新幹会運動の時代


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(1)背景

a)国外の民族唯一党運動

 臨政が民族解放運動を統括する力を失う(←国民代表大会。1923)
    ↓
 唯一党運動=国共合作(1924〜27)をモデル、左右の合作

*韓国独立唯一党北京促進会(1926)

*満州では全民族唯一党組織促進会(1928)→革新議会(1928)と全民族唯一党組織協議会(1928)→国民府(1929)

b)民族改良主義・自治論への対抗→民族主義左派・社会主義両陣営の接近

 民族主義左派:安在鴻(非妥協的民族主義の団結提唱)・申錫雨ら朝鮮日報に集結
 社会主義:朝鮮共産党、「国民党」結成の主張
    ↓
 1925ごろより協同戦線運動の機運

 正友会宣言(1926.11.15)←第2次共産党事件後
 マルクス主義の枠組みから非妥協的民族主義との提携主張、分派闘争の清算。急速に支持広まる

 

(2)新幹会の結成(1927.2.15)

a)民族解放運動の総結集体:年配の民族主義者を前面に立て、青年社会主義者が活動

 会長:李商在(1カ月で他界。後任・許憲)、副会長:権東鎮(天道教右派)
 産婆役は洪命熹=3・1世代、非共産党員、五山学校教員

*3・1運動との関わり強い(創立時幹部中7名は民族代表)

 当局の弾圧で全体大会はついに開催できず=中央では明確な運動方針を打ち出せず

b)地方での活発な活動

 幹部、地方巡回。1929年ごろ約140支会(郡単位。全国200郡中)、会員3〜4万名
 合法的に民衆のごく身近なところで各運動の組織的結集軸(労働争議・小作争議・学生運動支援)
 地域的・民族的課題を具体的に立案、活動

*咸鏡南道・端川支会(27.9.11)の例
 農民連合会(各地の農民団体結集。26.12.15)、青年同盟(26.11.20)、天道教青年党などに所属する人々によって構成
 端川産業品評会(27.11)に出品した農産物を面長らが勝手に処分→農民連合会とともに抗議
 郡農会による桑苗強制配布計画→面民の反対運動支援
――飢饉救済会(←不作・旱害):農会と交渉して養蚕資金貯金を返還させる、桑苗代金徴収を延期させる、など決議
 農民夜学設置
 森林組合(1930.5設立)反対闘争:組合費負担、自己の所有林の伐採・薪取りにも許可必要(農民同盟・青年同盟主導。新幹会の役割は不明)
 指導者の出頭命令に抗議→解散要求、2000名動員、郡庁・警察署襲撃

活動のピークは1929年末から30年

*協同戦線=合法運動。特定のイデオロギーに立たない。東亜・湖南グループ(改良主義)を除く多種多様な民族主義者+社会主義各セクト→非妥協的

 

(3)元山ゼネスト(1929)

a)発端(第1次スト)

 背景:20年代後半より労働争議の急増。元山=工業・港湾都市

 英資本ライジング・サン石油会社文坪製油所で日本人現場監督が朝鮮人に暴行
    ↓
 労働者120余名、ストライキ(1928.9初)
 監督罷免、最低賃金制確立、スト参加者を解雇せず、など要求
 元山労働組合連合会支援(1925結成←1921組織の元山労働会を改編)
    ↓
 会社側いったん要求受諾(9.28)。しかし3カ月過ぎても履行せず、団交も拒否

b)経過

 元山労連、文坪分会にスト再開指令。元山全労働者にスト支援指示(29.1.13)
 港湾労働者はライジング・サンの貨物取扱い拒否
    ↓
 元山商業会議所(地域総資本):スト労働者の解雇、団交拒否。安東の中国人労働者、仁川の失業者を募集=スト破り
    ↓
 元山労連、全労働者にゼネスト指示(1.22)
 傘下24労組、3000名スト参加←自由労働者も合流
    ↓
 全資本・全労働が全面対決。元山の産業・運輸・交通機能全面マヒ
 国内・日本より支援=同情スト、募金。新幹会各支会、スト破りに応じないキャンペーン

*しかし総同盟は共産党弾圧で有効な支援策を講ずることができず

 警察の強硬弾圧(指導部50余名検挙)
 御用組合結成→スト労働者が襲撃、これを口実に弾圧いっそう強化
    ↓
 スト長期化で一般労働者動揺

 労連幹部、団交放棄、各自の自由意志で就業指令(4.6)=労働者側の全面敗北

c)意義

 敗北したとは言え圧倒的不利な条件下で3カ月ゼネスト→労働運動の大衆化、労働者の覚醒を示す事例

 労働運動の転換点=各地で戦闘的なスト・示威が続く→30年代弾圧強化、左傾化

 

(4)光州学生運動(1929)←20年代末、学生運動の高揚

a)発端

 光州中学生(日)と光州高普生(朝)のトラブル(1929.10.30)
    ↓
 光州駅前で両校生徒の激突・乱闘(11.3)
 日本人新聞・光州日報社包囲←日本人学生の肩もつ論説
 農校・師範学校・女子高普も合流、デモ(一般農民も加わる)
    ↓
 11.4より6日間の休校を命じ、朝鮮人学生のみ検挙

*各高普の地下サークルを中心に闘争本部組織

b)展開過程

 第1段階:11.12(場市日)=光州・木浦で街頭示威
 検挙者奪還、集会・結社の自由要求。「奴隷教育の撤廃」「朝鮮人本位の教育」訴えるビラ→具体的要求を民族解放に結びつける(治安維持法撤廃、日帝打倒)

 第2段階:12月初め=ソウルはじめ各都市高普に波及(デモ、同盟休校)
 新幹会、現地調査、抗議文提出。大衆集会計画→事前検挙で打撃

 第3段階:1930.1〜3=全国的運動へ。普通学校・専門学校も参加
 149校、5万4000名。退学582名、無期停学2330名

*植民地下、最大の学生運動

 

(5)新幹会の解消

a)組織の弱体化

 光州学生運動支援活動に対する弾圧で幹部検挙→打撃:改良主義者が主導権

 社会主義者の方向転換→解体論の台頭(1930〜31)
 コミンテルン「12月テーゼ」(1928):協同戦線に否定的
    ↓
 全体会議(1931.5):警察の弾圧で中断、自然解消

b)意義

  1. 民衆が日常生活の場から離れることなく、具体的な政治闘争を体験する媒介の役割
  2. 社会主義が神秘的なものから民衆の中へ一般化する契機
  3. 先覚的な知識人による民衆のための運動から、民衆自身の運動への移行を促す

*解放後、建国準備委員会へ