壬午軍乱と甲申政変


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(1)開化派の形成

 開化派:1880年前後形成、新進エリート官僚。近代化・内政改革主張、北学派の思想的影響(朴珪寿)

 1880年代初めより政権の一角、政策立案に参加――官制改革、別技軍、修信使、領選使など

 

(2)壬午軍乱(1882.7-8)

 旧式軍隊の軍人が、別技軍(教官・堀本礼造)との差別待遇、俸給米不給に憤激して蜂起(7.23)

 ソウルの下層民(往十里・梨泰院居住)合流(←開国後の米価高騰)

 日本公使館包囲、堀本殺害、花房義質公使逃亡(→日本軍艦派遣。居留民保護名目)

  閔氏政権打倒、大院君再執政(7.24)

 清の出兵→馬建忠、大院君を天津に連行(8.26)→閔氏政権復活

※意義

 開国後はじめての本格的な反政府・反日闘争=衛生斥邪思想の行動的表現。しかし失敗により斥邪派は壊滅的打撃、清の干渉強化

 壬午軍乱後の諸条約で日・清への従属深刻化

 

(3)開化派の分裂

 壬午軍乱で分裂 

 改良派(穏健派)=金允植・魚允中・金弘集ら年長者。清の洋務運動を模範に閔氏派と妥協しつつ近代化政策を漸進的に進める。「東道西器」的

 急進派(変法派)=金玉均・朴泳孝・徐載弼ら年少者。清の影響力排除、日本の明治維新をモデル。清と癒着した閔氏派打倒、急速な近代化めざす

 急進開化派は次第に要職から除外→クーデター以外に生きる道なし

 

(4)甲申政変(1884.12)←清仏戦争(1884.6)で清の威信低下

 クーデター(12.4)→閔氏政権打倒、日本は支援を約束(竹添進一郎公使)

 新政綱発表(12.6):社会変革と富国強兵。制限君主制、事大外交の廃止、人材登用、国家財政の改革・一元化
           ↓
 清軍の攻撃、日本兵は撤退。主導者43名中、洪英植ら34名惨殺・処刑、金玉均らは日本に亡命
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 わずか3日で失敗、閔氏政権復活――漢城条約・天津条約など締結

※限界性と意義

(1)日本との接触(福沢諭吉ら)を通じて観念的に近代化論受容
 明治維新の経験を無批判的に朝鮮に適用、情勢判断の甘さ(独自の軍事力弱体、日本の過大評価)

(2)国内大衆との結合およびその志向の薄さ
 民衆の変革意識の成長を信じ、それに依拠した闘争を展開できず。闘争力不足を日本の利用で解消しようと企図

――世界資本主義からの過重な圧力が変革主体の形成に「歪み」→大衆基盤のない早熟なクーデター

 しかし歪んだ形ではあれ近代的改革のはじめての試み(ここで提示された理念はその後の社会変革への動きの1つの源流となる→甲午改革、独立協会、愛国啓蒙運動)