モスクワ3国外相会議(テキスト:2−3 米国軍の占領、2−4 信託統治問題)


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(1)信託統治構想のその後

a)SWNCC 176/8「対朝鮮初期基本指令」(1945.10.13)

 占領後初めての占領政策文書:米政府→マッカーサー→ホッジ

  1. 軍政→民政(米ソ)→信託統治(米英中ソ)→独立という過程を前提
  2. 朝鮮の臨時政府を自称する団体を公認してはならない
     →人共も臨政も否定。しかし団体としてでなく個人としてなら利用してもよい
  3. 対日協力者(総督府官吏、検察・警察・軍人)は排除追放
     →しかし、すでに韓民党員として軍政の顧問、警察・官僚機構に登用
           │
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b)ビンセント米国務省極東局長の講演「極東の戦後期」(1945.10.20)

 朝鮮の即時自主独立は困難として、4カ国による信託統治構想を初めて公式表明

 南北分断占領後、北朝鮮に親ソ勢力の拡大憂慮→全朝鮮に信託統治、アメリカ的民主主義の理念に立つ勢力の助長望む。革命運動に対抗
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 ビンセントの構想に国内勢力、強力に反発。一致して信託統治反対決議

*米軍政は軍政当局の意思でない、ビンセントの個人的見解と釈明(しかし信託統治は規定の方針)

c)米軍政(現地)の信託統治反対

 朝鮮国内の反対運動伝達→「朝鮮民族に対する侮辱」

 南朝鮮のみの反共政権樹立を求める声も(マックロイ)

 ラングドン政治顧問代理報告(1945.10.20→バーンズ国務長官)=信託統治の放棄主張(政務委員会構想)

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 国務省反対、従来通り全朝鮮の信託統治主張

 

(2)モスクワ3国外相会議(1945.12.16〜27。米・英・ソ)

 未決の戦後処理問題討議→第4議題:朝鮮独立問題

 12.17 米提案(バーンズ国務長官)
米ソ軍司令部による統一管理→4カ国の信託統治(5〜10年間)、独立朝鮮政府を樹立するためのあらゆる制度を創設

 12.20 ソ連提案(モロトフ外相)→米英賛成
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 コミュニケ発表(12.27)=モスクワ協定(cf:pp.60-61)

 米ソ共同委員会構成→朝鮮の民主主義的諸政党や社会諸団体と協議して政府樹立を提案
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 (民主主義)臨時朝鮮政府創設→共同委と信託統治に関し協議
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  信託統治(5年)米英中ソ
  ↓
  独立

*米ソ案の違い
 米:信託統治を前提(5〜10年)=アメリカ式民主主義の訓練期間(←朝鮮人の自治能力を否定)
 ソ:まず臨時朝鮮政府の樹立優先(信託統治の影は全く薄く、それも朝鮮人の意向が反映されたうえで最高5年)
  ↑
 ソ連の思惑:4カ国信託統治では発言権4分の1、共同委では対等。政府樹立でも北の人民委員会体制が無視されない
 米の思惑:信託統治に対する朝鮮人の反発承知。さしあたりソ連を統一管理・統一政府樹立の話し合いのテーブルにつけただけで満足(←北の共産化警戒)

 

(3)協定後の展開

a)信託統治に対する解釈の相異(1946.1初から表面化)

┌米:信託統治を経て親米的な国家として独立
└ソ:すみやかな独立をめざすが、ソ連に友好的に。朝鮮民衆の反発に当惑
    ―信託統治(trusteeship)から後見制(guardianship)に表現修正

b)朝鮮国内勢力の反応

┌賛託=朝共、左派勢力(朝共は当初反対、46.1賛託へ)
└反託=保守派・右派、親日勢力

┌北朝鮮:朝共北朝鮮分局などモスクワ協定支持表明(1946.1.2)。霪晩植ら反託派排除
└南朝鮮:モスクワ協定は歪曲され報道(モスクワでソ連案が決定=ソ連が信託統治を提案したかの報道→反発はソ連へ)

*朝共の賛託→大衆の信頼動揺

*反託運動の主導権は右派が掌握→当初は金九ら「臨政」グループ中心
 本来、米軍政とも対立するはずだが、米は弾圧せず放置、むしろ扇動→反ソ・反共運動に利用

 

(4)信託統治の歴史的評価

 大国中心の決定:即時独立の希望を否定→民衆の心情的反発は理解すべきだが結果的に保守・親日派が利用(金九にとっては新たな「独立運動」)

 米ソ共同提案なのにアメリカの関与は隠蔽

 反託運動が反ソ・反共運動に誘導→分断固定化

*その後の歴史の展開を見れば、次善の策として受け入れるのが現実的だったとの意見も近年台頭