書 評

歴史問題研究所・歴史学研究所・済州四・三研究所・韓国歴史研究会編

『済州四・三研究』

(ソウル、歴史批評社、一九九九年一月)


刊行の意義

反発心も「適当に」被害を受けてこそ生じるものなのだろうか。あまりに残酷な犠牲を出したにも拘わらず、半世紀の間、その無念さがまともに顧みられることはなかった。住民たちは挫折感に打ちのめされ、虚無主義に陥り、深刻な被害意識にさいなまれていた。父母が銃殺されるとき、最前列に立って拍手をし、万歳を叫ぶことを強要された住民たち、洞窟の中に隠れていた家族が、赤ん坊の泣き声のために見つかり皆殺しにされる姿を、運よく外に出ていて息を殺しすすり泣きながら見つめていた人々、討伐隊が近くを通り過ぎるとき、見つかることをおそれて泣く赤ん坊の口を塞いだら、息子を窒息死させてしまった母、このような人々の心情を完全に理解することは不可能である。(本書、三七六頁)

 東アジア現代史最大の悲劇の一つである「済州島四・三事件」の実像を明らかにしようと、十年にわたって丹念な取材を続けてきた、済州島の地方紙「済民日報」の金鍾旻記者が、本書に書き綴った一節である。「四・三」がもたらした残酷な虐殺の様相、惨劇が生存者に残した深い心の傷、そして歴史の「真実」に接近することの困難さが凝縮されたこの文章を読んだとき、凄絶な受難の記憶の圧倒的なリアリティーに、歴史研究はどう応えていけばよいのかと、改めて自問せざるを得なかった。

 「済州島四・三事件」は、一九四八年四月三日にはじまる済州島民の武装抗争と、これを理由に警察・軍・右翼青年団などが引き起こした一連の住民虐殺事件として知られる。六年六カ月に及ぶ「討伐作戦」により、多数の済州島民が殺害されたが、正確な犠牲者数はいまなお明らかではない。(死亡者数には諸説あるが、少なくとも三万名は下らないだろうというのが現時点での一般的な見方である。)韓国の歴代政権は住民虐殺の実態を覆い隠そうと、犠牲者に「アカ」のレッテルを貼りつけたため、韓国ではこの事件について語ること自体が長くタブーとされてきた。だが一九八七年の六月抗争を契機に、資料発掘と体験者からの聴き取り作業が急速に進展したことによって、事件の実態は次第に明らかにされ、犠牲者の「名誉回復」と補償を求める運動も展開されてきた。九三年以後、済州道議会は済州道行政当局の協力を得て事件の真相調査に乗り出していたが、九八年に大統領に就任した金大中氏が一貫して選挙公約に「四・三」の真相究明を掲げてきたため、国会での「四・三」特別委員会設置を期待する機運も高まっている。しかしこのことは逆説的に、事件の発生から五十年以上たった今日においてさえ、「四・三」がいまだに終わっていないことを証明してもいるのである。

 本書『済州四・三研究』は「四・三」を主題とした初めての本格的な研究書であり、「済州四・三の真相糾明と名誉回復運動に全韓国民の力と知恵を集めようとして」一九九七年四月に結成された「済州四・三第五〇周年記念事業推進汎国民委員会」――以下「汎国民委」と略す。九九年二月「済州四・三真相糾明名誉回復推進汎国民委員会」と改称――の事業の一環として刊行された(引用は、汎国民委の案内リーフレットより)。編集にあたった四団体のうち、済州四・三研究所は、済州島現地で「四・三」の調査・普及活動に大きな役割を果たしてきた民間の研究団体であり、ソウル所在の残りの三団体――歴史問題研究所、歴史学研究所(旧・九老歴史研究所)、韓国歴史研究会は、いずれも八〇年代後半の韓国民衆運動の高揚期に若手研究者が中心となって結成され、現在では韓国の歴史研究をリードする存在へと成長している。(これら研究団体については、拙稿「韓国における歴史研究の新たな動向」『朝鮮史研究会会報』第一〇八号、一九九二年八月、参照。)

 ところで読者の中には、本書のタイトルが『済州四・三研究』となっていることを、いぶかしく思われた方もおられることだろう。「抗争」「暴動」「事件」などの名辞を付けず、なぜ「済州四・三」とだけよぶのか。その説明は、本書所収の金成禮論文から借用しよう。

一九九一年から毎年四・三の追悼儀礼は、いわゆる右翼陣営である「四・三遺族会」の「慰霊祭」と進歩団体「四月祭共準委」の「追慕祭」として、それぞれ名称を異にしてとり行われ、一九九四年には済州道と道議会の仲裁と財政的後援を受け「道民和合のための汎道民行事」として「四・三犠牲者合同慰霊祭」が初めて挙行された。しかし毎年、合同慰霊祭奉行委員会が構成されるたびに長年の葛藤が再現され、一九九六年には「暴動」や「抗争」という「極端的な用語」を互いに使用しないという合意のもとに、かろうじて慰霊祭が行われたほどであった。(二五二頁)

 引用文中の「四・三遺族会」の正式名称は「済州道四・三事件民間人犠牲者遺族会」で、一九八八年一〇月に結成された「済州道四・三事件民間人犠牲者反共遺族会」をその前身としている。(九〇年六月に「反共」の二文字を削除して現在の名称となった。)一方「四月祭共準委」(正式名称「四月祭共同準備委員会」)は、一九八九年に済州島の社会運動諸団体が集まって結成され、この年に済州島で初めて挙行された「四・三追慕祭」を主催した組織である。両者が共同で慰霊祭を開催していくためには、「暴動」や「抗争」といった「極端的な用語」を使用しないという合意が必要だったのであり、そのため済州島では、公式的には事件の性格規定に関わる名辞を付けることなく、単に「済州四・三」と称しているのである。

 名称の問題に象徴されるように、「四・三」はいまも済州島社会に深く根を下ろす葛藤の根本要因として、甚大な意味をもっているのである。

本書の構成と執筆陣

 本書は、次のような十一篇の論文を中心に構成されている。

一九二〇年代後半、在日済州人の民族解放運動(金仁徳)
主導勢力を通じて見た済州四・三抗争の背景――済州島人民委員会、南労党済州島委員会を中心に――(梁正心)
済州四・三の歴史的意義(徐仲錫)
済州四・三当時、戒厳の不法性(金淳泰)
済州四・三抗争と米軍政政策(丁海亀)
済州四・三抗争と右翼青年団(林大植)
近代性と暴力:済州四・三の談論政治(金成禮)
暴力と権力、そして民衆――四・三文学、その内と外の抵抗の声――(金在鎔)
医学史的側面から見た「四・三」(黄尚翼)
四・三以後五〇年(金鍾旻)
民主主義、理性、そして歴史研究:済州四・三と韓国現代史(朴明林)

 論文執筆者は、歴史学者、政治学者だけでなく、法学者、人類学者、文学者、医学者、ジャーナリストなどの多彩な顔ぶれによって構成され、さまざまな角度から「四・三」を総体的に検証しようという意欲がうかがえる。現在の韓国における「四・三」研究の水準を示す研究書と言えるだろう。ただ共同研究の体裁は取っているものの、各論文の叙述には重複や微妙な見解の相違が少なからず見受けられ、実際には個別の研究成果を一冊にまとめた論文集という印象が強い。また執筆者十一名のほとんどを「陸地」(朝鮮半島本土)出身者が占めており、これまでの「四・三」研究が事実上、済州島出身者により支えられてきたことを想起するならば、この点においても画期的な成果と評価できる。

 右に示した各研究論文のほか、本書の巻頭には金重培氏(汎国民委・常任共同代表)と金正起氏(歴史問題研究所所長)の刊行辞を配し、また巻末には「四・三」の経過を一瞥するうえで便利な「四・三関連事件日誌」(略年表)を掲載している。

 本書の内容は多様であり、各論文の内容をここで要約して紹介することは、紙幅の関係上、到底不可能である。そこで本稿では、主として政治史的な観点から、本書の執筆者たちが一致して指摘している論点、見解に相違のある論点を整理したうえで、そのほか特色ある議論を展開している個別論文の内容を補足的に紹介していくことにしたい。

主張がほぼ一致している論点

 現在「四・三」真相究明運動が突き当たっている大きな壁の一つに、ともすればこの事件が一地方の問題として片付けられがちで、韓国全体の政治課題として広く世論の関心を喚起しにくいという事情がある。それはこの事件が済州島という孤立した空間で発生し、また先述のように歴代政権が徹底して「四・三」について語ることを封じ込めてきたために、一般の韓国人が「四・三」の悲劇の実態を、ほとんど知ることができなかったところに由来していると思われる。あるいは本書で金鍾旻氏が厳しく批判しているように、言論機関の無関心や、今日なお存在するという、済州島民への差別意識によるところがあるのかも知れない。

 しかし本書では、徐仲錫氏の「済州四・三は韓半島の縮図であった」(一四三頁)という表現に象徴されるように、ほぼ一貫して「四・三」を朝鮮現代史全体の中に位置づける視点が強調されている。執筆陣を「陸地」出身者中心としたのも、そのような意図の反映であろう。その意味で「済州四・三への対面方式と認識は、私たちの社会がこれまでの韓国現代史全体に対面する一つの試金石となるだろう」(朴明林、四二六頁)という主張は、本書の執筆者たちの共通した認識と思われる。

 こうした問題意識から、徐仲錫氏は朝鮮現代史における、民衆にとっての「解放」「抗争」「虐殺」の意味が、済州島と朝鮮半島本土で共通した性格をもっていたことを証明しようとした。また丁海亀氏は「左右葛藤の中で左派勢力鎮圧に動員された米軍政の国家抑圧力は、その統制力が漸次、地方または辺境にまで拡大され、ついにそれは一九四七年に入って済州島にまで拡大されたのである」(二〇二頁)として、米軍政の左派抑圧政策が、中央から地方へと次第に拡大され、最終的に済州島にまで及んだ点を強調する。

 本書が「四・三」を朝鮮現代史の流れの中に位置づけて評価しようとしたことは、きわめて意義深いことと考える。ただ済州島と「陸地」の状況の比較や、中央の動向が「辺境」たる済州島にまで拡大したという視点にとどまらず、「四・三」が同時代の韓国の政治動向をどのように規定していったのかという分析視角をも、積極的に提示する必要があるのではなかろうか。この点は本稿の最後で改めて述べることにしたい。

 次に従来、国家権力や右翼陣営が主張してきた「共産暴動」説、南労党中央あるいは北朝鮮による「指令」説に対しては、論者によって若干ニュアンスに違いはあるものの、やはりこれを否定する立場で一致している。

 例えば、丁海亀氏は「全南党所属となっていた南労党済州島委員会が、中央から直接的な指令を受けたと見ることは難しい。……南労党中央の指令によるものならば、陸地での攻勢と歩調を合わせなければならなかったはずなのに、実際は全くそうではない。……済州島四・三は……武装闘争の性格を帯びていたが、それは当時の時点で南労党中央さえ考慮していなかった戦術であった」(一九八頁)と述べ、南労党中央からの「指令」の可能性を正面から否定している。

 これに対し、朴明林氏は「一九四八年四月三日へと向かう道程で、核心指導部が中央の何らかの指令を受けた可能性を否定することはできないが、そのような指令にしたがって、済州左派全体、そして済州人民が動員され参加したという証拠は存在しない」(四四二頁)と、南労党中央による「指令」の存在自体については含みをもたせつつも、それが抗争の直接的要因になったとは言えないという立場のようである。

 今日まで「共産暴動」説は、「四・三」におけるおびただしい虐殺を「正当化」するためのレトリックとして用いられてきた。このような「説」がきわめて薄弱な根拠のもとで喧伝されてきたことは、すでに明白であると言ってよい。その意味で金鍾旻氏が「歴史歪曲の核心は、韓国現代史を黒か白かの論理に単純化させ、四・三を「北韓にそそのかされた共産暴動」と決めつけた点である」(三五一頁)と指摘しているのは、まことに正当な批判と言える。

 第三に、とくにここ数年、「四・三」の実態が明らかになるにつれて、この事件に対するアメリカの責任を追及する声が高まる傾向にあるが、本書の執筆者たちも総じてアメリカに対しては厳しい見方をしている。「四・三」が勃発したのは米軍政下のことであり、また一九四八年八月一五日の大韓民国政府樹立後も、韓米軍事安全暫定協定(同年八月二四日締結)によって、米軍の撤収が完了する翌四九年六月三〇日まで、韓国軍の作戦指揮権は駐韓米軍司令官の下にあったからである。そしてこの当時「暴徒討伐」にあたった軍・警察などの武器や装備は、ほとんどアメリカが提供したものと言われている。したがって済州島での軍事行動と住民虐殺に、アメリカは当然、責任を負うべき立場にあるという主張である。

 これに加え、徐仲錫氏は「何よりも四・三は米軍政の失政と腐敗、抑圧のために起こったという点が、非常に重要視されなければならない」(一三一頁)と述べ、米軍政による統治政策の破綻自体が事件発生の根本要因になったという見方を示す。また丁海亀氏は「彼ら[米軍政――引用者]は済州島事態の運命が分岐点に立つたびに、事態が悪化する方向で政策的選択をした」とアメリカの対応を厳しく批判したうえで、その原因を米軍政が「つねに問題をソ連−北韓−中央南労党−地方南労党と連なる左派勢力の扇動という色眼鏡だけでながめた」ところに求めている(二〇四頁)。

 アメリカの責任の重大さは疑う余地がないと評者も考える。ただ「四・三」に対するアメリカの態度をより構造的に分析しようとするならば、この時期のアメリカの東アジア政策全般を検証し、その中に「四・三」を位置づける作業もあわせて必要になってくるだろう。この点についても最後に言及したい。

見解に違いのある論点

 一方で本書には、執筆者によって見解の分かれる問題も見受けられる。とくに四月三日にはじまる武装蜂起が、一般住民を巻き込んだ大量虐殺へと帰結していったため、抗争を指導した左翼勢力の責任問題は避けて通れない論点の一つである。

 まず丁海亀氏は「彼ら[済州島左派――引用者]は解放政局初期、米軍政にかわって人民委員会を通じて統治機能を行使し……米軍政および警察の不当な弾圧に対し、済州島民の抵抗を組織化した。彼らにその程度の責任はある。しかし彼らの責任はそれ以上ではない」(二〇三頁)と述べ、左翼勢力に対する責任をほとんど認めない立場をとっている。逆に言えば住民虐殺の責任は、ひたすら李承晩政権とアメリカが負うべきということであろう。

 これに対し梁正心氏は「済州島党は情勢を楽観的に把握し、独自的に蜂起を起こした」と、やはり南労党中央や北朝鮮からの「指令説」を否定した後、次のように述べている。

抗争指導部のこのような楽観性と、以後、抗争の過程での無責任性は批判されて当然だろう。しかし抗争指導部と、五・一〇単選阻止闘争の中で示した下級党員たちと済州島民の献身性は、区別して評価されなければならない。(九六頁)

 すなわち「抗争指導部」と「下級党員」「済州島民」の責任を区別し、批判されるべきは前者という見解である。

 ここで言う「抗争の過程での無責任性」とは、「四・三」初期、遊撃隊の指導者であった金達三らが一九四八年八月初めごろに済州島を脱出し、同月二一日から黄海道の海州で開催された南朝鮮人民代表者大会に参加したことを指すものと思われる。この大会には南朝鮮各地から「地下選挙」で選ばれた代表者が参加し、この場で朝鮮民主主義人民共和国の最高人民会議を構成する、南側の代議員が選出された。朝鮮民主主義人民共和国の建国(四八年九月九日)に直接連続するこの会議で、金達三は済州島での闘争の成果を報告している。

 このような事実が、米軍と韓国政府に「済州での抵抗は北韓共産主義者と連携したものと認識させ」たと考える朴明林氏は、「北韓政府樹立過程に直接参与し演説までした、済州四・三の初期抵抗指導部の非現実的親北行動は、どのような名分でも正当化できない、厳しく批判されねばならないもの」(四四三頁)と、左派指導者たちの責任を追及している。本書の中で最も厳しい評価と言える。

 さて次に見解に相違の見られる論点として、一九四八年一〇月の麗水・順天反乱事件が「四・三」に及ぼした影響をどう考えるのかという問題がある。済州島での住民虐殺は、四八年一一月から翌四九年三月ごろにかけて繰り広げられた、いわゆる「焦土化作戦」で集中的に発生しているが、何故この時期におびただしい殺戮が行われたのかについては、さまざまな要因が指摘されてはいるものの、いまだ核心的な資料を発見できないでいるのが現状である。焦土化作戦実施の要因として従来指摘されてきたうちの一つが、四八年一〇月一九日、済州島への派遣を拒否した麗水第一四連隊の反乱であり(翌二〇日、隣接する順天にも波及)、この麗水・順天事件のもつ意味についても、見解に温度差が見られるのである。

 まずこの事件を焦土化作戦の直接的な契機として重視する立場がある。すなわち「麗水反乱事件が李承晩政府をしてゲリラ討伐を強化させた」(丁海亀、二〇一頁)とか、「この時期[一九四八年秋――引用者]以後は、麗水事件以後の本土への拡散を確実な鎮圧を通じて遮断しようとする、国家当局の一方的な攻勢期間であった」(朴明林、四四八頁)というように、麗水・順天事件の発生を契機に、済州島の事態が「陸地」に拡大することを防ごうとして繰り広げられたのが、焦土化作戦であるという理解である。

 これに対し徐仲錫氏は「焦土化作戦を本格的に展開したのには、麗水事件が契機となった可能性もあ」ると前置きしながらも、「しかし麗水事件で大きな危機を感じ、それが行われたというのは説得力が弱い」「済州島での良民大虐殺も危機感からと言うよりは、李承晩の統治権力と極右反共体制の強化のためのものであった」(一四〇頁)と主張している。焦土化作戦の目的は、何よりも李承晩体制の権力強化にあったという意見である。

 「四・三」関連の資料は限定されており、しかもその多くは済民日報や済州四・三研究所など、済州島の人々の努力によって発掘されたものである。本書で提示された資料のうち、「四・三」の事実経過に関しては、目新しいものはほとんど見当たらなかった。以上のような見解の相違も、基本的には限られた材料のうちのどれを重視し、またそれをどのように解釈するのかという点に基づいており、これら評価の違いを止揚するためには――困難な作業ではあることは承知しているが――新資料の探究が何より緊要であると感じた。

特色ある個別研究の成果

 以上、政治史的な観点から執筆された論文を中心に、「四・三」をめぐる本書の主張を紹介してきたが、これまで触れることのできなかった論考中にも、さまざまな興味深い論点が提示されている。その中からここでは、金淳泰、林大植、金成禮の三氏の論文を紹介しておきたい。

(1)「四・三」鎮圧過程における戒厳宣布の法的根拠(金淳泰)

 一九九七年四月、済民日報「四・三」取材班は、焦土化作戦の時期、済州島に施行された「戒厳令」には法的根拠が存在しないというスクープ記事を報道した。すなわち大統領令第三一号により済州島に戒厳が宣布されたのは、焦土化作戦の開始とほぼ時期を同じくする一九四八年一一月一七日のことであったが、韓国で戒厳法が制定されたのはそれから約一年後の四九年一一月二四日であったため、戒厳宣布は不法であったと主張したのである。(『済民日報』『ハンギョレ新聞』一九九七年四月一日。この問題に関する済民日報側の主張は、済民日報四・三取材班『四・三は語る』第五巻、ソウル、伝芸苑、一九九八年、参照。)これに対し政府側は、ただちに法制処行政法制局の見解を発表して、済民日報の主張に反論したが、金淳泰論文はこうした戒厳宣布の法的根拠について検討したものである。

 金淳泰氏は、まず「討伐隊」による虐殺は、戒厳宣布の合法・不法の如何に拘わらず「正当化できない蛮行」であることを強調したうえで、法制処行政法制局の主張を紹介する。一言で言えば、それは植民地時代の「戒厳令」を法的根拠とする見解である。

 戦前の日本で戒厳布告を規定した法令は、一八八二年八月五日に公布された太政官布告第三六号(いわゆる「戒厳令」)であるが、これは一九一三年九月二三日の勅令第二八三号によって植民地朝鮮に適用された。解放後、米軍政庁は法令第二一号(一九四五年一一月二日)で、日帝時代の法規はすでに廃止されたものを除いて全効力をもつとし、さらに大韓民国建国憲法(一九四八年七月一二日制定、七月一七日公布・施行)はその第一〇〇条で「現行法令はこの憲法に抵触しない限り効力をもつ」と定めた。戒厳令の廃止を明記した法令は存在せず、したがって済州島で施行された戒厳状態は法的根拠をもつという説明である。

 これに対し金淳泰氏は次のように反論する。戒厳法は国民の自由と権利を極度に制限する法令であり、民主独立国家であればその国家の意思を表現して別途に制定しなければならないはずである。実際に建国憲法第六四条には「大統領は法律に定めるところにより戒厳を宣布する」と明記されていた。そもそも日帝法令は最初から効力はなく、法の「実効性」も日帝機関の「実力」だけに根拠があるので、その「実力」が消えた段階、すなわち日本の植民地支配から解放された段階で「効力」は消滅したと見なければならない。また米軍政庁法令第二一号は、日帝の法令をすべて否定すれば、法の空白により混乱が生じることを考慮したものである。

 要するに建国憲法の精神に照らしてみれば、植民地時代の戒厳令はすでに効力を失っていたと解釈するのが当然である、というのが金淳泰氏の主張のポイントであろう。とくに戒厳法制定後、最初の非常戒厳宣布(一九五〇年七月八日)の際には戒厳法によることが明記されているにも拘わらず、済州島に戒厳を宣布した大統領令第三一号などには法的根拠が示されていないという金淳泰氏の指摘は興味深い。当時の李承晩政権が法的根拠として明示できなかった植民地期の法令を、今日の韓国政府は法的根拠と主張するのだろうか。

(2)右翼テロの中心となった西北青年会の実態究明(林大植)

 「四・三」前後に吹き荒れた白色テロの実行部隊として中心的な役割を果たしたのが、北朝鮮地域出身者により組織された右翼青年団体・西北青年会――済州島では普通「西北青年団」とよばれる。以下「西青」と略す――である。北朝鮮地域の社会改革・親日派処罰政策で故郷を追われ、共産主義に激しい憎悪心を抱く彼らが済州島で繰り広げた非人間的行為については、すでに数多くの証言がその実態を明らかにしているが、林大植論文はこの組織の全体像を丹念に描いた実証研究である。管見では、これまで解放後の右翼青年団体を概括的に紹介した論文はあったものの、西青に焦点を絞った研究は存在せず、その意味でこの論文は「四・三」の悲劇の背景を考えるうえで示唆に富む、貴重な研究成果である。

 西青は一九四六年一一月三〇日、北朝鮮出身者の地域別青年団体を統合する形で結成された。翌四七年九月二一日に、右翼青年団体の統一を掲げて組織された大同青年団への参加をめぐって分裂、残留派は同年九月末に再建大会を開いたが、最終的には四八年一二月一九日、李承晩大統領の指示に従い、大韓青年団の結成に参加して解散した。

 西青の後援者・資金源は韓民党、李承晩・金九などの右翼指導者、警察、北出身の財産家・米軍政官吏などであった。その活動は、テロ、反共意識鼓吹・左翼挑発、対北工作・越南民支援などで、とくに「再建」後はテロ活動路線から対北工作中心へと方針を転換し、南朝鮮での活動は済州島一円にほぼ限定されることになった。また時期を同じくして、彼らは軍や警察の組織に大挙進出していった。

 済州島には一九四七年の三・一節発砲事件後に、警察補助機構として投入されはじめたが、西青のテロ行為は島民の感情を刺激し、「四・三」勃発の要因の一つになったとも指摘されている。「四・三」発生後、遊撃隊鎮圧のために西青はさらに追加、急派されたが、この段階では西青の団員としてだけでなく、警察や軍の構成員となって派遣された者も多かった。

 西青によってもたらされた済州島民の苦痛が、いかに悲惨なものであったのかについては、先述のようにすでに多くの指摘がある。しかし一方で、次のような林大植氏の評価にも、私たちは耳を傾ける必要があるだろう。

……極端的な反共外人部隊としての西青を済州島に投入し、また準国家機構化させ暴力をそそのかし、傍らで助けた米軍政と極右勢力に、西青は徹底的に利用された側面がある。[中略]悲劇を極端な方向へと追いやった責任は、西青を活用したアメリカと極右勢力の役割が大きい。(二三七頁)

(3)「犠牲者の談論」からの国家暴力批判(金成禮)

 本書の中でもとくに異彩を放つ議論を展開しているのが、人類学者・金成禮氏の論考である。

 金成禮氏は、どのような社会であれ秩序の構築は暴力行為が必然的に介入するというジラールの説を援用し、「四・三の暴力性は……南韓という近代的国家の「根本的暴力」とその正当性を構築する「犠牲的秩序」に起因」したものと把握する(二四一頁)。その結果、「四・三」における「アカ」狩りは「神聖な暴力」として国家により正当化されることになるという(二四四頁)。

 ところが生存者の「記憶」はさまざまであり、また本稿の冒頭で言及した名称の問題に見られるように、犠牲者慰霊祭は過去の理念的対決の「幽霊」を呼び起こす場となっている。金成禮氏は「共産暴動論」「民衆抗争論」の双方を「暴力の行為者の立場から暴力の不可避性を共通して認定」したものと批判し、「「理念的葛藤」よりは、両者の武力衝突により引き起こされた「大量虐殺」という四・三の政治的結果に関心を集中」させた、済民日報や済州道議会のような「第三の立場」に共感を示す(二五三頁)。

 金成禮氏によれば「四・三の「歴史的真実」は……反共主義暴力と恐怖」なのであり、「国家が暴力の真相を認め謝罪してはじめて、四・三慰霊祭は四・三犠牲者の無辜の死を追慕する真正な意味での哀悼儀礼になる」という(二五六頁)。国家権力の言語が媒介しない真の追悼儀礼たるクッで、シムバン(朝鮮半島本土で言うムーダン=巫女)が語る多様な死者の声こそが「今まで歪められ、明らかにされなかった四・三の苦痛を抗弁」し(二六三頁)、「反共主義暴力の不当さを告発し証言」しているのである(二六六頁)。

 金成禮氏は、おびただしい「無辜の死」の声に耳を傾けるところから「四・三」の本質に迫ろうとする。生命の尊厳を何よりも重視する立場と言え、評者も教えられるところの多い論考であった。だがその意図するところに共感しつつも、「共産暴動論」も「民衆抗争論」も「暴力の不可避性を共通して認定」したものという断定には、戸惑いを感じたことも事実である。このような枠組みからは、民族の解放と統一を目指し、自ら歴史を創造していこうとした済州島民衆運動のダイナミズムを視野の外におくことになるのではないか。人類学者と言えども、回避できる論点ではないように思われる。

残された課題

 本書の中で、金鍾旻氏は「四・三研究発展のための今後の課題は、何よりも現代史研究の活性化と資料発掘にある」(三六七頁)と指摘している。冒頭述べたように、本書は「四・三」研究の今日の水準を示す優れた研究書であるが、しかし本書で新しい資料が発掘され、それに基づいた新鮮な見解が提示されたという印象は薄い。黄尚翼氏の論文は、何度読んでも衝撃的な体験者の証言を、医学者の立場から整理したものであるが、このような証言のリアリティーを裏付けるためにも資料発掘は必要だろう。とくに韓国政府は「四・三」関係の所蔵資料を、一刻も早く公開する責務がある。

 ところで朝鮮現代史研究の現状において、解放から分断国家樹立までの時期に比べると、それに続く朝鮮戦争勃発までの時期は――ブルース・カミングス氏や、本書の執筆者である徐仲錫氏、朴明林氏などの優れた研究成果はあるものの――全般的に手薄という印象は拭い難い。済州島で焦土化作戦が繰り広げられたこの時期は、韓国において反共独裁政権を支える国家装置が確立した時期でもあった。韓国で「反国家団体」とそれに繋がる者への弾圧を目的とした国家保安法が公布されたのは、焦土化作戦のさなか、一九四八年一二月一日のことである。これに先立ち同年一〇月二二日には、国会に反民族行為特別調査委員会(反民特委)がつくられ、親日派の処罰に乗り出していたが、翌四九年五〜六月の国会フラクション事件をはじめとする警察の妨害などで、「日帝残滓」の清算は結局うやむやにされてしまった。このような反共国家秩序の形成に「四・三」の影響が全くなかったとは考えにくい。この点も、今後研究を深めていくべき課題の一つであろう。

 また「四・三」が東アジアの冷戦体制とどのような連関性をもっていたのかについても、より詳しい分析が欲しかったところである。「四・三」と類似の性格をもつ民衆虐殺事件としてしばしば引き合いに出されるのが、台湾の二・二八事件(一九四七年)であるが、反政府勢力に対する弾圧という意味では、二・二八事件に続いて台湾で起こった「五〇年代白色テロル」との比較も重要と思われる。

 そして日本では「四・三」とほぼ時期を同じくして、在日朝鮮人の民族教育を守る闘い――四・二四阪神教育闘争が展開された。これが「四・三」と直接的な関係をもっていたとは考えにくいが、民族的念願を土台に湧き起こった朝鮮人の大衆運動を、冷戦イデオロギーに基づいて米軍が弾圧した事件という意味では、共通した構図の下にあると言えるだろう。

 さらに南朝鮮の占領政策を担当したのが、沖縄戦主力部隊の一つである米太平洋陸軍第二四軍団であったところから、沖縄戦の体験がアメリカの朝鮮政策に何らかの影響を与えたのではないかと推測されること、また朝鮮戦争を契機として、五〇年代には沖縄民衆に対するアメリカの抑圧政策が露骨化し、沖縄での反米闘争が高揚していったことなどを考えると、アメリカの沖縄支配の状況と朝鮮政策の関係も視野におく必要があるように思う。このような東アジア冷戦体制の構築過程で「四・三」がもった意味についても、今後いっそう追究していかねばなるまい。

 なおもともと朝鮮近代史を専門領域とする評者としては、植民地期の民族解放運動と「四・三」との連続性/非連続性について、梁正心氏が興味深い指摘をしているのが印象に残った。解放直後、済州島人民委員会などに集まった民衆運動の指導層は、主として植民地期の抗日運動の経験者により構成されていたが、一九四七年秋になると左派勢力の中枢をなす南労党済州島党の主導権は、解放後に新たに運動に加わった若い活動家たちへと移っていった。結局この新指導部によって武装蜂起が決行されることになるのだが、こうした左派指導勢力の「世代交代」の事情については、従来の研究では詳しい経緯が分からないままであった。

 この点について梁正心氏は、「四・三」への導火線となった一九四七年の三・一節発砲事件と、それに続く三・一〇ゼネストで党員が大量に検挙され、人員不足を埋めるために、若い層と新たに入党した「基本階級」出身者が党を主導し、武装闘争を主張したと推測している(八五〜八七頁)。本書で植民地時代の民族解放運動については、在日の済州島出身者の活動を取り上げた金仁徳氏の論考があるだけであり、植民地期の研究者の側からも梁正心氏の問題提起に応えていく必要があるだろう。

 最後に、本書でほとんど取り上げられることのなかった論点の一つに「四・三」と在日朝鮮人の関係がある。本書では文学者の金在鎔氏が、韓国の作家・玄基榮氏の作品とともに在日の作家・金石範氏の『火山島』を分析してこの問題への関心を示したが、在日の済州島出身者の中に「四・三」前後の白色テロを避け、日本に渡航してきた人々が数多くいる点を、私たちは見過ごしてはならない。日本政府から「密航者」として取り扱われてきた彼らは、今日的観点から見れば明らかに「政治難民」として保護されるべき対象であった。「四・三」で受けたトラウマから、いまだに沈黙を守っている人々の心情は、評者などが軽々しく推し量れるものではないが、その苦難の体験がほとんど記録に留められないまま忘れ去られようとしている現状には、危惧を抱かざるを得ない。「四・三」とそれにともなう渡日の体験も、在日朝鮮人の歴史の重要な位置を占めるものとして記憶される必要があり、この点はむしろ日本にいる私たちの課題として引き受けていかなければならないだろう。

 以上、思いつくままに感想を述べてきたが、繰り返し指摘してきたように、本書の刊行はさまざまな面で画期的な意義をもっている。本書の成果が「四・三」の真の解決に反映されることを心から願うばかりである。

[付記]朝鮮史研究会関西部会一九九九年六月例会で、評者が行った本書の書評に対し、水野直樹氏をはじめ出席者の方々から貴重なご意見をいただいた。本稿執筆にあたって参考にさせていただいたことを、感謝とともに付け加えておく。

(『朝鮮史研究会論文集』第37集、1999年10月)


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