植民地期・済州島の実力養成運動団体とその人員構成

本文・注(2)

II 青年運動の尖鋭化と民族改良主義のゆくえ

1. 済州青年会の「革新」と済州青年連合会の結成

2. 社会問題への取り組み

3. 青年運動への弾圧

4. 民族改良主義のゆくえ

おわりに


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II 青年運動の尖鋭化と民族改良主義のゆくえ

1. 済州青年会の「革新」と済州青年連合会の結成

 1925年に入ると、済州島の社会運動に対する社会主義の影響力は決定的な段階を迎えた。この年の3月11日、金澤銖、韓相鎬、洪淳日、宋鍾鉉、姜昌輔の5名により結成された思想団体・新人会は、済州島における最初の社会主義運動団体と言え、綱領として「われらは無産者を本位とする新社会の建設を期す」を掲げた70)。この文言は先述の朝鮮青年総同盟(1924年4月21日設立)の綱領第1項「大衆本位の新社会の建設を期図す」71)をもとに作成したものであろう。

 しかし新人会は宣言・綱領が不穏であるという理由で済州警察署の捜索を受け、メンバーのうち金澤銖、宋鍾鉉が4月18日に検挙されてしまった72)。両名は5月9日、宣言と綱領に「国家組織を否認すると同時に一種の共産主義のような危険思想が含まれている」と主張した検察の求刑通り、禁錮6カ月の判決を言い渡された73)

 新人会は当局の弾圧のためにその後の活動を封じられてしまったが、弾圧は彼らの結束を「いっそう鞏固にし、旗幟はいっそう鮮明になる」結果をもたらした74)。会員の5名は以後、済州島の社会主義運動をリードする存在となり、その意味で新人会の結成は済州島の民族解放運動における一つの転換点をなしたと言える。

 ところで表1に示したように、新人会のメンバーのうち、韓相鎬、宋鍾鉉は済州青年会の役員もつとめていた。済州青年会の内部にこのような社会主義運動を志向するグループが形成されたのと並行して、いまだ改良主義的傾向が残存する同会の活動路線に対しても批判が高まっていった。新人会弾圧の直後に『東亜日報』に掲載された「済州城内の仮紳士諸君へ」と題する投書は、済州青年会について直接言及したものではないが、済州島の特権層に対し青年たちが反発する雰囲気を伝えている。

 済州城は紳士のふりをしなくては暮らしていけないところなので、本当に仮称紳士が実に多い。前郡守、前判事、前吏房刑房、高利貸金業者、面長、官属退職者などが、いわゆる老紳士閥であり、いまは島庁・裁判所・面役所の書記、巡査、銀行・金融組合の従務員や、はななだしくは雇員までが、いわゆる一流青年紳士である。彼らの家門がいわゆる権門であり勢家である。
 そこで彼らは済州島司を国王のように崇奉し、誣言奸行をもってへつらい、ひたすら服従して、自分は犬になろうが豚になろうが、済州島司にさえ寵愛を受ければ第一の栄光だという。[中略]
 したがって若者はもちろん小学生までもが、学校を卒業した後には雇員、給使にでもなることが宿願である。[中略]……官庁で職に就かない者は、ただ無能か不良の青年と見なし、それだけでなく海外留学する者は嘲笑を加え、社会の不平を述べ、自らの非行を忠告する者には反目、嫉視し、官憲の力を借りてでも容赦なく迫害しようとする。
 諸君![中略]どうして良心を欺き、奴隷の仕事を自ら進んで行うのか。
 諸君! 反省! 悔悟すべきである。そうした後にこそ、人と同じように、自由で平等な生活をすることになるだろう。75)

 このように植民地権力と密接な関係をもつ特権層の姿勢に批判が高まる中で、1925年7月26日に開催された済州青年会の定期総会は、冒頭で「幹部の不誠意を糾弾」する「革新総会」となった。ここで言う「幹部の不誠意」が具体的に何を指しているのかは明らかでないが、先の引用などから推測すると、官憲と結びつき、済州青年会にも影響力をもっている地域有力者の改良主義的傾向が批判されたのではないかと考えられる。この総会で済州青年会は、会則改正、済州青年連合会の組織などとともに、先述の朝鮮青年総同盟への加盟を決議し、社会主義運動団体としての立場を明確にしていった76)。済州青年会がいつ朝鮮青年総同盟に加入したのかは不明だが、のちの1927年6月には、前出の韓相鎬が朝鮮青年総同盟の中央執行委員となっているので77)、「革新総会」後さほど時日を措くことなく加入したのではないかと推測される。またこのとき従来の幹事長制が委員長制に変更されたが78)、これも地域有力者の影響力を排除するための組織改編として、朝鮮各地の青年会で見られた動向と軌を一にしている。

 さて「革新総会」で済州青年連合会の結成を決議した済州青年会は、ただちに済州島内の青年会の組織統一に着手していった。こうして1925年9月23日午後3時より、済州城内の甲子義塾で済州青年連合会の創立大会が開催され、加波、摹瑟浦、温平、西帰浦、咸徳協成、新村、禾北、済州の8青年会がこれに加盟した79)。このうち大静面の摹瑟浦・加波の両青年会は安仁保・日果青年会とともに、同年11月7日、大静青年連盟を結成し80)、これは済州青年連合会の事実上の傘下団体となった。また新左面の新村青年会も、1926年6月24日、朝天・咸徳・北村・新興の各青年会と新左青年連盟を結成し81)、同年8月23日に開催された済州青年連合会第1回定期大会で、新左青年連盟として改めて加盟を認められた82)。なおこの大会より、第T章第3節で言及した済州女子青年会も済州青年連合会に加入している83)

 済州青年連合会は「われらは社会進化の必然的法則に順応し、大衆を本位とした新社会の建設を期す」などの綱領を定めたが84)、ここには明確に前出の朝鮮青年総同盟や新人会の綱領からの影響が認められ、社会主義運動は済州島全体の民族解放運動をリードしていく存在となっていった。

 一方で新人会の一員であった金澤銖は、1926年2月25日、光州で開かれた全南解放運動者同盟第2回定期総会に参加して済州島の地域状況を報告し、執行委員に選出されている85)。済州島の社会運動は、当時行政上の上部機関であった全羅南道の社会主義運動と関係を結ぶことになり、以後その影響のもとで運動は尖鋭化していくことになる。

 

2. 社会問題への取り組み

 済州青年会は組織を「革新」したとは言え、従来からの修養・啓蒙活動を全く停止したわけではなかった。例えば寄付された運動場の運営などを目的に、1925年11月16日、済州城内5少年団体とともに運動場処理会を発足させ、賛助金を集めて、運動場のオープンを記念する市民大運動会の開催を計画している86)。(この運動場処理会の委員は、「革新」直後の済州青年会の中枢に位置した人物と判断されるため、表1に表示しておいた。)その他、青年文庫を設置して書籍の寄贈を呼びかけたり87)、また総会や執行委員会では、庭球大会開催、会館建築期成、中学期成促進などの案件も、決議事項・討議事項として掲げられていた88)

 しかし一方で、済州青年会の社会問題にすすんで取り組もうとする姿勢は明確になっていた。済州記者団とともに、1926年5月2日、「民衆の世論を綜合してこれを紹介し批判するため」投書箱を設置したのはその一例である89)

 1926年6月25日、済州公立農業学校の学生たちは、同校校長事務取扱・柳田彦二の民族差別的言辞に抗議して同盟休校に入ったが、学校側は10名を退学処分に、その他同盟休校に参加した1、2学年学生全員を無期停学処分とする強硬措置をとった。これに対し済州青年会は、父母や一般市民に呼びかけて善後策講究会を開催し、柳田教諭の反省と謝罪、学校側の学生処分取消、学生の即時登校を求める決議を採択した90)。この集会で選出された交渉委員が仲裁にあたった91)結果、柳田は辞職し、学生7名が退学処分を受けることで事態は一応の決着を見た92)。済州青年会の努力が充分実ったとは言えないものの、この団体が済州島社会において重要な役割を果たしていることを印象づける出来事であった。

 ところで地域有力者主導の青年運動のあり方に対する批判は、済州青年連合会の傘下団体だけでなく、済州島各地の青年会に拡散していったようである。1926年11月1日に開催された楸子面・下島青年会の創立大会では、既存の楸子青年会を批判し、「阿片、賭博、酒色に酔い放行することを青年運動と誤解する楸子青年会幹部に警告文を発送し、青年運動の根本精神を理解できない楸子青年会の解体を勧告しよう」という動議を満場一致で可決するとともに、綱領として「一、われらは大衆を本位とする新社会の建設を期す/一、われらは大衆の合理的生活に必要な実際利益のために闘争する/一、われらは社会科学の真実な学徒となることを期す」を掲げた93)。先の済州青年連合会の綱領と同様、第1項には朝鮮青年総同盟や新人会の綱領からの影響が明らかであり、特権層批判と社会主義受容の機運が離島である楸子島にまで及んだことを知ることができる94)

 さらに下島青年会では漁夫団の協力を得て、下楸子4島に4カ所の無産者夜学会を設置し、漁民・無産者・児童など100余名がこの夜学で学んでいた95)。この時期にはその他の青年会でも、とくに労働夜学・無産夜学などの設置が目立ち96)、青年運動全体に階級的視点が定着していったことを印象づけている。

 1927年4月24日、済州島での社会主義運動の指導者である金澤銖と韓相鎬は、木浦で開催された全南青年連盟の第3回定期大会に出席し、金澤銖は大会議長をつとめ、また韓相鎬は中央執行委員に選出された97)。続いて同年7月、光州に赴いた宋鍾鉉は、朝鮮共産党全羅南道執行委員会の責任秘書である姜錫奉の勧誘を受けて、朝鮮共産党に入党98)、同時に高麗共産青年会にも入会し99)、7月25〜26日ごろに開催された朝鮮共産党全羅南道大会に出席した100)。済州島に帰った宋鍾鉉は、8月初旬から中旬にかけて、新人会メンバーの韓相鎬、金澤銖、姜昌輔を勧誘して朝鮮共産党に入党させ、済州島ヤチェーィカを組織し、自らその責任者となった。一方で宋鍾鉉は、8月に韓相鎬と尹錫沅 を、9月に金正魯を誘って高麗共産青年会に入会させ、やはりヤチェーィカを組織してその責任者に就任した(金正魯は同年11月に朝鮮共産党にも入党した)101)。済州島に、朝鮮共産党とその青年組織である高麗共産青年会のヤチェーィカが、それぞれ組織されたのである。

 こうして済州島の青年運動と社会主義運動の中核には、かつての新人会のメンバーを中心とする共産主義者が位置することになった。

 

3. 青年運動への弾圧

 青年運動の主導権を社会主義者が掌握するにともない、当局の弾圧も厳しさを増していった。

 済州青年会は、1927年7月29日、後援しようとした在日本東京留学生学友会夏期巡講団の学術講演会を、済州警察署より禁止された102)。また1928年2月17日に済州公立普通学校で、学校当局に対する抗争を呼びかけるビラが貼り付けられたのを契機として、同月21日に生徒たちが同盟休校に入ると、翌22日済州警察署は済州合同会館を捜索し、済州青年会幹部で共産党員の金正魯、尹錫沅 と、セッピョル少年会(セッピョル=明けの明星)の指導者・宋澤元が連行され、取り調べののち釈放された。その後もこの事件の関連で多数の青年たちが、連行されて筆跡を調査され――ビラ作成者を特定するためと思われる――また家宅捜査も行われた103)

 そして1928年8月、第4次朝鮮共産党事件で宋鍾鉉、韓相鎬、金澤銖、姜昌輔、尹錫沅 、金正魯が逮捕され、朝鮮共産党・高麗共産青年会の両ヤチェーィカは解体を余儀なくされた104)。済州島の青年運動はその最も前衛的な部分を失ったのである。

 また摹瑟浦青年会も同年8月26日の第4年定期大会の開催を警察に禁止されるなど105)、官憲から圧力を加えられていた。後述するように、このころ済州青年連合会傘下の青年会は、新たに組織された済州青年同盟の支部に改編される過程にあったが106)摹瑟浦では労働者親睦会の闘争107)が展開されており、摹瑟浦青年会はこれに関与したとして、10月27日から28日にかけ、指導者の共産党員・呉大進ほか12名が検挙されるという試練に遭遇していた108)

 ところでこのころ朝鮮の民族解放運動においては、左派民族主義者と社会主義者による民族協同戦線結成の機運が盛り上がっていた。これは1927年に新幹会と槿友会の結成という形で実を結ぶことになるのだが、青年運動の指導機関である朝鮮青年総同盟は、27年6月、新運動方針を発表し、民族協同戦線運動への積極参加を表明するとともに、郡・府などに地域的単一青年同盟を結成し、その基礎組織として班、支部を設置することを決定していた。

 こうした方針に沿って済州青年連合会では、1928年4月22日の定期総会で「新幹会支会促進の件」「槿友会支持の件」とともに「単一青年同盟実施の件」について討論を行っている109)。そして済州青年連合会は、済州島ヤチェーィカのメンバーが検挙される中、1928年8月31日に第4年定期大会を開き、済州青年同盟への組織体変更を決定した110)。済州青年連合会に加盟していた各青年会は、済州青年同盟の支部に改編されることになり、その中心的存在であった済州青年会は同年12月16日、済州青年同盟城内支部に改編されたのである111)

 

4. 民族改良主義のゆくえ

 以上のように済州島の青年運動の主流は、1920年代の半ばには「文化運動」の性格を脱し、社会主義者が主導権を掌握することになったのであるが、しかしながら一方で、社会主義運動の影響下にあった済州青年連合会や済州青年同盟に参加しなかった青年会が存在していたことにも注目しておきたい。

 このうち例えば旧左面の下道里青年会は、1925年11月、かつて民立大学期成会済州地方部や済州労働会などに参加していた面長・康共七ら地域有力者の協力を得て、発動機船1隻、庫船3隻を購入して魚物を釜山・木浦に搬出するほか、漁業奨励のため一般漁夫に資金を融通するなどの活動をしていた112)。また旧左面の青年会の地域的な連合体として、1927年6月19日に旧左青年連合会が設立されているが(下道里青年会が参加したかどうかは不明)、その綱領は「一、われらは合理的生活獲得を目標に青年運動の組織的統一を期す/一、われらは青年の使命を全うするために必要な教養と訓練を図る/一、われらは大衆のために不合理と健闘し実際利益を図る」となっており、社会主義者を中心とした青年団体とは、やや活動路線を異にしているような印象を受ける113)。旧左青年連合会が大静青年連盟や新左青年連盟のように、済州青年連合会に参加した形跡も、今のところは見当たらない。

 かつて「文化運動」に参加した済州島有力者の動向として、この時期最も重要なのは、済州島共済会の設立である。済州商船代表の金根蓍を中心として1928年5月に設立されたこの組織については、杉原達がすでに検討しており、済州島司を会長とし、済州城内に本部、各面に支部、大阪に出張所を置いて、「出稼の斡旋、職業紹介、出稼人の保護、救済並に福利増進」などの業務を行っていた。「内鮮融和」を目的に組織された大阪の内鮮協和会とも、密接な関係をもったと言われている。また朝鮮人の「内地」渡航が厳しく制限されていた時期に、済州島ではむしろこれが奨励されていた点は注目に値する114) 補注)

 金根蓍が済州島共済会の設立に乗り出したのは、済州島当局の「内地」渡航奨励策への後押しと、済州商船の乗客を安定的に確保しようとする経営上の戦略が、主たる動機であったと推測できよう。しかし次のような1927年の日本側新聞記事を見ると、必ずしもそれだけではなかったようにも思われる。

済州島の経済状態は昨今逼迫し一般労働者は働くのに仕事がないといふやうなこまり方で内地方面に出稼にゆく者が多くなつてきたが内地方面も不景気のため漫然と渡航しても就職に困るので済州島ではこれ等の渡航者を保護するため渡航組合を組織し組合長に島司を推薦し全島民がこぞつて渡航者の便宜をはかることになつた、組合員は年額一円の組合費を払へば同島より出稼地までの旅費一切を貸与されるほか就職先の周旋等もやつてくれるので渡航組合は島民から歓迎をうけてゐる。115)

 上の記事に見える「渡航組合」が、実際には済州島共済会として設立されたことはまず間違いないであろう。経済的困窮が済州島民の「内地」渡航を促進する状況のもとで、金根蓍はかつての済州労働会と同様に、一種の労働救済事業としての観点から、済州島共済会の設立を構想したのかも知れない。済州島共済会は、疑いなく渡航者に対する管理・監視体制の一翼を担う組織であったが、一方で、官憲との結びつきと大阪への渡航事業を通じて経営基盤を固めた金根蓍にとって、同会の設立は「文化運動」の延長線上にある、彼なりの選択であったようにも思われるのである116)

 また1928年5月4日に設立され、日本人の衛藤伊三郎、角健輔が共同で代表取締役をつとめた済州酒造株式会社は、資本金4万円と小規模な会社ではあるが、金根蓍、朴宗實、崔允淳がそろって取締役となり――とくに崔允淳は1929年9月25日より、上記2名の日本人とともに代表取締役をつとめた――彼らと関係の深かった萩原駒蔵、石井栄太郎、村井彬も取締役に就任するなど、済州島実業界における朝鮮人有力者と日本人との関係がいっそう緊密になったことを窺わせている117)

 

おわりに

 済州島における「文化運動」団体とその構成員の動向を主たる分析の対象とした本稿では、この運動に内在していたさまざまな方向性と、実際にそれが分化していく過程を意識的に追跡してみた。地域有力者が主導する「文化運動」の改良主義的性格は、その内部に批判勢力を胚胎させ、1920年代半ば以降は、この批判勢力を中心に形成された青年社会主義者の一団が、済州島の民族解放運動をリードする存在となる。

 しかし「文化運動」は、決して社会主義運動だけに収斂されたわけではなかった。本稿では、植民地権力と関係を結びつつ企業経営を推進した金根蓍などの実業家の動きや、改良主義的範疇にとどまった青年会の活動を紹介したが、これ以外にも、社会主義運動とは一線を画しながらも植民地権力に非妥協的な立場をとる民族主義者が、相当数存在したものと思われる。その実態は把握しづらいが、例えば本稿でもたびたび言及した文昌來という人物は、のちに大阪に渡り、済州・大阪間航路の自主運航に乗り出した東亜通航組合の初代組合長をつとめている。ただし植民地期を通じて、社会主義運動団体に比肩する民族主義系列の結社が済州島で組織されることはなかった。全般的に見て、済州島の民族解放運動においては、ほとんどイデオロギー対立は存在しなかったと言えるのである118)

 また済州島における植民地期最大の大衆闘争である1932年の潜(チャム)嫂(ス)(海女)闘争の場合、潜嫂たちが社会主義者と一定の関係をもっていたことは確かであろうが、その本質は何よりも潜嫂たち自身の生活に根差した闘いであったろうと私は考えている119)。こうして見ると、済州島の民族解放運動は社会主義者を中核勢力としつつも、その周囲には、それぞれの思惑で行動していた民族主義者や一般大衆の存在があり、地域社会の中で深刻な階級対立やイデオロギー対立が発生しなかったところに、その特徴があったと言えよう。

 1928年の第4次朝鮮共産党事件によって、済州島における共産党と高麗共産青年会のヤチェーィカは解体を余儀なくされたが、すでに社会主義思想は青年たちに根を下ろしており、青年運動と学生運動は以前にもまして活発な様相を呈していく。その後1931年に朝鮮共産党済州島ヤチェーィカは再建されたが、潜嫂闘争関係者への捜査がきっかけとなって、済州島の社会主義運動は1932年に大弾圧を受ける。このいわゆる「済州島ヤチェーィカ事件」直後から、検挙を免れた活動家により赤色農民組合運動が展開されるが、この動きも1934年の弾圧で終焉を迎えることになる。

 解放後の民衆運動勢力は、こうした運動に参加した人々に、植民地期には組織化されることのなかった民族主義者が加わり、一般大衆がこれを支持することによって形成されたものと言えるだろう。冒頭で指摘した済州島人民委員会の「穏健さ」「強力さ」は、先に示した植民地期・済州島の民族解放運動の特徴に由来するものと考えられるが、この点は本稿が扱うべき領域をはるかに越えるテーマであり、ここでは展望だけにとどめたい。

 杉原達の近著と済州島での研究成果に触発されて執筆した本稿であるが、植民地期の民族主義者の動向については、今後も調査を継続する必要を痛感している。また杉原の研究との関連で言えば、済州島と大阪の運動がどのような関係にあったかについても、いっそう検討を進めなければならない。史料的には大変厳しい課題であるが、別稿で試論のような形ででも見解を表明できればと考えている。

  

[付記]本稿で使用した『朝鮮総督府官報』の記事は、主として、金奉玉編訳『朝鮮総督府官報中済州録』済州道、1995年、の記載に依拠したものである。『済州抗日独立運動史』などとあわせ、日本では入手の難しい刊行物や未刊行資料を提供して下さった済州島の方々、とくに金昌厚氏のご厚意に感謝申し上げる。また資料収集にあたって便宜をはかって下さった水野直樹氏、『朝鮮総督府及所属官署職員録』各年版のうち入手困難な年次の複写を提供して下さった浅井良純氏、普天教についてご教示下さった青野正明氏にもお礼申し上げる。


70)『東亜日報』1925年3月19日。

71)『朝鮮日報』1924年4月26日。

72)同前、1925年4月19日。

73)同前、1925年5月14日。

74)『東亜日報』1926年10月28日。

75)同前、1925年5月15日。

76)同前、1925年7月31日。

77)同前、1927年6月20日。

78)同前、1926年10月28日。

79)同前、1925年10月1日。これに先立つ9月9日の済州青年連合会発起会では、朝天青年会も発起団体に名を連ねていたが(『東亜日報』1925年9月13日)、創立時には加入しなかったようである。また済州青年連合会の創立大会当日(9月23日)、午前9時より同じ会場(甲子義塾)で、済州少年連盟会創立大会が開催された。17の少年団体が参加し、15名の執行委員の中には、呉大進、金漢貞、姜昌輔など青年運動を主導していた社会主義者の名も見える(『東亜日報』1925年10月3日)。

80)同前、1925年11月16日。

81)同前、1926年7月1日。

82)同前、1926年8月28日。新左青年連盟は、朝天青年会が経営していた「新左文庫」を引き継ぐなどの活動をしている(『東亜日報』1926年8月20日)。

83)同前、1926年8月28日。

84)同前、1925年10月1日。

85)同前、1926年2月25日。

86)同前、1925年11月16日。翌26年5月9日にも運動会の開催を計画している(『東亜日報』1926年4月25日)。

87)同前、1926年4月25日。

88)同前、1926年7月18日、8月25日、1927年4月28日。このうち当時、各地の青年会の重要な事業とされた「青年会館」の建設については、1927年4月24日の定期総会で「会館建築完成に関する件」が討議されているので(『東亜日報』1927年4月28日)、このころまでに竣工されたものと思われる。後出の「合同会館」がそれであろう。

89)同前、1926年5月12日。

90)『東亜日報』1926年7月11日、7月18日。『朝鮮日報』同日。

91)『東亜日報』1926年7月25日。『朝鮮日報』同日。

92)金粲洽「抗日学生運動」前掲『済州抗日独立運動史』p.116。

93)『東亜日報』1926年11月10日。『朝鮮日報』同日。

94)楸子島では1926年5月に、楸子漁業組合の不正に憤った住民が組合事務所に押しかけ、木浦警察署から武装警官が警備船で派遣されるという事件が起こっており、住民の権力機関に対する批判意識がとくに高まっていた地域であった。この事件については、『東亜日報』1926年5月25日、『朝鮮日報』同年5月25日、26日、『時代日報』同年5月25日、を参照。

95)『東亜日報』1927年1月30日。

96)新聞紙上で確認できたものとして、(1)新左面咸徳里の協成青年会が1925年10月19日より労働夜学会を開始(『東亜日報』1925年10月19日)、(2)旧左面の上道里青年会が同年11月3日に児童を対象とした夜学を開設(『東亜日報』1925年11月14日)、(3)同じく旧左面の月汀里青年会では、4〜5年前から「少女会」が主催してきた少女夜学を引き継ぎ、1926年11月2日に新学期を開始(『東亜日報』1926年11月11日)、(4)旧右面新昌里・頭毛里の中央協進青年会は無産者夜学を経営(『東亜日報』1927年1月31日。同紙1927年4月21日付では「男女共同夜学」となっている)、(5)済州面健入里の山地青年会が夜学を設置し、無産児童教育に努力(『東亜日報』1927年4月9日)、などがある。

97)『東亜日報』1927年4月27日。

98)1930年12月22日、第4次朝鮮共産党事件関係者に対する京城地方法院の判決文(昭和五年刑公第793、794、795号。以下「判決文」と略す)441〜442丁。この文書は、韓国・政府記録保存所所蔵の行刑第145巻「仮出獄関係書類」中にあり、朝鮮語の抄訳が、前掲『済州抗日独立運動史』pp.493〜496、に収載されている。

99)同前、452〜453丁。

100)『現代史資料』第27巻(朝鮮3)、みすず書房、1970年、p.105。宋鍾鉉は全国大会に出席する代議員候補に選ばれたが、結局、出席できなかった。

101)前掲「判決文」441〜442、444、452〜453丁。また前掲『現代史資料』第27巻、p.104、も参照。このほか、旧左面の申才弘、旧右面の李益雨、大静面の呉大進なども、朝鮮共産党に入党した。

102)『東亜日報』1927年8月6日。

103)同前、1928年2月29日。取り調べの過程で、済州公立農業学校学生の夫泰煥が天皇に対する「不敬」文書を作成していたことが判明して検挙され、同校から退学処分を受けた(『東亜日報』同年3月10日。1928年3月16日、全南保第1300号「重要犯罪報告」〔全羅南道〕。前掲『済州抗日独立運動史』pp.543〜544)。

104)1930年12月22日、京城地方法院で言い渡された判決は以下の通りである(すべて懲役)。宋鍾鉉3年、金澤洙2年6カ月、韓相鎬、金正魯、尹錫沅 、姜昌輔2年(ただし姜昌輔は執行猶予5年。『東亜日報』1930年12月23日)。

105)『東亜日報』1928年9月9日。

106)摹瑟浦青年会の後身と思われる済州青年同盟摹瑟浦支部は、1928年8月21日に設立されたと伝えられるが(『東亜日報』1929年1月15日)、済州青年同盟の創立が同年8月31日であるので、この日付は誤りと思われる。

107)摹瑟浦の貝釦工場職工が、1928年9月16日、労働者親睦会を結成し、賃金引き上げ、8時間労働制実施、待遇改善、無条件解雇反対などを経営者に要求していた(『中外日報』1928年11月2日、11月5日。『東亜日報』1928年11月5日)。

108)『朝鮮日報』1928年12月25日。1928年12月3日、起訴された13名にそれぞれ罰金30円が言い渡された。

109)『東亜日報』1928年4月30日。

110)『東亜日報』1928年9月3日。

111)『東亜日報』1928年12月23日。その他、済州青年連合会に参加していた新左青年連盟は1928年9月6日、組織の解体を宣言し、翌7日に済州青年同盟朝天支部の創立総会が開催された(『東亜日報』1928年9月11日)。同支部は、新左青年連盟に加わっていた朝天青年会が改編されたものであろう。同年8月21(ママ)日に設立されたと報道されている新村支部と咸徳支部(『東亜日報』1929年1月15日)も、新左青年連盟に所属していた新村青年会・咸徳青年会の後身と思われる。このほかに確認される済州青年同盟支部としては、禾口(ママ)支部(済州面・禾北青年会の後身? 1928年10月1日設立)、加波支部(設立日不明。前身と思われる加波青年会は大静青年連盟に加盟)がある(『東亜日報』1929年1月15日)。

112)同前、1926年2月3日。

113)同前、1927年6月24日。

114)杉原、前掲書、p.93〜95。杉原はこの団体の名称を「済州共済会」と記しているが、その典拠である、『済州島とその経済』釜山商業会議所、1930年、p.15、『昭和十二年 済州島勢要覧』済州島庁、1937年、p.44、などには「済州共済会」と記載されている。また設立年も、杉原は1927年としているが、前掲『昭和十二年 済州島勢要覧』では、1928年5月となっている。本稿はこれら原典の記載にしたがった。

115)『大阪朝日新聞附録朝鮮朝日』1927年6月1日。

116)「渡航組合」設立計画は、済州青年会を中心に開催された「在城団体及海外留学生団体代表懇談会」の討議事項の一つにもなっており(『東亜日報』1927年8月7日)、済州島の社会運動団体もその動向に注目していたようである。

117)『官報』1928年8月24日、1929年12月7日。

118)社会主義運動の内部で、本稿で紹介したような動きと路線を異にする運動が存在しなかったわけではない。例えば1927年に結成された秘密結社「文庫」と、その表面組織である宇利契(1929年結成)に代表される無政府主義者の活動や、1930年代初頭に見られる済州島と大阪の活動家間の円滑とは言えない関係は、別途、検討を要する課題である。無政府主義者の活動については、廉仁鎬、前掲論文(1993)、参照。

119)前掲、拙稿「一九三二年済州島海女のたたかい」pp.119〜120。

 

補注) 済州島共済会の設立は、いまのところ新聞紙上などでは確認できないが、1928年6月27日付の『大阪毎日新聞西部毎日朝鮮版』には、次のような記事がある。「……大阪在住の各道出身者はおのおの救済組合を作り、大阪港、駅などに案内人を設け土地案内は勿論就職まで親切に世話し、中でも済州島組合は強欲な内地人家主に対抗するため大阪鶴橋に住宅二棟を立てることになつてをるといふ」。

 事業内容から見て、この記事にある「済州島組合」とは「済州島共済会」のことではないかと思われ、済州島共済会が遅くとも1928年6月までに設立されていたことは確実と見られる。


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