南朝鮮単独選挙の強行(テキスト:5−2 南朝鮮単独選挙の強行)


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(1)単独選挙への道のり

 UNTCOK、南朝鮮だけの単独選挙実施決定(1948.3.12)
     │
     │1948.5.10実施→議会・政府樹立
     │国連の監視
     ↓
 分断反対闘争:2月ゼネスト(2・7救国闘争)、済州島4・3抗争、南北連席会議(1948.4.19〜23)

 

(2)選挙の実施

a)国会議員選挙法公布(3.18)

 21歳以上に選挙権、25歳以上に被選挙権。200選挙区200名の国会議員

b)選挙の監視:事実上、南朝鮮の米軍政に責任

 UNTCOKによる監視は不可能(30余名):人口2000万人、投票所1万3000カ所
 実際の監視は米軍政庁軍隊、国防警備隊、警察、右翼青年団

 5.9までに選挙登録者783万7504名(全有権者の79.7%)
 金九・金奎植らは不参加表明。李承晩グループ、韓民党のみ推進

b)5・10選挙

 投票率90.8%。済州島2選挙区を除く198名が当選
 右翼団体・警察による動員、強制駆り出し(米配給票を支給しない、「アカ」のレッテル貼りなどで脅迫)

 右翼が圧倒的多数(大韓独立促成国民会[1946.2.8結成、李承晩系]53、韓民党29、青年団20、大韓労総など諸団体11、無所属85)

*UNTCOK、選挙は成功と発表

 

※李承晩(1875〜1965)について

 帰国(1945.10.16)
 当時70歳。33年ぶり(1912.3渡米)。ハワイに活動拠点(評判悪し)。第2次世界大戦勃発でワシントンへ→米政府にロビー活動。人共主席に推戴(9.8)
 朝鮮国内では老革命闘士のイメージ

 独立促成中央協議会結成(10.23)
 当初は強力な民族統一機構への期待(←人共と米軍政の対立)。しかし親日派を排除せず共産党不参加(11.7一方で人共主席就任拒否)→急速に支持失い、実体をともなわず、李承晩の私的組織へ

 モスクワ協定(1945.12.27)に対し、韓民党とともに反託運動主導
 反ソ・反共キャンペーン、政治闘争の道具に。実は李承晩自身が、第1次大戦時に委任統治請願

 大韓独立促成国民会(1946.2.8):米軍政の後押し、警察・右翼青年団組織→自らの政治基盤とする

 井邑発言(6.3)=南朝鮮単独政府容認

 

※金九(1875〜1949)の立場

 帰国(1945.11.23)

 反託=民族自決権を無視した連合国の大国主義に憤慨

 単選(1948.3.12国連決定)反対→南北協商(48.2.16提議、4月下旬、北へ)――単選ボイコット、政府批判

 呂運亨なきあと李承晩最大の政敵→暗殺(49.6.26)