甲午改革・独立協会と大韓帝国
(1)甲午改革
a)閔氏政権の打倒と日清開戦
日本軍が王宮包囲、閔氏政権を倒すクーデター(1894.7.23)=大院君擁立
↓ ←牙山湾豊島沖で清国軍艦攻撃(7.25)
開化派中心の政権成立(7.27):日本の後援
b)背景
農民軍全州占領(1894.5.31) → 閔氏政権、袁世凱に清の出兵要請
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清、日本に出兵通告(6.7) 日本、居留民保護の名目で出兵決定(6.2)
全州和約(6.10)→↓
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北洋艦隊、牙山湾に到着(6.12) 日本軍、ソウル・仁川占領(6.13)
↓ ↓
閔氏政権は日清両軍に撤兵要求
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清は応じようとするが、日本は居座り朝鮮の「内政改革」要求
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開戦(7.25)
c)改革の内容
時期区分:第1期(1894.7.27〜12.16)、第2期(94.12.17〜95.8.23)、第3期(95.8.24〜96.2.11)
近代化政策推進=甲申政変の新政綱発展、農民軍の要求受容
cf:洪範14条(1895.1.7)
清との宗属関係廃止(1)、政治機構の改編(2〜4。国政と王室事務分離)、財政改革(6〜7、9。財政機関一元化、国家予算編成、銀本位制)、身分制度の廃止(奴婢解放)、教育改革(11。学校設立、留学生派遣)
一方で日本軍とともに農民軍弾圧
d)改革の挫折
三国干渉(1895.4.23)、閔妃殺害事件(95.10.8)→日本の勢力後退
開化派政権は日本の圧力に屈服→人民から孤立、反閔氏派なども離反
断髪令(95.11)→儒者の猛反発→初期義兵闘争(衛生斥邪+農民軍生存者)
露館播遷(96.2.11)=貞洞派により高宗がロシア公使館に護送
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開化派政権崩壊、貞洞派内閣成立。閣僚は殺害・流配・亡命
e)意義と問題点
少数政治エリートによる上からの近代的改革
――農民軍弾圧、大衆の支持を得られず日本に依存
近代的諸制度の本格導入(←甲申政変・農民軍の改革案)
――一部廃棄されたが、もはや逆行できない歴史の要求に応えるものとして受容、継承
(2)独立協会の活動
a)創立(1896.7)
独立協会創立に先立ち、徐載弼(1896初め、米国より帰国)、『独立新聞』創刊(1896.4)
――純国文、週2回(のち日刊)。独立協会の立場を代弁、開化思想を大衆に宣伝・啓蒙
時期区分:第1期(1896.7〜97.8)、第2期(1897.8〜98.1)、第3期(1898.2〜98.9)、第4期(1898.10〜12)
当初は独立門の建設を目的に募金活動。貞洞派+開化派(一種の社交団体)
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「独立」機運の盛り上がり→国王還宮(1897.2)、皇帝即位式・「大韓帝国」成立(1897.10)
b)公開討論会の開催(97.8〜、毎日曜日)
テーマ:女子教育、商務発達、道路改修など
民衆意識の成長(民間人多数参加、民主主義のルール学ぶ[自由に意見を述べあい多数決で決定])
政府批判噴出(対露屈服外交糾弾、国政改革主張)→主導権は開化派系へ
c)大衆運動の高揚
救国宣言上疏(98.2.21)=本格的な民族運動への転換点(資料)
――対外的には自主、対内的には自修の危機
万民共同会(98.3.10。鍾路に1万名)→ロシア軍事・財政顧問解任(3.12)
議会設立上疏(98.7.3):立憲君主制主張
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官民共同会(98.10.29)→中枢院改造決定(11.2。独立協会で11.5までに議官選出)
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国王の変心、協会解散命令(11.4)→解体(12.26)
d)意義と問題点
意義:開化思想が一部政治エリートから大衆へ浸透(国政改革主張=反露運動、議会開設要求)
問題点:反侵略意識の不徹底(反露運動に限定、文明化のため利権譲渡は一部容認)。運動がソウルに限定、農村を巻き込んだ全国規模の闘争に発展できず(農民層の要求を受容できず)
(3)大韓帝国の統治体制
a)内政:保守政権による君主体制強化策
大韓国国制(1899.8.17。憲法の性格)
李容翊、内蔵院卿に就任(99.8.27。側近政治)
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「君主独裁体制の確立=独立維持」の発想の下に諸制度導入
――量田・地契発給事業、金本位制、鉄道敷設、人参専売、鉱山経営、国有地拡大、軍備拡張
b)外交:列強に現実的対応
利権譲渡には強硬に反対、勢力均衡をはかりながら借款要請、中立化構想
c)問題点:基本的には王朝延命策=政治制度の民主化に逆行
農民収奪強化・独立協会弾圧→大衆から遊離
側近政治→支配層内部でも孤立
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権力基盤が脆弱、列強の勢力均衡がくずれると挫折