朝鮮戦争の経過(テキスト:6−1[1] 内戦から国際紛争へ)
(1)第1段階:開戦・人民軍の進撃
a)開戦
北朝鮮進攻開始(1950.6.25未明)→朝鮮人民軍、ソウル占領(6.28)→大田占領(7.20)
韓国政府、釜山を臨時首都(8.18)→9月初め、人民軍が慶尚南北道の一部を残す全国土を占領後、膠着状態へ
b)アメリカの対応
トルーマン大統領、国連安全保障理事会開催を要求(6.25)
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安保理、ソ連欠席のまま、北朝鮮の行為を「平和の破壊」と断定、北緯38度線までの撤退を要求する停戦決議採択→トルーマン、安保理決議を援助するため米空海軍出動を命令(6.27)
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│人民軍、ソウル占領(6.28)
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トルーマン、米地上軍(=日本占領軍)の出動命令(6.30)=アメリカ、朝鮮戦争に全面介入
安保理、国連軍の結成決議(7.7。最高司令官マッカーサー、16カ国)
韓国軍の指揮権を国連軍司令官(=米軍司令官)に委譲(7.14)→東京に司令部設置(7.25)
マッカーサー、日本政府に警察予備隊創設指示(7.8)
(2)第2段階:国連軍の反攻
a)仁川上陸作戦
国連軍、兵員5万人、艦船230隻の奇襲作戦(9.15)。人民軍の補給路を絶つ
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ソウル奪還(9.26)→北緯38度線を越え(10.7)、平壌占領(10.20)
李承晩は「北進統一」主張。38度線回復の安保理決議に反するが、国連総会で事実上、北進追認(10.7)
b)中国の対応
国連軍が38度線を突破すれば軍事介入すると警告(10.1)←朝鮮人民軍との強い一体感
国連軍、鴨緑江沿岸まで進撃(10.24)→李承晩、平壌で演説(10.27)
(3)第3段階:中国の参戦
a)中国人民志願軍の参戦(10.25)=朝鮮半島を舞台とした米中戦争へ
毛沢東、反対意見を押し切る→「抗美援朝」=アメリカとの対決は不可避
第1次戦役(10.25〜11.4):米軍・韓国軍に決定的打撃
第2次戦役(11.8〜):米軍反撃→中国軍、東西で深く誘い込む→中国軍、再反撃(11.25〜26)→平壌回復(10.25)→ソウル奪回(1951.1.4)
b) 国連軍の再反撃
ソウル回復(3.14)→38度線を越える(3.24)→鉄原など占領(6.11):以後、38度線付近で戦局は一進一退
ソ連、国連に休戦提起(6.23)
c)国連軍司令部の戦争拡大論とアメリカ政府の反対論の対立
マッカーサー、満州に原爆投下を主張→イギリスの強硬な反対、ソ連の戦争介入憂慮でトルーマン反対
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マッカーサー国連軍総司令官解任(1951.4.11)
(4)第4段階:停戦
a)休戦会談(開城):予備会談(1951.7.8)→本会談(7.10)
軍事境界線の設定、監視機関の構成、捕虜交換など討議(李承晩は強硬な反対)
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軍事境界は「接触線」(1951.10.31妥結)
中立国監視委員会設置(スウェーデン、スイス、ポーランド、チェコスロヴァキア)
捕虜交換問題:難航(送還を望まない捕虜の存在。共産軍は132,474名中83,000名)→会談中断、戦闘激化
再開(4.26)後、李承晩の反対はいっそう激化=捕虜送還協定署名後、2万5000名の反共捕虜釈放
米韓相互安全保障条約の締結、長期経済援助、韓国軍の増強などを条件に、アメリカ、李承晩説得
b)休戦協定(1953.7.27。板門店)
署名後3カ月以内に朝鮮半島の将来の問題を協議する政治会議開催
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ジュネーヴ会議開催(1954.4.26)→決裂
c)結果
死者400万名(南北朝鮮+中国100万+米6万3千人)
民族分断の固定化、南北両政権独裁化の決定的契機
東西冷戦激化の契機
対日講和条約・日米安全保障条約・日本の再軍備と高度成長