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Tengyong's Taiwan Reports

No.5 (Feb. 08, 2004)  猴年春節

西門町・紅楼劇場の新年の飾りつけ。
台湾での「過年」(旧暦の年越し)は、ひときわ寒さがこたえる体験となりました。春節(旧正月;2004年は1月22日)前後の台北は寒波と降雨に見舞われ、最低気温は台湾に来てから最も低い7度まで下がりました。7度で「寒い」などと書くと、日本にいるみなさんに笑われそうですが、前にもお伝えした通り、暖房施設のない、コンクリートに囲まれたアパートの部屋の冷え込みは尋常ではなく、限界まで着こんでも我慢できない寒さが続きました。山間部では雨は雪に変わり、台北郊外の観光地・陽明山での降雪風景が11年ぶりの出来事として伝えられたりもしました。
台湾の雨は、傘をささずに済む程度の小降りか、徹底して降るか(土砂降りまたは長雨)のいずれかです。北部地方の冬は雨が多いと聞いていたにもかかわらず、12月後半から1月前半にかけてほとんど雨は降らず、気温も比較的高かったのですが、ここに来て降雨が続き、低温とあいまって洗濯物が乾かず困っています。もっとも水不足で2月6日から第2段階の給水制限(大口使用業者への給水2割減)がはじまっている台北にとっては、恵みの雨になってくれればよいのですが。
台湾では旧暦1月1〜3日だけでなく除夕(旧暦の大晦日)も祝日の扱いで、「過年」の連休は徐夕からはじまります。そのことに気づかなかった私たちは、除夕当日になるまで、連休初日が当然新年のはじまりなのだろうと思いこんでいました。また日本のテレビ局は歳末になると“今年の回顧”だの“総集編”だの、手抜きとしか思えないような再放送番組をうんざりするほど放映しますが、こちらではそのような類の番組はほとんどなく、ほぼ平常通りの番組編成で新年を迎えました。
そこでふと感じたのですが、日本と台湾(と言うよりも漢族社会)とでは“新年を迎える”ことの意味が、少し違うような気がするのです。年越しが一つの区切りであることは、日本も台湾ももちろん同様ですが、日本社会では旧年中のさまざまな出来事(とくに悪いこと)はきれいさっぱり水に流しておしまいにし、改めて新年からスタートしようという意識が強いようです。落語の「言訳座頭」にあるように、借金の取りたても大晦日までで、年さえ越せばしばらく借金取りに煩わされることはありません。
しかし台湾(漢族社会)では「過年」という言葉が端的に示すように、どうやら年を越すこと自体が重要な意味をもっているようです。時間を日本社会のように1年単位で分断するのではなく、あくまでも連続したものととらえ、旧年中(過去)の成果なり反省なりの延長線上に新年(未来)を展望しようということなのでしょうか。ともかく歳末に何事にも決着をつけようと慌ただしい日本とは違って、台湾では新年に入ってから、いろいろと楽しい行事を見ることができました。
さて春節をはさんで2週間ほど中国語の授業がなかったおかげで、私たちはややゆったりとした気分であちこちを見て回りました。少し冗長になるかもしれませんが、今回はその模様をご報告することにします。私たちはまず春節前に台湾師範大学国語教学中心が主催する、宜蘭から蘇花公路(蘇澳・花蓮間自動車道)を南下して、台湾屈指の景勝地・太魯閣峡谷へと至る2泊3日のバス旅行に参加しました。私たちにとっては初めての台湾東部地方への旅行で、景観の美しさもさることながら、世界各地から来た友人たちと親しく話すことのできた楽しい旅でした。
春節前後は雨続きでしたが、年明けには雨の上がった合間を縫って、台北市中心部の中山堂前広場で披露された歌仔戯(台湾の漢族に伝わる歌劇)や獅子舞、雑技などの伝統芸能を見に出かけたり、これまで訪問できなかった台北市内の寺廟などに行ってみました。閩 南語(いわゆる台湾語)で上演される歌仔戯はもちろん全く聴き取れないので早めに引き上げましたが、日本と違ってアクロバット的なパーフォーマンスを演じる獅子舞はとても楽しいものでした。また漢族社会にも「初詣」の風習があり、街中の閑散とした新年の雰囲気とは対照的に、行天宮や大龍峒保安宮など台北の代表的な廟は参拝客でごった返していました。(ここまでの様子はすでに Taiwan's Portraits のページで紹介していますので、詳細はそちらに譲ることにします。)
新年の獅子舞の様子。中山堂前広場にて。
そして新年の交通機関の混雑をさけるため、連休明けを待ってから、再び東部地方へ妻と2人で5日間の旅行に出かけました。今度は台東周辺を中心に見て回ったのち、花東公路を北上して花蓮経由で台北に帰って来たので、1回めの旅行とあわせて東部の海岸沿いの道路はほぼ走破したことになりました。
*花蓮と台東を結ぶ幹線道路には、海岸沿いを走る「花東海岸公路」と、東部海岸山脈と中央山脈の間の盆地を走る「花東縦谷公路」の2つのルートがあり、今回私たちが経由したのは「海岸公路」のほうです。
台湾島の中央を南北に走る山脈はやや東側に偏っており、西部に比べて東部は傾斜のある山々が海岸線に迫る険しい地形となっています。そのため東部は漢族の入植や日本人の「開発」が遅れ、山地を生活の場としていた台湾原住民の割合がいまも比較的高い地域です。一方で海岸線と山岳地帯が随所でダイナミックな景観を形成しており、西部地方とは異なる趣の魅力にあふれていました。
東部地方に出かけてみると、山中深い原住民の生活の場に刻まれた日本支配の「痕跡」を眼にしないわけにはいかないようです。太魯閣に行く途中で停車した宜蘭県南澳の葉家香サービスエリアでは、鳥居のような門をしたがえた不思議な鐘楼を見つけました。記念碑に刻まれた碑文によると、日本統治時代の1938年、出征する教師の荷物を持って見送りに出ていた当地のタイヤル族の少女・莎韻が、暴風雨のため誤って崖から転落し命を落としたため、台湾総督府がこれを顕彰し鐘を贈ったとのことです(莎韻之鐘)。ただ碑文の日付は「西元一九九八年六月」となっていますし、鳥居も鐘楼も見たところ建てられてからあまり時間が経っていないようで、植民地時代の鳥居が残されているわけではなさそうです。しかしそれならば「莎韻之鐘」は、どのような形で伝えられてきたのでしょうか?
いささか気になったので、ネットで少し調べてみたところ、少女・莎韻(サヨン)の死は師弟愛の「美談」として、当時の台湾総督府により戦時動員の宣伝材料にされた有名なエピソードであることを知り、大いに驚きました。「莎韻之鐘」=「サヨンの鐘」は流行歌(西条八十作詞、古賀政男作曲)になり、後には映画(清水宏監督、李香蘭主演)までつくられたそうです。光復後、オリジナルの「サヨンの鐘」は行方不明となり、また植民地時代に建てられた「愛国乙女サヨン遭難碑」も碑銘を削り取られ廃棄されていたそうですが、最近になってこうしたサヨンを顕彰する鐘楼や鳥居が再びつくられたわけです。ことの顛末はだいたい把握できたのですが、率直に言って何とも困惑してしまいました。(その後、サヨンの「美談」は当時、台湾で使用されていた国民学校国語教科書にも、教材として収載されていたことを知りました。)
また花東公路の山側のルート(花東縦谷公路)上には、豊田、池上、瑞穂、鹿野など、日本でも見かけそうな地名がいくつかあるのですが、これらはいずれも植民地時代の日本人農業移民村を原型とする集落です。今回私たちは、台東から北へバスで1時間ほどのところにある布農部落(ブヌン族の文化・芸術の伝承・創造と生活向上を目的につくられた集落)に行く途中で、付近にある龍田村という旧移民村に立ち寄ってみました。ここでは龍田国民小学(旧・鹿野尋常高等小学校;1917年創立)の敷地内によく保存された木造家屋が残されているほか、集落のあちこちで日本風の家屋を眼にしましたが、それにしてもこんな山中奥深いところに、原住民部落に近接する形でぽつんと農民たちを移住させた日本の植民地政策とはいったい何だったのかと、現地を訪れてみて、改めて思いをめぐらさずにはいられませんでした。このほか私たちが宿泊した台東郊外・知本温泉の近くにある知本部落は、現在ビラン族(卑南族;パイワン=排湾族の一支族)の青年たちが活発に活動している地域ですが、植民地時代にはやはり日本人農業移民が入植し「旭村」と呼ばれていました。集落をざっと一巡りしてみましたが、この地域で植民地時代の「痕跡」を見ることはなく、かえって何やらほっとした気分になりました。
緑島の旧政治犯監獄「緑洲山荘」の前にそびえ立つ「将軍岩」。
そしてもう一つ、今回どうしても訪れたかったのが、台東市の沖合に浮かぶ緑島です。緑島は面積33平方キロのごく小さな島ですが、かつては政治犯を収容する監獄がおかれていたところです。国民党政権は台湾に逃亡してきて以来、「共産分子」摘発を名目として、台湾民衆に対する検挙、投獄、処刑などの「白色テロル」を大規模に繰り広げました。緑島には1951年にまず「新生訓導所」という政治犯の「思想改造」施設がつくられ、これを引き継いで1972年には、政治犯を集中的に収容する監獄「緑洲山荘」が建設されました。現在「緑洲山荘」は一般に開放され、当時の監獄内部を参観できるほか、礼堂(講堂)には白色テロルと受刑者名誉回復の歴史に関するパネルが展示されており、言わば一種の人権博物館のような性格の施設となっています。
「緑洲山荘」に隣接して人権紀念公園も造営されていますが、何と言っても驚いたのは周辺海岸の景色の美しさです。荒波と強風が海岸線の安山岩質を長年にわたって浸食した結果、「将軍岩」「三峰岩」などと呼ばれる大岩礁がそびえ立つ壮観が「緑洲山荘」の周辺には展開していました。このような美しい風景を目の当たりにしながら監獄へと入っていった受刑者たちの心情はいかなるものだったのでしょうか。将軍岩・三峰岩の解説ボードには、次のように記されていました。「三峰岩是50年代新生訓導所政治犯永遠的記念碑」。
台東地方への旅を無事に終え、その翌週からは中国語の授業に通う日常生活が再びはじまりましたが、新年行事の締めくくりは旧暦1月15日(陽暦2月5日)の元宵節です。春節期間も後半になると、天灯とよばれる新年の願いごとを書き込んだ巨大な提灯を空に舞い上げる行事が、台湾の各地で開催されました。天灯の材質は紙、高さは1メートルほどで、袋を逆さにした形状をしており、下部の開いた口の部分に針金などで燃料が固定されています。燃料に火を付けると火力で内部の空気が膨張するため、熱気球の原理で天灯が上昇する仕掛けになっているわけです。天灯上げの行事は近年イベント化し、とくに元宵節には歌手などの公演と組み合わせて各地で大規模に実施されました。
私たちは例のごとく台湾師範大学の企画した研修ツアーに申し込み、台北から東にバスで1時間ほどの山中にある平渓郷十分で開催された「平渓天灯節」に参加しました。イベント初日の1月29日には陳水扁総統らがやって来て天灯を上げたそうで、私たちの参加した元宵節がその最終日となっていました。この日の昼過ぎまで降り続いていた雨は、幸運にも夕方には上がり、私たちは「国際友人組」という位置づけで、いっせいに100個の天灯を舞い上げました。ビルの灯りやネオンサインのない真っ暗な夜空に上がる天灯は、炎の色で怪しく紅く輝き、幻想的なムードを演出します。季節は違いますが、日本の灯籠流しに似た、どこかものさびしげな美しい光でした。
*十分は植民地時代に日本が平渓炭坑の石炭を輸送するために建設した鉄道の沿線にあり、鄙びた街の雰囲気と巨大な滝(十分瀑布)を見ようと、近年観光客が増えているところです。十分駅近くのみやげ物屋で、受験生向けに「十分・成功」間の切符が販売されているのを見たときは、思わず笑ってしまいました。(よほど買おうかと考えたのですが、思いとどまりました。)
こうして私たちの台湾での「過年」は終わりました。元宵節翌日の2月6日から、大学学科能力測験(日本の大学入試センター試験に相当)がはじまり、新年行事の終了とともに台湾は受験シーズンに突入しています。そして来る3月20日の総統選に向け、与野党両陣営の選挙戦もいよいよラストスパートの時期を迎えることとなりました。
宜蘭県南澳の葉家香サービスエリアで、鳥居をかたどった門を入口にした不思議な鐘楼を見つけました。調べてみると、戦時中に流行歌の題材にもなった「サヨンの鐘」を記念する鐘楼でした。 太魯閣峡谷・九曲洞の風景。 台北の代表的な廟の一つ行天宮は、新年の参拝客で芋の子を洗うような混雑でした。
松山空港(国内線用)の新年の飾りつけ。 台東周辺は果物の産地として有名で、私たちが行った時期には「釈迦」という果物が出回っていました。普通は緑色なのですが、台東では紅色の珍しい品種も見かけました。「蘋果釈迦」と言うそうです(蘋果=リンゴ)。 ブヌン族の文化・芸術の伝承・創造と経済生活の向上を目的につくられた布農部落の入口。財団法人布農文教基金会が運営しています。
台東県鹿野郷の龍田国民小学の敷地内に保存されている木造家屋。 緑洲山荘外壁の監視塔。 知本部落のビラン族青年集会所「バラカン」。
花東海岸公路の景勝地・三仙台。港町・成功の近くにあります。 天灯を上げる準備をしているところです。平渓郷十分にて。 十分の夜空に100個の天灯がいっせいに舞い上がりました。