1950年代の韓国社会と4・19革命


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(1)朝鮮戦争下の失政

a)国民防衛軍事件(1950.12)

 青少年で編成した国民防衛軍(第2国民兵)が行軍訓練中に凍死・病死
 幹部が糧穀を着服

b)居昌事件(1951.2.11)

 韓国軍が農民700名をパルチザンに内通する共産ゲリラの容疑で虐殺→大衆の不信感募る

c)新与党・自由党結成(52.3)=民族青年団など右翼団体糾合

 憲法改悪もくろむ:協商派の多い国会議員による間接選挙方式では大統領再選の見込みなし

 

(2)「釜山政治波動」(1952.5)

a)改憲の強行

 改憲案=大統領直選制導入、大統領の任命による上院新設→国会、圧倒的多数で否決
     ↓
 臨時首都・釜山一円に戒厳令。「白骨団」「土蜂団」などの暴力組織が連日、国会解散要求のデモ。反対議員を脅迫、50余名を「国際共産党」の資金を受け取ったとの容疑で憲兵隊が連行
     ↓
 大統領直選制を骨子とする「抜粋改憲案」を再提出、警官隊を議場に入れて通過(52.7.4)

b)李承晩再選←正副大統領の直接選挙(1952.8)

 第3回総選挙(54.5):自由党圧勝(144名当選)
 「棍棒選挙」=警官の棍棒を使った投票駆り出し

 

(3)「四捨五入改憲」(1954)

a)大統領3選禁止条項廃止の憲法改定案提出

 国会議員203名中、賛成135名(改憲に必要な2/3は135.3=136名)でいったん否決(54.11.7)
     ↓
 翌日、小数点以下は四捨五入で切り捨てられる(=2/3は135名)として否決取り消し発表
     ↓
 再採決(11.29):反対議員が退席、残った125名で採決、123名賛成で通過と見なす

b)第3代正副大統領選挙(1956.5.15):李承晩3選

 しかし無所属候補・゙奉岩が善戦、副大統領は民主党(1955.9.18創立)・張勉当選。自由党・張起鵬落選
     │
     ↓
c)進歩党事件(1958)

 1956年゙奉岩を党首に創立

 幹部一斉拘束、政党登録取り消し(同党の南北統一選挙の提案は北朝鮮・ソ連の主張、北朝鮮のスパイと接触を理由)

 国家保安法改悪(1958.12.24):野党の反対を警察力で阻止

 民主党系の『京郷新聞』廃刊(59.4.30)

 進歩党党首・゙奉岩処刑(59.7.31)

 

(4)対米従属の深化

a)インフレの悪化(1950.6:100→52.6:1312)←朝鮮戦争(戦費増大、生産低下)

 とくに深刻な食糧不足(帰還者による人口増加、生産の不振)。為替レート下落(1948.10:1ドル=450ウォン→51.7:6000ウォン)
     ↓
 緊急通貨措置令(1953):デノミネーション(100ウォン=1ホワン)

b)アメリカの経済援助

 45〜61年の総額31億ドル。米韓余剰農産物協定(1955)

 「経済再建と財政安定に関する合同経済委員会」設立→援助物資(アメリカの余剰農産物)は割高に販売され「対充資金」として積み立て(ほとんど軍事費に充当)→アメリカ人の「合同経済委員会」委員長がこれを運用=事実上、韓国経済はアメリカの統制下

*軍事費は歳出の30%以上=アメリカの対韓援助が軍事費を支える

*農産物援助が韓国の国内農業に打撃→生産力停滞

*一方で援助物資(とくに原綿)は李承晩政権と結託した少数の企業に集中→対外依存的な独占企業の産業支配

c)軍事指揮統率権は朝鮮戦争以来、アメリカ人の国連軍司令官が掌握

 米韓相互防衛条約(1953.10)=米軍常駐体制

 

(5)李承晩体制の終焉

a)第4代正副大統領選挙(1960.3.15)

 李起鵬の副大統領当選が焦点(高齢の李承晩大統領の後継)

 不正横行:有権者の4割を買収、事前投票。正式投票時も徹底した監視のもとで投函→李承晩4選(得票率92%)。李起鵬、副大統領当選(72%)
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 選挙当日より各地で不正選挙に反対するデモ→馬山の高校生が武装警察官の催涙弾に当たって死亡→学生中心のデモ、全国に拡大
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     ↓
b)4・19革命

 ソウルの学生デモ隊2万名が、御用新聞『ソウル新聞』社屋や警察官署などに放火、大統領官邸に押し寄せる→警官隊の発砲で183名死亡、6200名負傷

 李起鵬は当選辞退(4.24)、一家で自殺

 大学教授の抗議デモに市民50万人参加(4.25)→李承晩退陣表明(4.26)