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Tengyong's Taiwan Reports

No.2 (Oct. 25, 2003)  双十国慶

台北に来て3週間が過ぎました。亜熱帯とは言え、10月下旬ともなると、さすがに日中汗ばむことも少なくなり、格段に過ごしやすくなった感じです。早朝の気温は20度を下回る日もあり、また捷運の車内やデパートなどではしっかりエアコンが効いていて、肌寒く感じることさえあります。台北の街中は、半袖シャツと、ジャンパーやコートが同居する、不思議な光景です。
台湾へはSAL便が使えないとのことで、出発前に船便で日本から送った荷物が、ようやく3日前(22日)に届きました。かれこれ1カ月近くかかったわけで「いくら何でも、もう到着してもらわなければ困るなあ」と思っていた矢先でした。資料が手許にないため、とっくに期限を過ぎた原稿も、執筆に取りかかることができないままでした。(業務連絡です。木村先生、ごめんなさい。m(_ _)m)台湾にいる間は、日本のことは気にしないようにしようと思っていたのですが、なかなかそういうわけにもいかないようです。
閑話休題。前回のレポートをお送りしてからもいろいろなことがあったのですが、それはまた別の機会に改めて整理してお伝えしたいと思います。この間訪れたところで撮った写真は、とりあえず簡単なキャプションを付けて Taiwan's Portraits のページに掲載しておきましたので、関心のある方はご覧下さい。今回は10月10日の双十節(辛亥革命の出発点となった「武昌起義」の記念日)の模様を、少しだけお伝えすることにしましょう。
台湾で双十節は、公的には「国慶紀念日」と呼ばれており、政府はテレビなどを通じ「台湾の誕生日」として、午後6時から総統府前広場で催されるイベントへの参加を呼びかけていました。街中でも「国慶」を祝う飾り付けが施されたり、青天白日旗(中華民国の国旗)がはためくなど、祝賀ムードを盛り上げようとする雰囲気が見られます。なお大陸(中国)で「国慶節」と言えば、中華人民共和国成立の日(10月1日)ですから、「国家の生まれた日」というニュアンスでは共通しているものの、微妙に「国慶」の意味は違うと言えます。ちなみに台湾では、中華民国が成立した1月1日は「開国紀念日」と呼ばれているようです。
この日はまず午前9時から総統府前広場で「国慶大会」と呼ばれる記念式典が開催され、その模様はテレビで実況中継されました。陳水扁総統は式辞の中で、現在自らが最大の政治課題としている憲法改正について「台湾を正常で整備された偉大な民主国家にするために、2300万台湾人民が団結して新しい憲法をつくり出そう」と訴え、最後に「自由民主万歳、三民主義万歳、台湾人民万歳、中華民国万歳」と高唱して式辞を結びました。式典は学生や軍楽隊などのパフォーマンスも披露され、華やかに進められましたが、来年の総統選挙で政権奪回をめざす野党国民党と、国民党との協力関係を回復した宋楚瑜氏が率いる親民党は、式典をボイコットし、南部の都市・嘉義で独自の祝賀行事を開催しました。
*宋楚瑜氏は、前回の総統選挙で国民党を離れて立候補し、陳水扁氏に次いで第2位となった、台湾政界の実力者です。
私たちは自宅のテレビで式典を見た後、午後から総統府前広場に出かけてみましたが、会場では式典の後片づけと、夕方のコンサートの準備が進められていただけだったので、ひとまずその場を離れ、周辺をぶらつくことにしました。午後6時前に戻って来たころには、準備万端整い、ライトアップされた総統府庁舎の姿が夕暮れ空を背景に浮かび上がっていました。ほどなく「相信台湾 鬥陣PARTY」と名づけられた祝賀コンサートが開幕したのですが、意外にもアイドル歌手が続々と登場する若者向けのコンサートで、会場内に設置された2カ所のステージは熱気ムンムンという感じになりました。花火大会があるとも聞いていたのですが、どうも花火が打ち上げられる気配はなく、歩き回って疲れていた私たちは1時間ほどで引き上げました。
後で知ったのですが、民進党政権になってから、政府主催の花火大会「国慶焔火」は台北周辺の都市で開催されることになったそうで、今年は台北から20数キロほど西にある桃園(中正国際空港の所在地)が開催地でした。そのほかの主要都市でも花火大会が開催されており、私たちが帰宅すると、テレビでは競うように打ち上げられる各地の花火の模様を実況していました。
双十節は毎年訪れ、祝賀行事も毎年開催されるわけですが、時間の経過にともなって「国慶紀念日」を迎える台湾社会の雰囲気も微妙に変化しているようです。台北の市街地に掲げられた青天白日旗は、民進党政権の中央政府が不熱心であったため、国民党の馬英九氏が市長をつとめる台北市政府が飾りつけたものだそうです。台北市政府では市民に「一戸一国旗活動」を呼びかけたそうですが、市民の反応はいたって冷淡であったと『中国時報』は伝えています。
考えてみますと、辛亥革命の起こった1911年には台湾はすでに日本に割譲されていたため、中華民国が成立した時点で、台湾は形式的には新国家の一部を構成していなかったことになります。もちろんこれは日本人であるがゆえの発想で、当時の台湾人は当然「祖国」の出来事として中華民国の誕生を見つめていたことでしょう。ただ上の新聞記事などを読むと、双十節は「中華民国の誕生日」であるにしても、台湾の人々にとって「台湾の誕生日」として素直に受け入れられる存在なのだろうか、という疑問もわいてくるのです。歴史的背景を全く知らない人に、なぜ双十節が「台湾の誕生日」なのか、理解してもらえるように話すのは結構骨が折れそうです。日本では国家への帰属意識と郷土への帰属意識がしばしば混同され、一体化させられてしまいがちですが、台湾の人々はどうなのでしょうか。1年間の滞在期間中に、このような問題も見つめていきたいと思っています。
そんなことを考えていたら、昨日(24日)、故蒋介石総統夫人の宋美齢氏が106歳で死去したというニュースが伝わってきました。1897年生まれですから、19世紀から21世紀にかけて3世紀をまたぐ人生を送ったわけで、こんな生命力の強い人もいるのだなと感嘆せずにはいられません。それにしても彼女の死で、第2次世界大戦後、台湾と大陸(中国)の対決の構図がつくられる過程に直接関わった人物は、おそらくいなくなったのではないでしょうか。宋美齢氏の死も、台湾と中国が新たな関係を模索すべき時代に入っているという、一つのシグナルなのでしょうか。
わが家近くの辛亥路にも青天白日旗が掲げられました。 やはり付近の古亭国民小学校前の歩道橋には、独特の紋様を施した祝賀の横断幕(?)が掛けられました。こうした装飾は市内の至るところで見られました。 総統府前広場ではコンサートの準備が着々と進行しています。
街頭にはこのようなのぼり(?)も見られました。 総統府前広場に上るアドバルーン。「中華民国万歳」の文字が青空によく生えていました。 総統府横の台湾銀行です。入口にはやはり祝賀の横断幕が掲げられました。
台湾銀行は夕方にはこのようにイルミネーションが施され、ライトアップされました。 総統府の建物もご覧の通り。夕暮れ空にライトアップされた総統府の姿が浮かび上がります。 コンサートが開幕するころには、続々と若者たちが集まってきました。
広場内に設置されたもう一つのステージの模様です。人気歌手の登場で会場は歓声に包まれました。 会場で配られた小旗です。

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