分断政府樹立後の政治情勢
(1)国連総会決議195(III)の採択(参考:テキスト5-3)
UNTCOK、総会に単選報告書提出:5・10選挙の「成功」
総会本会議、第1委員会に朝鮮問題審議付託(1948.9.24)
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第1委員会で米豪中の共同決議案(UNTCOKの報告承認、新しい朝鮮委員会設置→総会は大韓民国を正当とすべき、新朝鮮委は統一を援助)
ソ連決議案(UNTCOK監視下での南朝鮮選挙は不当、政治的拘束と抑圧の中で実施→そもそも国連総会は朝鮮に関する行動の権利なし=モスクワ協定で処理すべき。大韓民国は旧日本協力者と米軍による傀儡政権、朝鮮民主主義人民共和国が朝鮮人民の意志を代表。朝鮮人民の代表が国連に招請されるべき)
共同決議案採択、ソ連案否決(1948.12.8)
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総会決議195(III)として採択(12.12)
[1]UNTCOKの報告承認
[2](a)大韓民国政府は合法的、(b)UNTCOKが観察した選挙で樹立、(c)朝鮮半島における唯一の「この種の政府」
[3]朝鮮委員会がUNTCOKの任務継承
*米の支配する国連によって大韓民国政府が合法化、分断政府樹立が正当化
*国連は分断国家を積極的につくり出す役割を果たす
日韓基本条約(1965.6.22) 総会決議195(III)にもとづき韓国政府を「朝鮮にある唯一の合法的な政府」と認める(第3条)=アメリカの冷戦政策の追従、分断を追認し、北朝鮮と敵対 *日韓の解釈の相違 第2条「1910年8月22日以前に……もはや無効」。無償3億ドル、有償2億ドルの借款供与 *今日に至るまで日本政府は植民地支配の問題は日韓条約で解決済みの立場=「独立祝賀金」を支払ったことはあるが「賠償金」を支払ったことはない。謝罪の言葉はあっても相手に誠意が伝わる形式はとられていない。 |
(2)北朝鮮の状況:「民主基地」→「南部解放」論
a)改革の成果
国家の政策に対する大衆の支持→統治体制と軍事力強化
経済力の急速な向上=1949年:解放前(1944)より工業生産は20%、農業生産は40%増加、国民総生産は2倍
2カ年経済計画(1949〜50)発表(49.2.28)=本格的な計画経済政策
重要産業国有化(46.8)=計画経済の基盤→1947、48年度に単年度の経済計画施行
朝鮮人民軍創設(1949.2.8)←ソ連軍撤退完了(1948.12.26)
ソ連より武器・弾薬の供与、軍事顧問の指導を受ける
祖国統一民主主義戦線(1949.6.27南北民戦合同により結成)、統一推進アピール発表(1950.6.7)
b)ソ連・中国の援助
朝ソ経済文化協力協定(1949.3.17)←金日成・朴憲永訪ソ(2.22〜4.7)
2億1200万ルーブルの借款締結。併せて軍事秘密協定(6個歩兵師団、3個機械化部隊、飛行機150台を援助)
中国共産党軍と軍事秘密協定(1949.3.18)
蒋介石軍との内戦のため、中共軍に参加していた5万名の朝鮮人兵士を朝鮮人民軍に編入(49.7)→軍事力強化(人民軍7師団中の3師団、全兵力の1/3。中共軍と強い一体感)
中華人民共和国と国交樹立(1949.10.6)←中華人民共和国建国(10.1)
c)南北労働党の合同
朴憲永の越北(1946.10)=北から南労党(46.11.23結成)を指導
全朝鮮政党社会団体代表者連席会議(1948.4.19〜23。平壌)、南朝鮮人民代表者大会(48.8.21〜26。海州)に多くの南労党幹部参加、そのまま北に残留
南北朝鮮労働党合同大会(1949.6.30〜7.2)=朝鮮労働党結成(委員長:金日成、副委員長:朴憲永・許哥誼)
事実上、北労党が南労党を吸収
南朝鮮の組織は朝鮮労働党南半部党に改編、パルチザン闘争を指導(責任者:金三龍、副責任者:李舟河)
(3)南労党パルチザン闘争
a)武装闘争の開始
48年時点で左翼武装闘争路線へ
それ以前は大衆的行動重視、弾圧に対する防衛としての抗争(46年10月抗争、47年3月抗争)
初期は自然発生的(済州島4・3抗争)
麗水・順天反乱(1948.10):党組織が武装路線に踏み込む契機
国防警備隊第14連隊(麗水駐屯中)、済州島出動を拒んで反乱(10.19)。麗水・順天を占領、解放区状態(10.20)→人民委再建。鎮圧(10.28)→都市部から撤収した反乱軍1000人は、智異山へ移動
将校クラスに南労党員=軍隊内にも強力なフラクション
これ以降は党が意識的に展開
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b)人民遊撃隊の組織整理(48.12)
智異山はじめ山岳地帯に根拠地
活動区域3市78郡(12市131郡中)、49年以降地方小都市を攻撃目標
戦闘ピーク=49.10:89,900人、1330回
犠牲多く、一進一退・膠着状態(50.3.14、金三龍・李舟河逮捕)→苦しいながらも持ちこたえている状態
(4)李承晩政権の強硬政策
a)反対派の弾圧←「北進統一(北伐)」論
軍内でレッド=パージ(8,000人の国防軍将兵が粛清)←麗水・順天反乱
国家保安法公布(1948.12.1)
国会フラクション事件捏造(1949.5〜6)
金若水(国会副議長)ら李承晩に批判的な「少壮派」議員(米軍撤退、南北協商など要求)14名を検挙、投獄
金九暗殺(1949.6.29)→協商派に打撃
133の政党・団体を一斉に強制解散(1949.10.18)
49年末まで逮捕者47万8000人。うち投獄15万4000人、刑死・獄死9万3000人
b)不徹底な「日帝残滓」の清算
「親日派」処罰問題←「親日派」官僚・警察が李承晩政権の支持基盤
反民族行為者処罰法(反民法。1948.9.7制定):国会が中心となって「親日派」処罰
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反民族行為特別調査委員会(反民特委。1948.10.22成立、10名)
559名を検察に送致、221名が起訴
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警察の妨害、国会フラクション事件、「6・6事件」(反民特委内に「アカ」がいるとの理由で、警察が襲撃、逮捕)で事実上瓦解→反民法の公訴時効が8.31となる→結局7名のみ実刑(5名執行猶予)
紆余曲折の末に農地改革法実施(1950.3.10)9)、地主に有利
有償買い上げ・払い下げ(小作地と3町歩以上の自作地を政府が買収。買入・分配価格は年平均生産価格の1.5倍。償還期間は5年〔年平均生産価格の30%ずつ〕)
145万町歩中、55万町歩(38%)のみ分配(多くは個別的に売却、改革不徹底)
第2回総選挙(1950.5.30)で李承晩派(大韓国民党。1949.12.24結成)惨敗(48名/210)、協商派圧勝
孤立した李承晩はいっそう激烈な「北進統一」論主張→緊張高まる
c)李承晩政権の不安定要因
(5)アメリカの対韓援助政策(参考:テキスト6−2)
a)米軍の韓国より撤収(1949.6.29)
500名の軍事顧問団は残す
米韓相互防衛援助協定(1950.1.26)
米国務省ダレス顧問、38度線視察後、戦争への援助を約束(50.6.19)
b)米韓経済援助協定(1948.12.10)
長期的援助(ECA援助→SEC援助)、無償
消費財中心(食料品・原綿など)
*資本主義体制の安定に寄与、一方で自立的経済構造の形成を阻害(農業の発展停滞、特恵的な繊維工業財閥を生成)
c)一方で中国革命への不介入宣言(1950.1)←中華人民共和国成立(49.10.1)
国務長官アチソン演説(1950.1.12):アジアの防衛線から韓国を「除外」→ソ・中・北朝鮮は、韓国を攻撃してもアメリカは介入しないと判断?
*アメリカの政策に動揺
李承晩政権の暴走に躊躇しつつも、中国革命の波及を警戒
(5)北朝鮮の開戦決意(参考:テキスト6−1(2)、6−3)
a)北朝鮮の先制攻撃
南北相互に相手の侵略と非難→近年、ロシアの資料公開で「北の先攻」がほぼ実証
b)開戦決定と中ソ
中国共産党の勝利が決定的な契機(1949.5、南京占領):49.3の金日成・朴憲永の訪ソ段階では武力統一についてほとんど言及せず
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北朝鮮、ソ連に武力統一の意思表示(49.8)→ソ連反対
金日成・朴憲永、再び訪ソ(50.4)→スターリン、毛沢東の承諾を条件に開戦を認める→金日成・朴憲永、訪中。毛沢東、開戦を支持(50.5)
*ソ連・中国・北朝鮮は、アメリカの介入はないと判断
《カミングスの見解》
南朝鮮内部での内戦状態が全朝鮮に拡大、大規模化:すでに労働争議・民衆蜂起、パルチザン闘争、38度線での小競り合い
当時の南北朝鮮情勢を考えれば、いつ軍事的衝突が起こっても不思議ではない