台北の「600回水曜デモ」

鉄条網を挟んで警官隊と対峙しながら台北の水曜デモは始まりました。
鉄条網を挟んで警官隊と対峙しながら台北の水曜デモは始まりました。
阿媽たちはいまの自らの思いを訴えます。
阿媽たちはいまの自らの思いを訴えます。
集会の最後には、阿媽たちが「日本政府」のボードに向かって水の入った小風船をぶつけ、改めて日本政府に謝罪と補償を要求しました。
集会の最後には、阿媽たちが「日本政府」のボードに向かって水の入った小風船をぶつけ、改めて日本政府に謝罪と補償を要求しました。

「水曜デモ」をご存じだろうか? 旧日本軍「慰安婦」制度の被害者である韓国人ハルモニ(おばあさん)たちが、ソウルの日本大使館前で続けてきた集会形式の日本政府への抗議行動のことである。1992年1月8日、宮沢喜一首相(当時)の訪韓を機にはじまったこの抗議行動は、その名が示すように毎週水曜日に実施され、12年以上にわたってほぼ休むことなく続けられてきた。(私の記憶では1995年1月の阪神淡路大震災のとき、日本社会が遭遇した不幸な状況に配慮して一時中断されたことがある。)

今年(2004年)の3月17日、水曜デモはついに600回を迎えた。そしてこの息の長い抗議行動の節目の日には、韓国だけでなく、台湾、アメリカ、フィリピン、スペイン、ベルギー、ドイツ、日本などで、志を同じくする人びとが「世界同時水曜デモ」を開催した。同時行動をよびかけた韓国挺身隊問題対策協議会の発表によれば、平日の日中にもかかわらず、世界各地で約1000人がこれに参加したとのことである。

1年間の予定で台湾に滞在している私は、縁あって台北で開かれる「水曜デモ」の情報に接することができた。台湾の被害者「阿媽(アマ)」(おばあさん)たちは、1999年7月、日本政府に対して公式謝罪と賠償を求める訴訟を起こしたが、一審での却下・棄却の判決(2002年10月、東京地裁)に続いて、今年2月の控訴審判決(東京高裁)では全面棄却という残念な結果が出ている。一方でお二人の阿媽が昨年7月に訪韓し、韓国の被害者ハルモニたちと会って、互いに励ましあったとも聞いていた。台湾に滞在し「慰安婦」問題に関連する研究を進めていながら、被害者阿媽のおかれている状況にほとんど不案内な私は、せめて台北・水曜デモの模様を記録に収めようと、デジタルカメラをもって抗議行動の現場を訪れることにした。

台北の水曜デモは午前10時30分(日本時間午前11時30分)から、交流協会台北事務所が所在する台北市街北東部の慶城路で開かれた。(交流協会=通称・日台交流協会は、正式な外交関係のない日本・台湾間で事実上の日本政府出先機関の役割を担う財団法人である。)ただし交流協会が入居するビルに近づくことは許されず、警察は付近の路上に通行を遮断する形で鉄条網を置き、この鉄条網を挟み警官隊と対峙する形で集会は始まった。

台北・水曜デモの主催団体は、台北市婦女救援社会福利事業基金会(1988年9月設立。以下、婦援会)というNGOである。婦援会のこれまでの活動については、柴洋子さんが行き届いた紹介をされているので(柴[2000])、詳細はそちらをお読みいただきたいが、「慰安婦」問題に関連する事業としては、1999年に調査結果をまとめた『台湾慰安婦報告』を出版したほか、現在は主として阿媽たちのメンタル・ケアや、そのライフ・ヒストリーを記録、出版する活動に取り組んでいるとのことである。

さて台北での参加者は4名の阿媽を含め20名ほどであった。集会では、まず裁判担当弁護士の王清峰さんが阿媽たちの要求の正当性を訴えたのち、支援者代表として台湾先住民族(原住民)の詩人・莫那能さんがアピールをおこない、続いて台北の政治大学に留学中の青砥祥子さんが日本人女性の立場からのメッセージを述べた。そして阿媽お二人がいまの自らの思いを訴え、原住民の歌手・陳明仁さんが支援の気持ちをこめて歌った。集会の最後には、阿媽たちが「日本政府道歉賠償」(「道歉」は謝罪の意)と書かれたボードに向かって水の入った小風船をぶつけ、改めて日本政府に公式謝罪と補償を要求した。 この日にあわせて世界各地域の被害者・支援者が共同発表した「日本軍「慰安婦」問題解決のための600回水曜デモ宣言書」には、台湾からも若い世代を中心に255名が署名している。

台北の集会は小規模なものではあったが、積極的に取材していたマスコミ各社の報道もあり、「慰安婦」問題が未解決であることを改めて社会にアピールする場になったと言えそうである。二度の敗訴にもかかわらず、阿媽たちはすでに最高裁への上告手続きを済ませ、あくまでも闘い抜く姿勢を貫いている。また婦援会では台湾に「慰安婦」と女性の人権のための資料館をつくろうと動きはじめており、とくに韓国の「日本軍慰安婦歴史館」(被害者ハルモニの協同生活施設「ナヌムの家」が運営)の展示方式は、示唆するところが大きかったそうである。

顧みれば「慰安婦」問題をはじめ、20世紀末になってアジアの各地から噴き出した日本の戦争責任を問う声は、実は戦争責任・植民地支配に対する責任を不問に付してきた日本の戦後社会のあり方をも問いただすものであった。「慰安婦」問題への向き合いかたは、日本の未来社会をどう構想するのかという問題と不可分の関係にある。被害者が老い、「慰安婦」問題に関する報道が少なくなったとしても、この問題が風化することなどあり得ない。日本国家の道義性を問う声はさまざまな形で確実に次世代に引き継がれ、アジアの各地で通奏低音のように響き続けることだろう。今回の集会を見て、改めてそのような思いを強くした。

【参考文献・ホームページ】

※本稿執筆にあたってお話をうかがった婦援会スタッフのョ采兒さんにお礼申し上げます。

(『女性史学』第14号、2004年7月発行)


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