日露戦争と日本による「満州」への公娼制度移植

本文・注(1) 

はじめに

第一章 日露戦争期の「買売春」管理

1 関東州の状況

2 関東州以外の日本軍占領地の状況


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はじめに  

 朝鮮・中国東北地方(以下「満州」と記す)の支配をめぐって勃発した日露戦争は、二〇世紀最初の大規模な帝国主義戦争であった。過酷な消耗戦の末、八万人以上の犠牲者を出した日本は、この戦争の勝利によって、朝鮮を保護国化し、関東州、南満州鉄道、南サハリンの経営に着手するなど、本格的な植民地帝国としての地歩を固めた。

 日露戦争が「大陸国家」としての近代日本の進路を決定づける分水嶺となったことは、改めて論ずるまでもないが、本稿では、きわめて今日的な問題意識から、近代日本と東アジアの関係を捉え直すために、日露戦争のもたらした意味を再考する。すなわち、いわゆる「慰安婦」制度の歴史的前提を形成するうえで、この戦争が果たした役割について吟味したいのである。

 かつて私は、朝鮮近代史を専門とする立場から、日露戦争を契機として「満州」に日本の公娼制度が移植されたこと、このような公娼制度の存在を背景に、一九二〇年代の半ばまでには植民地朝鮮から「満州」への女性売買のルートが確立したこと、そしてこうした事情が、十五年戦争期に朝鮮人女性を「慰安婦」として「満州」に強制動員するうえでの歴史的前提になったと考えられること、などを概略的に述べたことがある(1)。本稿は、以上の論点を深めるため、とくに日露戦中・戦後の占領地軍政による「買売春」管理の実態と、これを起点として「満州」に確立した日本公娼制度の内容に、焦点をしぼって論じようとするものである。

 日露戦争の時期、戦場となった「満州」に、多数の「売春婦」が連れて行かれたことは、当時の廃娼運動家らによって早くから報告されていた。また一九七〇年代以降の、大江志乃夫氏の日露戦争研究(2)や倉橋正直氏の「からゆきさん」研究(3)などにより、その実態はいっそう明らかにされている。とくに近年は、これら「売春婦」の管理に軍が関与していたことに注目し、これを日本軍慰安所の「原初的形態」として把握する視角も登場している(4)。これらの先行研究を踏まえ、本稿ではとくに次の二点に留意しつつ考察を進めたい。

 第一に、日露戦争期の日本軍による「買売春」管理の特徴を、いっそう明確にすることである。それはまた、のちの「慰安婦」制度との類似点をあぶり出す作業でもある。このような分析を通じ、「慰安婦」制度に継承されたはずの、軍が兵士に「性的慰安」を供給しようとする発想の原点を探りたいと考えている。なおこの問題を扱った第一章の叙述にあたっては、先の大江氏、倉橋氏の研究により発掘された史料に依拠するところが大きかった。煩雑を避けるため、とくに注記はしなかったが、この点あらかじめお断りしておきたい。

 第二に、日露戦争を契機に成立した「満州」での公娼制度の構造を究明することである。先に述べたように、公娼制度の存在こそが「慰安婦」制度成立の歴史的背景を形成したと考えられるからである。また「満州」と時期をほぼ同じくして、朝鮮各地や中国本土の日本人居住地域に、日本の公娼制度が拡散していったことも、近年の研究で明らかにされている(5)。東アジア社会に空間的な広がりをもって確立することになった、日本の国家権力による「買売春」管理制度の連関性を解明するためにも、その環の重要な構成要素をなす「満州」での実態が明らかにされねばならない。

 ところで日露戦中・戦後の占領地軍政は、きわめて複雑な制度的変遷をたどっている。ここで、本稿に必要な範囲で、軍政機関の推移を整理しておきたい(6)。(以下、「満州」の地名については図1を参照のこと。)

 一九〇四年四月、日本軍の「満州」進出にともない定められた満州軍政委員制度により、「満州」の日本軍占領地には、各軍司令官のもと、軍政委員を責任者とする軍政署が設置され、このうちロシア租借地(のちの関東州)内の占領地域には、金川・大連の両軍政署が置かれることになった。同年九月には、後方守備のため遼東守備軍が編成され(司令部は金州に設置、同年一一月大連に移転)、遼陽以南の各軍政署は逐次、遼東守備軍の管下に置かれた。一九〇四年一二月、遼東守備軍は管内をロシア租借地とそれ以外の地域に分けて軍政の方針を区別し(7)、翌一九〇五年一月の旅順陥落によりロシア租借地全域が日本軍の占領下にはいると、租借地内には新たに旅順軍政署が設置された。のちの関東州の民政は、この遼東守備軍の統治政策に端を発するものが多いと言われる。一九〇五年三月の奉天会戦後には、奉天・鉄嶺軍政署と新民府軍務署(8)が新設されたが、これらは遼東守備軍の管轄下にはおかず、満州軍総司令部の直属となった。この時点から遼東守備軍廃止までの軍政機関の組織系統は、図2のようになる。

 一九〇五年五月、遼東守備軍とその隸下の各軍政署は廃止され、関東州の軍政は同年六月二三日に新設された関東州民政署(大連)に、それ以外の地域は満州軍総兵站監隸下の遼東兵站監部に引き継がれた(9)。しかし一九〇五年九月五日のポーツマス条約調印で日露戦争が終結すると、同年一〇月一日に遼東兵站監部は廃止され、一〇月三一日、関東総督府が遼陽に設置された。関東総督府は旧遼東兵站監部所属の軍政機関と関東州民政署を管掌し、満州軍総司令部帰還後は、これに直属していた各軍政署と新民府軍務署をも、その隸下に置いた。すなわち関東総督府は、すべての軍政機関を管下に置き、各地の軍政を総攬する、「満州」統治の最高機関となったのである。一九〇六年二月に開設された、瓦房店・営口・遼陽・安東県の四軍政署も関東総督府に帰属し、この時点での「満州」の軍政機関は、図3のような組織になっていた。

 日露戦争の戦場となった「満州」の軍政はこのような変遷をたどり、一九〇六年九月の関東都督府設置まで続いたが、そもそも中立国たる清国の主権下にある「満州」において実施された日本の占領地軍政が、果たして国際法の許容する範囲にとどまるものであったのか、私としては疑問を感じる点があることも付言しておきたい。

 さて一九〇六年九月一日、関東州は民政に移行し、旅順に関東都督府が開設された(関東総督府・関東州民政署は廃止)。これを前後して、関東州外の軍政署も順次廃止され、その行政事務は各地の領事館に引き継がれた。日露戦後、日本が事実上の支配下においた鉄道付属地の統治は、関東都督府と満鉄(南満州鉄道株式会社)が業務を分担する変則的な形態がとられた。

 その後、関東都督府は一九一九年四月に廃止され、関東州の統治機関として新たに関東庁が置かれた(このとき軍事機構は分離、独立して関東軍が創設された)。関東庁は「満州国」樹立後の一九三四年一二月に関東局が設置されるまで、関東州の統治を担うことになるのである。

*本稿において引用文中の[ ]は、引用者による注記である。

  

第一章 日露戦争期の「買売春」管理

1 関東州の状況

 「はじめに」で述べたように、日露戦争からその直後の時期にかけて、戦場となった「満州」に、多数の日本人女性が売春業者によって連れてこられた事実は広く知られている。例えば日露戦争末期における、日本軍占領地の状況を『婦人新報』は次のように伝えている。

……今又我軍人が血を流し骨を曝して贖ひ得たる新占領地は、此等醜業婦のために汚されつゝあり。読者は前号木村清松氏の談話にて、営口に於ける我醜業婦の状態を察せられたるべし、而して新占領地中此等の者の、跋扈するは独り営口に止まらず、遼陽に大連に出没しつゝありと云ふ……。/此頃また伝ふる所に依れば大坂の資本家某帝国党の老浪士某等大連市街に改良貸座敷設立を出願し其認可を得……五ケ月以内に建築落成の予定を以て大坂を出発せりと。又他の報に曰く、某々等は醜業婦を率ひて新占領地に渡り幾万の財を蓄へたりと、彼等は同胞婦人を商品として自己の懐を肥やしつゝあり、而して政府は此非倫を認めて保護しつゝあり……(10)。

 本章は、日露戦争中の日本軍による「買売春」管理の実態を明らかにすることをめざしているが、まず本節では、日露戦後に租借地として日本の支配下におかれることになる、関東州の状況について見ておく。資料がはなはだ断片的であるため、本節では簡単な問題点の指摘にとどめ、次節で紹介するその他の日本軍占領地(のちの満鉄沿線地域とほぼ重なる)の状況と総合することによって、論点を明確にしていきたい。

 日露戦争以前にも遼東半島のロシア租借地には、日本人「売春婦」が居住していた。例えば一九〇二年八月の時点で、旅順には一二軒の貸席が、ほぼ同じころの大連には五軒の貸席と四七名の娼妓が存在しており(11)、またロシア当局の調査によれば、一九〇三年一月二三日現在、旅順には二〇一名の日本人娼妓が居留していた(12)。しかし日露戦争の勃発にともない、彼女たちは租借地から引き揚げざるを得なかったと思われる(13)。

 日露開戦後、大連に初めて日本人女性が現れるのは、一九〇五年三月のこととする説がある(14)。『満州日日新聞』の伝えるところでは、ジャンクで大連沖を漂流中、海軍に救助された一二名の女性がその嚆矢というのである。彼女たちは「防備隊酒保使用人」の名目で、酒保内に起居することとなったが、もともと彼女たちは、次のような目的をもって大連への渡航を計画したと言われる。

年の若い女が十二人、何の為めに来たらふと別に首を傾げる迄もない、占領された大連は軍人軍属の多いゝのは勿論、御用船毎に陸軍大臣の渡航許可証を携えて一攫千金と出懸る御用商人雲の如しで、『女』の需要は絶対に供給が禁止されてある丈けそれ丈け急である。軈ては供給禁止婦人渡航禁止も解けるであらふと……取るものも取り敢へず出陣して見たが、素より正面から切り込めない遙かに海を経てゝ芝罘を足溜りにアワ好くば敵前上陸を試みよふと云ふ寸法(15)。

 一九〇五年三月の時点で日本軍が女性の渡航を厳禁していたという記述は、はなはだ疑問であるが、旅順陥落(一九〇五年一月)により、完全に日本の支配下に入った関東州に、軍人・軍属めあての日本人の風俗営業が出現しはじめたことは確かであろう。当時、関東州の軍政を管掌していた遼東守備軍が、一九〇五年四月一日に定めた「軍政署収入支出科目」中には「営業租」の一つとして「芸娼妓税」が掲げられていた(16)。

 関東州の風俗営業従事者は、その後、急増した模様である。大江志乃夫氏によれば、日露戦争終結時の一九〇五年九月現在、関東州の日本人芸娼妓数は一四〇三名を数え、これは在留日本人二五八二名中の五四・三パーセントにあたるという(17)。この時点で関東州在留日本人の半数以上を芸娼妓が占めていたわけである。

 ところで軍政機関の娼妓に対する取締規則として、最も早い時期的に制定されたと思われる、遼東守備軍の「大連娼妓営業取締規則」(一九〇五年二〜三月ごろの制定か?)(18)には、次のような規定があった。

第四条 娼妓稼ヲ為サント欲スル者ハ左ノ事項ヲ具シタル書面ヲ大連軍政署ニ差出シテ許可証ヲ受クベシ
一 郷貫現住所姓名及年齢
一 娼妓稼ヲ為スヘキ場所及娼妓等級

 このような娼妓に対する許可証発給と対をなす形で、第一〇条には、近代公娼制度の特質たる、「売春婦」への検黴(強制性病検診―娼婦登録制度)(19)に関する規定も盛り込まれていた(週二回実施)。その他、この規則には、遊廓地域の指定(第二条)、娼妓の年齢制限(一七歳以上。第五条)、「揚代」の上限や営業税額の設定(第八、九条)など、「買売春」を管理するための一般的な条項も定められている。この規則にもとづき、実際にどの程度、取り締まりが行われたのかは不明であるが、関東州の軍政当局が、軍人・軍属と接触する「売春婦」に対し、検黴などの手段をもって管理に乗り出す方針を立てていたことは明白である。この規則の実施が実体をともなっていたとすれば、大連においては軍が公娼制度を成立させていたと言うことができる。

 また先の第四条で、娼妓は許可証を取得するために「郷貫現住所姓名及年齢」を大連軍政署に届け出るよう定められていたが、そのほかこの「大連娼妓営業取締規則」には、次のような条項も含まれていた。

第三条 娼妓抱主ノ業ヲ営マント欲スル者ハ其郷貫現住所氏名年齢及等級ニ営業家屋ノ構造及房数ヲ添記シ大連軍政署ニ願出ツヘシ
娼妓抱主ハ他ノ営業ヲ兼ヌルコトヲ得ス
第十二条 娼妓ハ左ノ諸件ヲ堅ク守ルベシ
一 日本人ト同室ニテ阿片烟ヲ吸食セザルコト[第二項以下略。傍点引用者]

  このように娼妓とその抱主に対し、自らの「郷貫」を記載した文書を提出させ、また娼妓には日本人と同室での阿片の吸引を禁じるなど、中国人に対する取り締まりを想定したような条文が存在しているのである。日露戦争期の占領地軍政において、日本軍が管理の対象とした「売春婦」は、日本人だけではなかったのだ。

 以上のように日露戦争期の関東州では、近代国家権力による「買売春」管理の中心的な装置と言うべき「売春婦」への検黴が実施されており、しかも異民族である中国人女性をも管理の対象としていたのであった。

2 関東州以外の日本軍占領地の状況

  関東州以外の日本軍占領地でも、日本人「売春婦」は急増していた。例えば、一九〇四年七月下旬に日本軍が占領した開港場・営口では、次のような状況であった。

 女は多く醜業婦 営口占領後ハ軍政署にて夫の同伴せる妻若くハ内縁の妻に限り住居を許可したるに抜目なき醜業婦ハ内縁の妻に仮装し丸髷にて女将気取にて構え居るより酒保、御用商人等が之を手に入れんとすれバ一夜二三十金を費さざるを得ず、然るに供給者ハ少なく需要者多きため百名内外の醜業婦ハ殆んど目の廻る程なりしが其醜業婦又ハ抱主等より内地へ向け営口の景気よき旨を通知して渡来を勧誘したると其噂を聞きて渡来したるため解氷後ハ遂に四百名の多数となり各旅館にハ数名の婦人を見ざる事なきに至りたり……茲に[一九〇五年]三月十八日を以て下婢取締規則なるものを発布し四月一日より之を実施する事としたり(20)。

  この新聞記事は、一九〇五年春の状況を伝えたものであるが、占領地軍政のために設置された営口軍政署が、娼妓に対する課税と検黴を実施していたことは、他の資料からも確認できる(21)。倉橋正直氏によれば、営口軍政署が一九〇五年三月に制定したのは「宿屋営業取締規則」と「旅舎料理屋下婢取締規則」で、「売春婦」を「下婢」として管理し、検黴を実施するものであったという(22)。また遼陽軍政署でも、附属機関として「日本婦人病院」を運営していたが、この病院は「専ラ婦人病毒ノ蔓延ヲ予防スル目的ヲ以テ建設シ主任者ハ軍医其他看護長看護人等何レモ軍人ヲ以テ成」っていたという(23)。

 ところで関東州以外の占領地軍政においても、管理の対象となったのは、日本人女性だけではなかった。鉄嶺軍政署では、同地での検黴実施の状況を次のように記録している。

昨年[一九〇五年]四月下旬軍隊ノ情態ニ稽ヘ特ニ規則ヲ設ケ土民ニ公娼ヲ許可セシ以来一日毎ニ検黴ヲ厳重ニ施行セシモ独リ駆黴上ニ就キ完全ノ設備ヲ缺ケルヲ遺憾ト為セシガ其七月ニ至リ当署ニ軍医ノ専属セラレタルヲ機トシ施薬所内ニ検黴所及駆黴院ヲ設置シ既定ノ方針ニ因リ検査ヲ励行セリ(24)。

木村軍政官時代ヨリ施療院ヲ設ケテ専ラ清国官民ノ施療施薬ヲナシ且ツ娼婦ノ検黴ヲ為シ来リシ……[一九〇六年]二月下旬其ノ設備ヲ終リ鉄嶺医院ト改称シ従来ノ検黴所ヲ鉄嶺医院分院トナシ……(25)。

 すなわち鉄嶺軍政署では、一九〇五年四月下旬に定めた規則にもとづき、現地の中国人に公娼を許可するとともに、検黴を実施していたというのである。このように日本軍将兵を対象とする中国人経営の妓楼が存在し、日本軍が中国人「売春婦」を管理していた事例は、法庫門でも見られるが(26)、鉄嶺の場合、「営業」を許可された中国人「売春婦」は、表1のように、一九〇五年六〜一〇月の間、のべ八二名に上っていた。

 先の関東州のケースと合わせ、日本軍は日露戦争の段階で、異民族を対象とする「買売春」管理をすでに経験していたのであった。十五年戦争期に日本軍が、朝鮮人や中国人、東南アジアの女性など異民族の「慰安婦」を管理したシステムの原点が、ここにあると言えるだろう。

 さて鉄嶺軍政署では、一九〇五年一二月一日に日本人の居住・営業を許可したが、当初は、芸妓・酌婦などの来住は不許可のたてまえをとっていた(27)。しかし翌一九〇六年三月一〇日に女性の居住を許可して以来、人口は急増し、居留民の職業は「雑貨商又ハ土木請負業等ノ外ハ旅館料理店ノ類」というのが実際のところであった(28)。言うまでもなく、鉄嶺軍政署は中国人だけでなく日本人「売春婦」に対しても、営業願を提出するよう義務づけていた(29)。

 ところで鉄嶺の事例で注目されるのは、「売春婦」に対する管理の発想や方法が、のちの慰安所制度のそれに通じるところが見られる点である。次の資料は、日露戦争に従軍したある軍医の回想記から引用したものである。

……鉄嶺の我が兵站部は試みに一地区を定めて、私娼を公認することゝして、兵站憲兵をして取締をなさしめ、毎日午前軍医をして検梅を実行せしめ、合格者に健康証を与へ置き、廉価に接客し得る様にした。或る日其の実況を視察したが、入口に木柵を設け、一々人員を点呼し、時間を制限して出入せしむるなど、恰も劇場入口に於けるが如き光景を呈して居つた。[中略]……平戦両時を問はず、今日の花柳界に於ては兵員に満足を与へるには費用の点に於て困難するが為に、自然廉価なる私娼に走ることは免るべからざる所である。故に私娼の検査を厳密にし、健康証を与へて、尤も簡易に時を浪費せしめずして目的を達せしむることは必要欠くべからざることゝと信ずる(30)。

 ここで言う「私娼」とは、日本国内で言うところの「公娼」(=娼妓)以外の「売春婦」をさす語として用いられているようである。鉄嶺では「売春婦」に対して検黴が実施されただけでなく、憲兵がその取り締まりにあたっていた。また「廉価に接客し得る様にした」という記述から見て、軍が「料金」の設定にも関与したものと考えられ、さらに兵士に対し「一々人員を点呼し、時間を制限して出入せしむる」など、鉄嶺の「売春宿」は、軍の強い統制を受けた、のちの「慰安所」に近い性格のものであったと言えるだろう。なおこの軍医が主張するような「廉価」ゆえに「私娼」を公認するという発想は、「慰安婦」制度成立の背景としては、さほど注目されていないが、これを兵士の戦意高揚のため、軍当局が手軽な「慰安」の手段を与えるという意味に捉えるならば、日本軍が「慰安婦」制度を必要とした理由とも合致すると言えよう(31)。

 「慰安婦」制度を想起させるシステムが存在していたのは、鉄嶺だけではない。安東では、軍政の責任者である軍政委員・大原武慶大尉の指示のもと、一九〇四年一二月、日本軍の建設した新市街に、「遊園地」という名の遊廓(32)が開業した。ところが同地の飲食店組合は一九〇五年二月ごろ、軍人専用の妓楼「酔雷亭」を新設し、低料金でこれを将兵に利用させたというのである(33)。日本軍が直接、運営に関与したわけではないので、純粋な意味での慰安所とは言えないが、この「酔雷亭」は軍に特別の便宜をはかった、慰安所と一般の「売春宿」の中間形態のような存在と見ることができる。

 さらに法庫門の「売春宿」も、次のような形で軍政署が統制を行っていた。

この法庫門軍政署は遂に臨時売笑婦制を許可することゝなり、商人は遠く人を馳せて比較的素性正しき満州産の酌婦を傭入れ遊興を開業することとなつた。軍政署では徹底的に干渉して各兵に花柳病を感染せしめざる様、適切の方法を厳行することになつたが、サテ、愈々之を公開する段取りとなつても限りある笑婦のことゆゑ、多数兵卒の需要に応ずることは困難であり、殊に一時に殺到すべく想像せらるゝ人員を整理する為、先づ土地の商店に改作を加へ、田楽長屋式に並列せる各室の中間に隔障を設け、出入口を各別にし、屋前には低き木柵を構へ、数ケ所に入口を設け、憲兵をして混雑を防ぎつゝ逐次交代せしむることにした。/先是、此事、前方後方の諸隊に内報して、日時を定め人員を制限し、遊興費は階級に応じて数等に分ち、若干の料金を払ふ切符制とした。愈々開店となると、集り来る銃を持たぬ兵隊が連日連夜押すなくの盛況で、臆面もなく店前に蝟集し、汽車の改札口を其まゝに珠数繋ぎとなりて、順番を待つ有様は、無邪気と言はんか、滑稽と云はんか、戦地でなくば見られぬ異様の場面を展開したのであった(34)。

  ここでも軍は、検黴だけでなく、施設を整え、憲兵に取り締まりをさせ、階級に応じて料金を設定するなどの措置をとっていた。法庫門の「売春宿」も、おそらくは軍人専用の施設と推測され、民間業者の経営とは言え、十五年戦争期の軍慰安所とほとんど変わらない性格のものと見ることができる。また先の鉄嶺の場合もそうであったが、「売春宿」に押しかける兵士の姿は、諸資料に見られる慰安所に通う兵士の様子と何ら変わるところがない。「慰安婦」制度の「必要性」を根底で支えた、近代日本における男性の「買春」に対する意識が、日露戦争の時点ですでに強固に存在していたことを印象づけるものである。

 以上のように日露戦争の段階で、日本軍慰安所制度のプロトタイプとも言うべき軍による「買売春」管理制度は、すでに公然たる存在であったと見ることができるだろう。そしてこの制度は、日本人女性だけでなく、異民族である中国人女性をも管理の対象としていたのである。


 

(1)拙稿「植民地時期韓國人の風俗営業について―中國東北地方を中心に―」釜山大学校韓国民族文化研究所『東アジアの中の韓・日 關係』(国際学術大会発表論文集)同研究所、一九九七年。

(2)大江志乃夫『日露戦争の軍事史的研究』岩波書店、一九七六年。

(3)倉橋正直「満州の酌婦は内地の娼妓」『愛知県立大学文学部論集(一般教育編)』第三八号、一九八九年二月。
 同『北のからゆきさん』共栄書房、一九八九年。
 同『からゆきさんの唄』共栄書房、一九九〇年。

(4)倉橋正直『従軍慰安婦問題の歴史的研究―売春婦型と性的奴隷型―』共栄書房、一九九四年。
 鄭鎮星「日本軍慰安所政策の樹立と展開」韓国挺身隊問題対策協議会真相調査研究委員会編『日本軍“慰安婦”問題の真相』ソウル、歴史批評社、一九九七年。

(5)例えば上海の日本総領事館では、一九世紀末までは「からゆきさん」と呼ばれる日本人「売春婦」の排除を、取締政策の主眼としていたが、一九〇五年の「芸妓営業取締規則」、一九〇六年の「料理屋営業取締規則」の制定を契機に、日本国内と類似の公娼制度を実施することになった(拙稿「上海の日本軍慰安所と朝鮮人」桂川光正ほか『国際都市上海』大阪産業大学産業研究所、一九九五年)。
 朝鮮については、山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」尹貞玉ほか『朝鮮人女性が見た「慰安婦問題」』三一書房、一九九二年、宋連玉「朝鮮植民地支配における公娼制」『日本史研究』第三七一号、一九九三年七月、などを参照のこと。

(6)以下の記述は、山崎丹照『外地統治機構の研究』高山書院、一九四三年、外務省条約局法規課『関東州租借地と南満州鉄道付属地 前編(「外地法制誌」第六部)』同課、一九六六年(復刻版、外務省編『外地法制誌』第一二巻、文生書院、一九九〇年。本稿の記述は復刻版による)、大山梓『日露戦争の軍政史録』芙蓉書房、一九七三年、などによる。

(7)ロシア租借地内の行政は、ハーグ陸戦条約(一八九九年)の付属書「陸戦の法規慣例に関する規則」にのっとり実施された。また租借地外は「おおむね租借地の例に準じて軍事上必要な諸般の施設をなし、民政については軍事に妨げのない限度において清国地方官憲に委ね」るとされたが(前掲『外地法制誌』第一二巻、三五頁)、実際には軍政機関としての権限を逸脱する行為をしばしば行い、清国地方官と衝突するケースも発生した。

(8)日露開戦にあたって、清国政府は交戦区域を遼河以東に限定し、遼西地方の中立を主張したが、ロシアはこれに反対し、遼西の新民府にも駐兵していた。日本軍は新民府占領後、軍政機関を設置したが、清国側の遼西中立の立場と相容れないため「軍政署」の名称を避け「新民府軍務署」と名乗った。

(9)遼東兵站監部の下には、安東県、復州、蓋平、海城、営口、遼陽、煙台の七兵站司令部を置き、従来の軍政委員を司令官に任じて、軍政にあたらせた。

(10)「占領地の醜業婦」『婦人新報』第九九号、一九〇五年七月、四頁。

(11)戸水寛人『東亜旅行談』有斐閣書房、一九〇三年、一三八〜一四〇、一七九〜一八一頁。

(12)関東庁『露治時代ニ於ケル関東州』同庁、一九三一年、一七五〜一七六頁。

(13)倉橋、前掲『従軍慰安婦問題の歴史的研究』一四二頁。

(14)以下の記述は「八年前の大連(一)密航婦(上)(下)」『満州日日新聞』一九一二年六月一五〜一六日、による。

(15)「八年前の大連(一)密航婦(下)」『満州日日新聞』一九一二年六月一六日。一九〇五年一月四日に公布された、陸軍省告示第一号「大連湾出入船舶及渡航商人規則」により、大連港に渡航できる商人は、当時、陸軍大臣の許可を受けた者に限られていた。

(16)外務省外交資料館所蔵『外務省記録』5・2・6・6「日露戦役ニ依ル占領地施政一件」所収。

(17)大江、前掲書、二八五頁。管轄行政機関別の内訳は、関東州民政本署(大連)九五〇名、旅順民政本署三八二名、金州民政本署七一名、となっている。

(18)前掲「日露戦役ニ依ル占領地施政一件」所収。ただし第一三条の途中で条文が途切れており、完全な形では残されていない。

(19)藤目ゆき『性の歴史学―公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ―』不二出版、一九九七年。

(20)曽我部市太「営口事情」『万朝報』一九〇五年五月三日。

(21)例えば、一九〇四年一二月二八日、瀬川浅之進・在牛荘領事より小村寿太郎外相あて機密第一七号別紙「牛荘港ニ於ケル我軍政施行ノ状体」(前掲『外務省記録』5・2・6・6―1「日露戦役ニ依ル占領地施政一件 牛荘ノ部」第一巻、所収)など。

(22)倉橋、前掲『従軍慰安婦問題の歴史的研究』一五六〜一五七頁。営口軍政署では「下婢」だけでなく、中国人「芸娼妓」に対しても課税と検黴を実施していた模様である(曽我部市太「営口事情」『万朝報』一九〇五年五月四日)。ただしこれら「売春婦」が日本軍兵士を顧客としていたのかについては、必ずしも明確ではない。

(23)一九〇六年八月六日、速水一孔・在遼陽副領事より林董外相あて公信第五号(前掲『外務省記録』5・2・6・6―3「日露戦役ニ依ル占領地施政一件 遼陽、奉天、新民屯、鉄嶺、公主嶺、長春ノ部」所収)。

(24)鉄嶺軍政署編「軍政紀要 全」『日本外交文書』第三七・三八巻別冊「日露戦争V」六八九頁。

(25)同前、六九九頁。

(26)倉橋、前掲『従軍慰安婦問題の歴史的研究』一四三〜一四五頁。

(27)前掲「軍政紀要 全」六九八頁。

(28)一九〇六年八月一日、橋口勇馬・鉄嶺軍政官より萩原守一・在奉天総領事あて第一号(前掲「日露戦役ニ依ル占領地施政一件 遼陽、奉天、新民屯、鉄嶺、公主嶺、長春ノ部」所収)

(29)同前。「目下当署[鉄嶺軍政署]ニ於テ本邦居住民ニ係ル事務トシテ取扱ノモノ……本邦並ニ清人ノ芸娼妓営業願ノ許否……等是ナリ」とある(傍点引用者)。

(30)藤田嗣章「戦役の回顧と戦後の経営」(陸軍軍医団『日露戦役戦陣余話』同団、一九三四年)二七五〜二七六頁。
 この回想録の出版年が、日本が十五年戦争に突入し、すでに慰安所を開設していた一九三四年であることにも注目しておきたい。

(31)この点については、吉見義明『従軍慰安婦』岩波書店、一九九五年、五二〜五五頁、などを参照のこと。

(32)一九〇五年一二月の「遊園地」の状況は次のように伝えられている。「遊園地ハ新市街ノ西北隅ニ在リ純然タル遊廓ナリ此区域内ニ於テハ貸席飲食店ノ外一切他ノ営業ヲ許サヾル規定ナリ一時戸数四十五六軒ニ達セシモ近来不景気ニテ(鴨緑江結氷中)三十四五軒トナレリ」(外務省『南満州ニ於ケル商業』金港堂書籍、一九〇六年、五五頁)。

(33)以上は、『満州日日新聞』一九一三年一月一日、九日、一一日、の記事による。

(34)中村緑野「兵站勤務の思ひ出」(前掲『日露戦役戦陣余話』所収)二九八頁。


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