左右合作運動の挫折(テキスト:4−4 左右合作運動の挫折)
(1)合作運動の背景
a)目的
中道勢力を中心に、信託統治問題は棚上げにして、南北統一の臨時政府樹立をめざす
b)背景(姜萬吉)
中道派の危機感→合作へ
*右翼は反託=モスクワ協定と対立、しかも多数派ではなく、積極的支持はできず。一方で共産化を防ぐ(単独政府を樹立を支持すれば中道派が左派と合流の可能性)
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5月末より具体化←米ソ共同委決裂、民主議院の無能
バーチ中尉:極右・極左勢力を孤立させ、多数の中間派を中心に親米的政権樹立をめざす
(2)左右合作委員会の組織
a)委員会組織に向けて
バーチ、金奎植(民主議院副議長)、呂運亨(民戦議長団、人民党党首)と非公式に接触(5月下旬)
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バーチ宅で左右合作四者会談
右:金奎植、元世勲(韓民党総務) 左:呂運亨、許憲(民戦議長団)
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│←ホッジ、左右合作を公式に支持(6.30)
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b)左右合作委員会・第1回会談(7.25):左右から5名ずつ
┌右:金奎植、元世勲、崔東苞(非常国民会議副議長)、安在鴻(国民党)、金朋濬(臨政)
└左:呂運亨、許憲、金元鳳(民戦議長団)、李康国(共産党、民戦事務局長)、鄭魯穽(新民党)
共通の政綱作成めざす、毎週火・金会合、議長は交替で
*比較的広い範囲の協同戦線=中道勢力結集、両翼(韓民党・共産党)からも参加
c)左右の対立
民戦合作5原則(7.27)←朴憲永(米軍政主導の左右合作に反対)
右派、反対提案8原則(7.29)
信託統治、親日派処罰問題は後回し、臨時政府樹立を優先
両者対立→第2回会談延期、停滞
d)再開への努力
8月末より呂運亨の再開努力→9月に会談再開
一方で共産党への弾圧激化、9.6朴憲永らに逮捕令(→10月人民抗争)
*中道勢力のみで再開、両翼は不参加
左右合作7原則(10.7)←合作委で呂運亨、金奎植:左右の原則を折衷
比較的広範な支持:金九系賛成
反対=右:韓民党(土地改革に不満)、左:共産党(機会主義的と批判、大衆組織力に自信)
e)左派勢力の分断
社会労働党結成(10.15)=委員長:呂運亨(人民党)、新民党・共産党反主流派参加→のち呂運亨らは勤労人民党組織
f)南朝鮮過渡立法議院の開設
選挙を通じて民主議院(南朝鮮代表民主議院)を改編、これに代わる諮問立法機関設立構想(46.7)→米軍政、合作運動と二股
*米軍政の「朝鮮人化」構想=米軍政、臨時政府樹立までの立法機関と説明
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選挙公表(46.8.24)=米軍政、南朝鮮だけの独立政府樹立模索
*45名民選議員:間接選挙(総督府時代の選挙法。多額納税者と地主だけ)
45名官選議員:ホッジ任命
10月抗争のさなかに選挙実施(1946.10)→多くの朝鮮人は知らず。共産党ボイコット
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選挙は右派が圧倒的多数(34議席)
ソウル当選者3名は韓民党(金性洙、金度演、張徳洙)。呂運亨落選(官選議員→固辞)
官選議員は左派(左右合作派)中心:合作委の推薦。米軍政、バランスをとるため合作委を誘導企図
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呂運亨暗殺(1947.7.19)、第2次米ソ共同委員会決裂(7.10)で合作挫折→米軍政、分断路線の確定