資料:3・1独立運動


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(1)独立宣言書(抄訳)

 われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、朝鮮人が自主の民であることを宣言する。これを世界万国に告げて人類平等の大義を明らかにし、子孫万代に告げて民族自存の正当な権利を永久に享有させようと思う。[中略]/今日われわれの任務はただ自己の建設があるのみで、決して他を破壊することではない。[中略]旧思想・旧勢力にとらわれた日本為政者の功名の犠牲となった不自然かつ不合理な錯誤状態を改善、匡正し、自然で合理的な正統の原点にかえそうと思う。初めから民族的要求にもとづいて出発していない両国併合の結果が、結局、姑息な威圧と差別的不平等と統計数字上の虚飾によって、利害相反する両民族間に永遠に友好協力できない憎しみの溝を深めているこれまでの事実からみて、勇猛果敢に過去の誤ちを正し、真の理解と同情にもとづく友好的な新局面を切り開くことが、おたがいに禍いを遠ざけ福を招く近道であることを知るべきではないか。[中略]また憎悪する二千万の民を武力をもって拘束することは、単に東洋の永久平和を保障しないだけでなく、これによって東洋存亡の主軸である四億中国人の日本に対するおそれと疑いを濃厚にし、その結果はついに東洋全体が共倒れする悲運を招くに至るであろう。[中略]/われらはここに奮起した。良心はわれらとともにあり、真理はわれらとともに進む。[中略]着手がすなわち成功である。ただ前方の光明に向かって邁進するだけである。

 

(2)パゴダ公園での独立宣言と示威の開始

 三月一日午後二時、立錐の余地なきまでに集合し、柵外まで溢れて居るパゴダ公園の群衆中からも一人の青年が小高い壇上に現はれた。今まで蜂の巣が崩れたようにどよめき合つて居た群衆の注視は此の青年に集り、溢れる群衆が水を打つたよう、悉くの耳は他の雑音を弁ぜざるまでに此の方面に向けられた。青年は一葉の刷物を出した。群衆は一段の緊張を加へた。青年の口から朗読せられるものは朝鮮民族の独立宣言である。[中略]宣言書の朗読が終るや青年はこの独立宣言と同時に我国は独立国となつたのだから、吾人同胞は双手をあげて独立万歳を高唱しなければならないと云ひ終るや彼は両手を高く挙げて万歳を唱へた。この一声は直ちに昂奮せる群衆の迎ふる所となり、公園の内外に一時に独立万歳が高唱された。(朝鮮総督府『朝鮮の独立思想及運動』)

 かれらは熱狂的に「朝鮮独立万歳」を叫びながら周囲の同胞たちに呼びかけていた。「朝鮮は独立したのだ、皆で万歳を唱えよ」とアジっていた。そうすると通りがかりの人々は最初はちゅうちょする様子であったが何時の間にか示威の隊列に加わり群衆となって熱狂的に「独立万歳」を叫ぶ、そして午後三時頃にはみなぎり寄せてくる潮のように全京城の市街の何処へ行っても「朝鮮独立万歳」の声と熱狂した市民の顔、顔であった。最初は学生と青年たちが先頭に立って居た、しかし何時の間にか労働者や都市の小市民たちが隊列に加わっている。六十を過ぎたと思われる老人が示威の行列へ飛びこんで来て若い人達と腕を組む。お婆さんが玄関から跣足で飛び出してきては金切り声をあげ咽が裂けんばかり「大韓独立万歳」と叫ぶ。(李千秋「当時の一中学生の記録」『朝鮮新聞』1959.3.1)

 

(3)平壌での示威

 「六週間前、講和会議の第一回会合がヴェルサイユで開催された。数日前ウィルソン大統領は代表団の前で、常日頃彼が提唱する立場からの大演説を行ない、『統治者の正当な権利は統治されるものの同意を得てのち生ずる、またある民族をあたかも財産のごとくある国の統治権から他国の統治権に譲り渡す権利はどこにもない』と述べている。それは彼が朝鮮民衆の意志を尊重すべきだと主張してくれることを表わしている。われらはその意志を、天から地まで響かせよう! わが朝鮮の愛国的指導者たちはこの演説を読むとすぐに今日、全国民的規模のデモ行動を組織することを決定した。私たちはすべてそれに加わる――男、女、子どもまで――そしてわれらキリスト者はその先頭に立たねばならぬ。さあ、私といっしょに行こう」

 私たちは彼に率いられて街に出、何千という他の学校の生徒や街の人々と隊伍を組み、歌いながらスローガンを叫びながら町中を行進した。私はうれしさで心臓が破裂しそうだったし、誰もが歓びにあふれていた。私は夢中になって終日食べることを忘れた。何百万という朝鮮人が、三月一日には食を忘れたと思う。私たちが通ったとき、一人の白髪の老人が段の上まで出て来てしゃがれた声で叫んだ、「見ろ、わしは死ぬ前に朝鮮の独立に会えるのだぞ!」(ニム・ウェールズ、キム・サン『アリランの歌――ある朝鮮人革命家の生涯――』)

 

(4)少年たちの行動

 当局は、学童たちの登校拒否にはことのほか動揺した。ある小学校で、卒業式には登校して卒業証書を受けとってもらいたいと少年たちが懇願をうけた。わたしはその町の人びとから聞いたのであるが、たしかつぎのような光景であった。少年たちは表面はだまって従った。多数の役人や著名な日本人の来賓を迎えて卒業式がはじまった。貴重な卒業証書がひとりひとりに手渡された。そのあと12〜3歳のかわいい首席の少年が前に出てきて、恩師や関係者にたいする感謝の辞をのべた。かれは演技で礼儀正しくふるまっていた。いちいち深ぶかとお辞儀をした。敬語の感じが好きでたまらないといわんばかりにそれをさかんに使った。来賓たちはご満悦であった。いよいよ最後になった。「これだけはいわせていただきます」と、その少年はいった。かれの声の調子は変わっていた。ぐっと姿勢を正したとき、かれの目には決意のほどがうかがえた。かれはいま自分の口から飛びだそうとしている叫びが、この数日間で多くの人びとに死をもたらしたということをわきまえていた。「これだけはお許しねがいます」と、かれは服のなかに手をつっ込むと朝鮮国旗を取り出したのである。そんなものを持っているだけで罰せられることであった。旗をふりながら、かれは叫び出した。「祖国をかえせ。朝鮮に永遠の栄えあれ。万歳!」。

 少年たちはみんな席を飛びだし、めいめい自分の上衣から旗をひっぱりだして、それをふりながら口ぐちに叫んだ、「万歳! 万歳! 万歳!」。かれらはたいせつな卒業証書を、恐れをなした来賓たちの目の前でずたずたに引きさき、地面にたたきつけてむらがり出ていった。(F.A.マッケンジー『義兵運動から三一独立運動へ――朝鮮の自由のための闘い――』)