十五年戦争期に成立する「慰安婦」制度へ継承される要素を内包していた。日本軍による「買売春」管理の発想と方法は、そのまま「慰安婦」制度に連続するものである。また公娼制度の完成により「満州」に定着した「売春婦」は、戦時体制のもとで容易に「慰安婦」に転換され得る存在であり、こうした女性たちの中には朝鮮人も含まれていたのである(87)。

 「満州」の日本人「売春婦」のほとんどは、詐欺や誘拐といった手段で連れて行かれた女性たちであった(88)。事情は日本人兵士の相手をした中国人「売春婦」も同様であったと思われる。日露戦中・戦後に、日本の占領地軍政が兵士の「性的慰安」のために整備したシステムは、異民族を含む女性の犠牲の上に成り立つものであった。本来的に女性抑圧的なこのシステムの人的供給源を、とくに植民地・占領地の被支配民族の女性へとシフトさせたものが、まさしく十五年戦争期の「慰安婦」制度だったのである。


 

(35)安井洋「日露戦に於ける遼東兵站衛生業務の回顧」(同前、所収)三五一〜三五二頁。

(36)益富政助「満州に於ける日本人醜業婦(上)」『万朝報』一九〇七年一二月八日。

(37)「輸出婦人四万人」『婦人新報』第一三六号、一九〇八年九月、三頁。

(38)益富政助「満州に於ける日本人醜業婦(下)」『万朝報』一九〇七年一二月九日。

(39)法令の名称とその条文は、以下の文献による。関東都督官房文書課『明治四十四年十一月一日現行 関東都督府法規提要』満州日日新聞社、一九一一年。『関東都督府法規提要』関東都督府、一九一四年。『関東局法規提要』下巻(加除式、一九三七年現在。東京大学法学部研究室図書館所蔵)。
 なお一九一〇年代以降の主要な関係法令としては、以下のようなものがあるが、後二者は条文を入手できなかった。

(40)篠崎嘉郎『大連』大阪屋号書店、一九二一年、二〇三頁。

(41)『関東局施政三十年史』同局、一九三六年(復刻版、原書房、一九七四年)七九九頁。

(42)同前、八〇〇頁。

(43)前掲『明治四十四年十一月一日現行 関東都督府法規提要』八〇六〜八〇九頁。

(44)前掲『関東局施政三十年史』七二〜七三頁。なお一九二五年度より徴収方法が変更され、「遊興した者」あるいは営業者が徴収義務者となり、芸妓・幇間・俳優を招いた場合は「花代」の四パーセント、酌婦・娼妓を招いた場合は一パーセントを徴収することになった。

(45)同前、七九九頁。

(46)同様の理由から、上海や保護国期の朝鮮では、日本国内の「娼妓」に相当する女性を「乙種芸妓」「特種芸妓」「第二種芸妓」などと呼んでいた。
 なお関東州において「酌婦」という名称を使用したもう一つの理由として、「娼妓」に比べ「酌婦」の方が、課金が安かったため、営業者自らがこれを望んだ点も指摘されている(倉橋、前掲『北のからゆきさん』一四五〜一四七頁)。

(47)前掲『関東局施政三十年史』八〇一頁。

(48)例えば、一九一四年一月一四日付の『満州日日新聞』は、玄章という朝鮮人が、大連の逢阪町遊廓に三名の朝鮮人女性を連れてきて、一月一二日に「春風館」という妓楼を開業したと伝えている。大連における朝鮮人「売春婦」の嚆矢と見られる(倉橋、前掲「満州の酌婦は内地の娼妓」一二二頁)。

(49)前掲『関東局施政三十年史』八〇一頁。

(50)前掲『外地法制誌』第一二巻、三九頁。

(51)同前、四〇頁。

(52)以下の叙述は、一九〇六年八月二日、瀬川浅之進・在牛荘領事より林董外相あて第五四号、および同年八月三日、瀬川領事より林外相あて第五七号(前掲「日露戦役ニ依ル占領地施政一件 牛荘ノ部」第一巻、所収)などによる。

(53)前掲『明治四十四年十一月一日現行 関東都督府法規提要』附録「民政署警務署領事館南満州鉄道沿線法規集」九四頁。

(54)一九一〇年四月二〇日に公布された牛荘領事館令第二号「芸妓酌婦取締規則」の第一三条に「明治四十年館令第四号ハ本則施行ノ日ヨリ之ヲ廃止ス」とあるので、牛荘領事館では、一九〇七年館令第三号「料理屋取締規則」と同時か、その直後あたりに、芸妓・酌婦を取り締まるための規則を定めたものと推測されるが、その条文は発見できなかった。

(55)一九〇七年八月の外務省告示第一八号により、同年九月一日、天津・上海・漢口・安東・牛荘の五居留民団が設立された。

(56)牛荘居留民団条例の条文は、一九〇八年五月八日、高橋清一・在牛荘領事館事務代理領事官補より林董外相あて公第六八号附属「牛荘居留民団事務報告」(前掲『外務省記録』3・8・2・234「牛荘居留民団法施行一件」第一巻、所収)一〇〜一三頁、による。

(57)それぞれ月額で、「料理店業」は第一等一六円、第二等八円、第三等五円、第四等三円、第五等二円、「飲食店業」は第一等二円、第二等一円、第三等五〇銭、「芸妓業」は四円、「酌婦業」は二円と定められた。ただし徴収額は、その後しばしば変更されている。

(58)一九〇七年九月二三日、窪田文三・在牛荘領事より林董外相あて公第二一九号別紙「居留民団法施行ニ関スル領事館令案理由書」(前掲「牛荘居留民団法施行一件」第一巻、所収)。
 その他、各地の居留民団でも、同様の措置がとられていた。上海居留民団の事情については、前掲、拙稿、一三三頁の注(46)を参照。

(59)一九〇六年一二月七日、柴田要治郎・在奉天総領事館領事官補(長春分館主任)より林董外相あて公信第七号(前掲「日露戦役ニ依ル占領地施政一件 遼陽、奉天、新民屯、鉄嶺、公主嶺、長春ノ部」所収)。

(60)一九〇六年一二月八日、柴田要治郎・在奉天総領事館領事官補より林董外相あて第三号(同前、所収)。

(61)前掲『南満州ニ於ケル商業』三五七頁。

(62)前掲「満州に於ける日本人醜業婦(下)」〔注(38)〕。

(63)前掲『南満州ニ於ケル商業』二三三〜二三四頁。

(64)『満州日日新聞』一九一一年一〇月一八日。

(65)「乙種芸妓」については注(46)を参照のこと。

(66)一九三〇年六月三日、森岡正平・在安東領事より幣原喜重郎外相あて機密第二一五号(前掲『外務省記録』B・9・10・0・1―1―1「国際連盟婦人児童問題一件 東洋ニ於ケル婦女売買実地調査ノ件 準備調査(売笑婦ノ実情取調ノ件)」〔以下「国際連盟・準備調査」と略記〕所収)。

(67)一九三〇年六月三四日、田代重徳・在長春領事より幣原喜重郎外相あて機密公二七六号(前掲「国際連盟・準備調査」所収)。逆に鉄嶺では、当初は芸妓・酌婦ともに検黴を義務づけていたが((カ)(b)第八条)、一九一六年に緩和された((カ)(d)第八条)。

(68)『奉天居留民会三十年史』同会、一九三六年、三頁。

(69)同前、一七〜二二頁。

(70)前掲「牛荘居留民団事務報告」〔注(56)〕二三〜二五頁。牛荘居留民団の場合、一九一〇年代に入ると、歳入全体に占める割合は一〇パーセント台に落ち込むが、それでも重要な収入源であり続けたことに変わりはない。

(71)一九〇七年九月一八日、岡部三郎・在安東領事より林董外相あて公信第一四二号(前掲『外務省記録』3・8・2・229「安東居留民団法施行一件」第一巻、所収)。
 同条例第一一条に定められた、当初の徴収額(いずれも月額)は、次のようになっていた。「料理店」=四等に区分され四〜七円。「飲食店」=三等に区分され一〜三円。「芸者」=幇間八円、甲種芸妓七円、乙種芸妓五円、雛妓二円。「仲居下婢酌婦」=仲居下婢一円、酌婦三円。「貸席」=四等に区分され五〜八円。

(72)その他、甲種芸妓は一六歳以上、雛妓は一六歳未満、乙種芸妓は一八歳以上となっている((イ)(d)第二条)。

(73)日本政府は、保護年齢二一歳未満を一八歳に引き下げること、植民地は適用外とすることを留保条件に「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」(一九二一年九月三〇日。国際連盟総会、ジュネーブ)に調印し、一九二五年一二月にこれを批准したため、上記条約とあわせて「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買取締ニ関スル国際協定」(一九〇四年五月一八日。パリ)「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買取締ニ関スル国際条約」(一九一〇年五月四日。パリ)の三条約に加入することになった。その後、一九二七年三月に、年齢制限に関する留保条件のみを撤廃した。

(74)「特種婦女名簿削除ノ申請ハ書面又ハ口頭ヲ以テスヘシ/前項ノ申請ハ自ラ警察官署ニ出頭シテ之ヲ為スニアラサレハ之ヲ受理セサルモノトス/但シ正当ノ理由アルトキハ此限リニアラス」((イ)(d)第一七条)。

(75)一九三〇年八月一一日、森島守八・在奉天総領事代理より幣原喜重郎外相あて機密公第五八一号(前掲「国際連盟・準備調査」所収)。

(76)例えば、一九一七年の安東県には、朝鮮人の「芸妓及雛妓」が一名、「酌婦(娼妓)」が一九名おり、また朝鮮人の経営する「飲食店」が一五軒、「貸席」が七軒あった(茶木清太郎『安東誌』安東商業会議所、一九二〇年、二六〜二七頁)。

(77)芸妓も、同じく一七歳以上と定められた((キ)(b)第三条)。

(78)一九三〇年の時点では、一八歳以上で取り締まっていたようである(一九三〇年七月一〇日、八木元八・在哈爾賓総領事より幣原喜重郎外相あて機密第七五六号〔前掲「国際連盟・準備調査」所収〕)。

(79)芸妓は一六歳以上、雛妓一六歳未満とされた((ケ)(c)第一条)。なお一九三〇年の時点では、「娼妓稼業」は一八歳以上となっていたという(一九三〇年六月二二日、清水八百松・在斉斉哈爾領事より幣原喜重郎外相あて本機密第一八六号〔前掲「国際連盟・準備調査」所収〕)。

(80)詳細は、倉橋、前掲『からゆきさんの唄』を参照のこと。

(81)戸水、前掲書、九四〜九五頁。入江寅次『邦人海外発展史』井田書店、一九四二年、(上巻)四四五〜四四六頁。

(82)前掲「輸出婦人四万人」〔注(37)〕三頁。

(83)柴田博陽「北満州の醜業婦」『廓清』第三巻第一二号、一九一三年一二月、二二頁。

(84)同前、二二〜二三頁。

(85)一九一八年一月二四日、本野一郎外相より在中各領事官あて通達「下級醜業者取締方ノ件」(外務省外交史料館所蔵『外務省警察史 満州及支那ノ部』中の「警察関係条約及諸法規類 第三 司法及在留民ノ保護取締」に所収)一一三七〜一一三八頁。

(86)一九一八年二月四日、佐藤尚武・在哈爾賓総領事より本野一郎外相あて報告別紙(同前、所収)一一四〇頁。

(87)十五年戦争期の「満州」で、日本軍が「売春婦」の管理を行った最も早い例として、現時点では、混成第一四旅団司令部が駐屯していた平泉に、一九三三年四月、日本人五名、朝鮮人三三名の「娼妓」が現れ、日本軍が検黴を実施しはじめた事実が知られている(国立公文書館所蔵・混成第十四旅団司令部「昭和八年四月自十一日至二十日衛生業務旬報」)。彼女たちは、以前から「娼妓」であった可能性が高い。
 また一九三二年初頭に上海で設立された海軍慰安所の一部も、もともとは上海に存在していた日本公娼制度下の「貸座敷」をその前身としていた。前掲、拙稿、参照。

(88)「是等の婦人は無論好きで身を堕した者もあらうが多くは無垢の田舎娘が甘い口車に乗た結果生き乍らの地獄に呻吟して居るのである」(前掲「輸出婦人四万人」三頁)。
 「……彼等の内には虚栄に囚はれて自ら悲境に沈倫せる者も之あらむ、されど多くは悪魔の毒手に誘拐せられ、其半生を咀ひ殺さるゝ者に候」(柴田博陽「満韓に於ける惨憺たる醜業婦」『廓清』第一巻第五号、一九一一年一一月、四九頁)。


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