国権回復運動
(1)義兵闘争
a)初期義兵闘争(乙未義兵。1895.11〜96.10)
閔妃殺害事件(95.10)、断髪令(95.11)→儒者の反発、決起
地方の著名な儒生を指導者、東学農民軍残余勢力も合流
露館播遷(96.2)後、断髪令取消、説得懐柔(義兵将の罪を不問にする詔勅、宣諭使派遣)→10月ごろ活動終息
*義兵部隊の構成:反侵略の目的では一致
┌義兵将(儒生) 反開化的、国王の詔勅受け入れ
└義兵大衆(農民)→活貧党※など武装農民の活動続く
※『洪吉童伝』(16世紀末)に登場。ユートピア建設めざすゲリラ活動(1900〜1906)
b)義兵の再起(1905.4〜)
日露戦争下、日本の軍事占領に抵抗。保護条約(1905.11)後に本格化
閔宗植(忠南、前参判〔=官房長官〕)、崔益鉉(全北、74歳、前賛政〔=国務大臣〕)ら元政府高官など
*義兵運動の指導理念(反日の論理の変化)
衛正斥邪:儒教的価値観の固守→国家の独立を守る(西洋科学技術の導入は認める)
(1)日帝の侵略性そのものが起兵の動機
(2)日帝の背信(日韓議定書第3条)を責め、連帯(東洋同盟論)の破綻を憂慮
→欧米の侵略でともに滅亡を警告
*先駆的だが短期で終わる→敗戦で一時退潮
儒教的殉義精神=結果としての勝敗はどうであれ義を貫くことを重視(「捨身就義」)
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c)闘争の高揚
韓国軍の解散(1907.8)→軍人が義兵部隊に合流、全国に拡大
性格の変化
(1)弾圧の前面に日本軍(←政府軍)=反日独立戦争の性格
(2)軍人・平民出身の義兵将登場
(3)戦闘力の強化
(4)より広範な階層の参加・支持(←民族矛盾の尖鋭化)
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主要部隊のソウル進攻計画(1907.12)→失敗
1908年に最高潮(のべ7万人参加、1451回戦闘)
1907〜09の死者約1万6千余名(日清戦争時の日本軍死亡者に匹敵)=国家防衛戦争の様相
*安重根(李範允部隊の義兵将)の伊藤殺害=安重根にとっては義兵闘争の一環
d)日本軍の反撃
「南韓暴徒大討伐作戦」(1909.9〜10):全羅道でローラー作戦「攪拌的方法」
その後も各地で焦土作戦展開→1914年までにほぼ鎮圧
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残存勢力は満州・沿海州に移動:洪範図、李範允ら
独立軍根拠地の建設、啓蒙・教育活動従事(1910年代〜)
e)意義
反日武装闘争の大衆化=東学農民ら吸収→近代民族主義運動への脱皮(1910年代の独立軍運動)
儒教的名分論にもとづく反日から民族国家樹立のための反日へ
(2)愛国啓蒙運動
a)目標
国権回復のため言論・出版・教育・学会(啓蒙団体)活動等を通じた実力養成(=自強)
b)学会活動
大韓自強会(1906.4):張志淵ら、25支会、月報発行
趣旨:自強=教育・産業の発達←愛国精神の高揚・西洋文明の受容(義兵には批判的)
高宗退位(1907.7)に反対運動→解散強制(8.19)
*事前に保安法制定(1907.7)=反日結社の禁止
地方の学会=大衆教育運動。西北学会(1908.1。平壌)
c)言論活動
『皇城新聞』(1898.9.5創刊):南宮檍ら、独立協会の精神継承
張志淵(社長兼発行人)「是日也放声大哭」(1905.11.20)→反日世論喚起、逮捕、一時停刊
朴殷植:国民精神の培養強調、「魂強之国」←→魄(『韓国痛史』)
『大韓毎日申報』(1905.8創刊):英人ベッセル社長、梁起鐸総務
申采浩:民族史学の確立(「国粋」=伝統文化→愛国心を鼓吹)
d)第3次日韓協約(1907.7)後の方向性の分化
大韓協会(1907.11)←大韓自強会。数万名、70余支会
合法活動下での文明政治(立憲制)志向←保安法
文明の受容にウェイト、抗日活動に消極的
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保護政治=先進文明国の「指導」に肯定的評価、抗日路線を貫徹できず
e)新民会(1907.2)の結成
秘密結社、平壌、800名
綱領:民族意識鼓吹、教育・商工業振興
┌安昌浩ら:啓蒙・実力養成
└李東輝ら:武装抵抗運動
1909ごろから独立軍基地建設運動へ(『大韓毎日申報』も論調転換)→満州へ亡命、世界大戦時に独立戦争の構想
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105人事件(1911.9)で国内残留勢力弾圧(600余名検挙)