植民地期・済州島の実力養成運動団体とその人員構成

補論 「済州島共済会」の設立時期と在阪済州島出身者の対応について


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 本稿82頁で私は「済州島共済会」――文献によっては「済州(島)共済組合」となっているが、現時点では正式名称を確定できないので、ここでは原則として「済州島共済会」で統一する――の設立年月を、1928年5月のことと書いた。それは本稿の注114)でも触れたように、『昭和十二年 済州島勢要覧』(済州島庁、1937年。以下『要覧』と略称)44頁に「昭和三年五月ニ官民有志相謀リ済州島共済会ヲ組織シ」という記述があり、また1930年発行の『済州島とその経済』(釜山商業会議所)15頁にも「島では今より二年以前、島司を会長に戴く済州島共済会を組織して」と記載されていたためである。

 これは、杉原達氏がこの組織の設立年を1927年としておられること1)に対し、異論を表明したものであった。しかし本稿が刷り上がる直前になって、さまざまな資料を再検討した結果、こうした見方は私の認識不足と調査不足により、杉原氏の意図を充分吟味しないまま執筆したことによって生じた、皮相的な理解であることが分かってきた。以下、杉原氏へのお詫びの意味も込め、「済州島共済会」の設立年月を再検討するとともに、この組織に対する大阪在住の済州島出身者の反応についても紹介しておきたい。

 なお今回、「済州島共済会」について改めて調査したのは、私の参加している「在日メーリングリスト」で、メンバーの金国雄氏が、日本「内地」の仏教紙『中外日報』――1920年代後半に朝鮮で発行されていた同名の朝鮮語新聞とは全く別のもの。以下『中外日報(日本)』『中外日報(朝鮮)』のように発行地を付して両者を区別する――に掲載された、「済州島共済組合」関連の記事を紹介して下さったことがきっかけとなっている。貴重な資料をご教示下さった金国雄氏にお礼申し上げる。

 

(1)「済州島共済会」の設立年月について

 私の過ちはまず、杉原氏が前掲書で、朴慶植氏の研究2)をもとに「一九二八年四月に、大阪の天王寺公会堂で済州島民大会が開催された際に、尼崎汽船部と朝鮮郵船の船賃値下げ要求が決議されるとともに、「御用的済州共済組合撲滅運動」もまた展開された」3)と述べておられることに、充分な注意を払わなかったところにある。ここで言う「済州共済組合」が「済州島共済会」と同一のものか、またはその前身となる組織であったことは疑いなく、したがって1928年4月の時点で「済州共済組合」がすでに存在していたのなら、「済州島共済会」の成立時期を同年5月としている前掲『要覧』の記述の信憑性も、再検討されなければならないことになる。なお朴慶植氏の論文では、済州島民大会についての叙述の根拠は明らかにされていないが、おそらく『社会運動通信』の「在阪済州島民は(中略)[1928年――引用者]四月二十五日天王寺公会堂で済州島民大会を開き……済州島御用共済組合の撲滅運動を起こす」4)という記事にもとづいたものであろう。

 このほかにも、岩村登志夫氏が「一九二七年五月には、在阪朝鮮人に高率を占める済州島出身者をめあてとして、「協調」団体、済州共済会大阪支部が設立された」5)と指摘していること(典拠は不明)も、私は見落としていた。おそらく杉原氏はこのような先行研究を総合的に検討された結果、この組織の設立年を1927年と判断されたのであろう。また金国雄氏に紹介していただいた『中外日報(日本)』1928年4月19日付記事も「済州島共済組合が同島司前田善次氏の斡旋によつて組織されたのは昨年のことであつた」と、「済州島共済組合」が1927年に設立されたことを伝えている6)。そして今回の私の再調査でも、「済州島共済会」の前身となる組織が、1927年につくられていることが確認できたのである。杉原氏があたかも誤謬をおかしているかのように記述したことは、私の不勉強による錯誤であった。この点、杉原氏に深くお詫びする次第である。

 さて杉原氏が「御用的済州共済組合撲滅運動」展開の契機として指摘された「済州島民大会」(1928年4月25日開催)の模様については、同年5月2日付の『中外日報(朝鮮)』と、5月3日付の『朝鮮日報』に記事が掲載されており、そこではこの組織の設立年月にも言及している。両者はほぼ同じ内容のものだが、ここでは叙述のより詳細な『朝鮮日報』の記事から引用する。

……昨年4月に当局はどのような計画からか、済州島前田善次島司が会長となり、13面面長が支部長となって、内地渡航者組合というものを組織し、会員1名に対して1年に1円の会費を徴収しており、その後、名称を共済組合と変更し、相互扶助、職業紹介などの看板を掲げ……。

 この記事によれば、1927年4月に「内地渡航者組合」として設立され組織が、のちに「(済州島)共済組合」と名称を変更したというのである。これは、1カ月のずれはあるものの、前出の岩村氏の指摘とほぼ一致しており、「済州島共済会」の前身となる組織=内地渡航者組合が1927年の4〜5月ごろに設立されたことは、まず確実と思われる。

 それでは「済州島共済会」の設立を1928年のこととする、先の『要覧』や『済州島とその経済』の記述はどのように解釈すべきなのだろうか。いまのところこの疑問にすっきりと答えることはできないが、『要覧』が設立年月とする1928年5月以前に出された文献が「共済組合」と記しているのに対し、それ以後の資料ではほとんど「共済会」と記載されている点に、さしあたり注目しておきたい。(『要覧』『済州島とその経済』のほか、後出の1933年2月の『社会運動通信』の記事や、1932年5月に開催された東亜通航組合第3回定期大会の議案草案も「共済会」と記している。)すなわち「共済組合」が1928年5月ごろに「共済会」と名称を変更し、『要覧』などは、これを設立年月として採用した可能性もあるのではなかろうか。

 ともあれ、こうした解釈はあくまでも推測の域を出るものではない。資料状況から見て、「済州島共済会」設立時期についての疑問を解くことは容易ではないと思われるが、今後も引き続き関心をもって、この問題を追跡していくことにしたい。

 

(2)在阪済州島出身者の反応について

 杉原氏も若干紹介しておられるが、以上のようにして設立された「済州島共済会」に対し、済州島民は強い反発を示したようである。前掲の済州島民大会についての記事のうち、今度は『中外日報(朝鮮)』の記事から引用する。

……堂々と官憲の力を借り、組合費を納付しなければ強制的に乗船できないようにして……民衆の自由意思と渡航の自由を阻害する一方、2万円[『朝鮮日報』の記事では2万6千余円――引用者]にもなる1年間の会費は、むなしくも会員に直接利益を与えるのには使われず、あきれたことに中間で消耗され、一般民衆はこれに対する反感を日に日につのらせ……。

 済州島ではこのほかの「官制組合」の横暴も甚だしく、さらに先日来阪した前田島司は、官公吏や大工場主を招待して、組合費を使った盛大な晩餐会を開催する一方、各工場主に済州島民を売買するかのような「哀願書」を配布したと伝えられた7)。(済州島民を低賃金労働力として各工場に受け入れるよう要請したことを批判したものであろう。)このような状況に憤激した大阪在住の済州島出身者たちが、1928年4月25日、天王寺公会堂で済州島民大会を開催し、約3000名が参加したというのである。

 前掲の『中外日報(朝鮮)』記事によれば、この大会は決議事項の第1項に「済州共済組合撤廃に関する件」を掲げ8)、その「実行方法」として、渡航に際し組合費強制徴収を積極的に拒絶すること、渡航阻止に積極的に反対すること、在日朝鮮人労働者および済州島民は共済組合撤廃運動を大衆的に断行すること、済州島司・全羅南道知事・朝鮮総督および内閣に対し抗議すること、労働組合・新幹会・青年同盟に加盟し組織的に反対運動を継続すること、などが決定された。また第2項は「済阪航路船費値下及び船客待遇に関する件」というもので、朝鮮郵船や尼崎汽船部など、大阪・済州島間の定期船運航に従事する汽船会社に対して乗船人同盟を組織し、船賃3割引き下げなどを要求することを決議した。そしてこれら決議事項の実行委員には、大阪における朝鮮人労働運動の指導者として頭角を現しつつあった金文準をはじめ、梁聖賛、金聲泰、成子先ら15名が選出されたのである。

 このように「済州島共済組合」への不信感から開催された済州島民大会は、同組合の撤廃運動とともに、汽船会社に対する運賃引き下げ運動を提起し、そしてこうした活動が、やがて東亜通航組合の自主運航運動へと発展していくことになるのである。

 「済州島共済会」に対する批判は、東亜通航組合の活動にも引き継がれていった。1930年4月21日、中之島公会堂で開催された東亜通航組合の創立大会では、決議事項の一つとして「共済会撲滅の件」が採択され、「右共済会の正体は只渡航労働者を搾取し束縛し渡航阻止を敢行する機関に過ぎない。[中略]……さく取した金は就職に紹介云々の美名の下に、我等の行動を監視し、我等の運動を妨害する所に使はれる」と、共済会を厳しく糾弾しているのである。そしてこの決議の実行方法として、関係当局に「大衆」が署名・捺印した抗議文を送ること、会費不納同盟を即時組織すること、共済会と「結合している総ての奴等」を徹底的に「膺懲」すること、共同宿泊所やその他の共済会財産をすべて「奪還」すること、が決定されたという9)

 先述のごとく、新聞記事を読む限りでは、1928年4月の済州島民大会は「済州島共済会」批判を主たる動機として開催されたように思われるのだが、この大会で阪済航路の運賃引き下げ運動への取り組みが決議されたことは、大阪在住の済州島出身者にとって大きな意味をもつことになった。先行研究が明らかにしているように、この決議を受けて実行された汽船会社との運賃引き下げ交渉の過程で、在阪済州島出身者たちは自主運航運動というユニークな発想の運動を思いつくことになったからである。その意味で「済州島共済会」に対する反発は、在阪の済州島出身者を団結させ、独創的な運動を展開していくうえでの、重要な契機をもたらしたと言えそうである。

 本稿の「おわりに」で私は「済州島と大阪の運動がどのような関係にあったかについても、いっそう検討を進めなければならない」(83頁)と書いたが、このような問題意識ともからめつつ、以上のような論点を深めていくことを、今後の課題としたい。

(1999年7月1日)


1)杉原達『越境する民――近代大阪の朝鮮人史研究――』新幹社、1998年、p.93。

2)朴慶植「東亜通航組合の自主運航」『在日朝鮮人――私の青春――』三一書房、1981年。

3)杉原、前掲書、p.95。

4)「在日本朝鮮労働総同盟大阪朝鮮労働組合第三回大会」『社会運動通信』第84号、1929年4月29日、p.26。

5)岩村登志夫『在日朝鮮人と日本労働者階級』校倉書房、1972年、p.158。

6)一方で、1928年4月29日付の『中外日報(日本)』は「大阪在住の済州島人の間に共済組合の組織されんとしつゝあることは既報の通りである」「在阪島民の間に共済組合の今日までに組織されて居なかつたことは寧ろ異例といはねばならぬ位である」と、いまだ「共済組合」が設立されていないかのように述べているが、その意図するところは不明である。

7)前掲『中外日報(日本)』1928年4月19日付記事によれば、前田善次島司は28年4月中旬ごろに来阪し、天王寺・鶴橋方面に簡易住宅を建設することを大阪府や大阪市と協議したという。本稿補注参照。

8)『朝鮮日報』の記事では、この決議事項第1項が検閲で削除されている。

9)C・K生「東亜通航組合の沿革・地位・任務〔三〕」『社会運動通信』第971号、1933年2月2日、p.7。なお1932年5月27、28日に開催された東亜通航組合第3回定期大会の議案草案でも「共済会」を「渡航者欺瞞機関」と批判している(朴慶植編『朝鮮問題資料叢書』第12巻、アジア問題研究所、1990年、p.329)。


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