【おことわり】本稿執筆時に「真実・和解のための過去史整理基本法」と翻訳した法律は、正確には「真実・和解のための過去事整理基本法」であることがわかりました(「史」と「事」の朝鮮語音は同じ)。よって法律名を訂正するとともに、略称も「過去事法」で統一しました。(2006/01/16)
今年(二〇〇五年)五月三日、韓国の国会は「真実・和解のための過去事整理基本法」(以下「過去事法」と略す)を賛成多数で可決した。同法案に対する賛成は一五九票、反対は七三票(棄権一八票)。この法案の内容をめぐっては、昨年秋より与党ヨルリン・ウリ党(以下、ウリ党)と第一野党ハンナラ党が対立していたが、最終的に与党側が譲歩した合意案が通過した。しかし合意案に不満な与党議員は多く、ウリ党出席議員一二二名中、賛成したのは五九名にとどまり、野党議員の賛成で法案が通過するという倒錯した事態となった。同法は五月三一日に法律第七五四二号として公布され、本年一二月一日に施行される予定である。
日本で韓国の「過去清算」と言えば、日本の植民地支配による被害を明らかにし、植民地権力に対する協力者を断罪する作業として伝えられる場合が多いようである。しかし実際のところ過去清算の射程は、植民地支配に関わる諸問題にとどまるのではなく、むしろ解放後の朝鮮戦争期や権威主義政権(李承晩・朴正煕・全斗煥政権)の時期に発生した暴力・虐殺・人権蹂躙などの事件が、より積極的に問題化されてきた。従来、過去清算関連の法律は個別の案件ごとに「特別法」の形で立法化されてきたが、過去事法は植民地時代から権威主義政権期に至るまで、権力機関がおこなったさまざまな民衆弾圧・虐殺事件を包括的に取り上げる「基本法」となっている点で画期的である。もちろん過去事法制定を推進してきたウリ党議員が多数反対にまわったところに見られるように、内容自体には不備な点があり、この法律の改正を目指す反対議員の動きが早くも伝えられている。しかしこうした包括的・根本的な過去清算の試みは世界史上、例を見ないものであり、韓国社会の地殻変動を象徴する動きと言えるだろう。
過去事法の内容は本稿の最後で改めて紹介することにし、ここではまず韓国社会において過去清算がもつ意味とその内容を明らかにしたうえで、これが具体的にどのような歴史的過程を経て進められてきたのかを概観することにしたい。(過去清算の歴史的過程については、李來榮・朴恩弘:二〇〇四、の的確な整理によるところが大きい。この点とくに付記しておきたい。)
法 律 名 | 制定日 | 法律番号 | 改 正 |
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光州民主化運動関連者補償等に関する法律 | 1990.8.6 | 第4266号 | 最終改正2004.3.27 |
5・18民主化運動等に関する特別法 | 1995.12.21 | 第5029号 | |
居昌事件等関連者の名誉回復に関する特別措置法 | 1996.1.5 | 第5148号 | |
済州4・3事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法 | 2000.1.12 | 第6117号 | |
民主化運動関連者名誉回復および補償等に関する法律 | 2000.1.12 | 第6123号 | 最終改正2004.3.27 |
疑問死真相糾明に関する特別法 | 2000.1.15 | 第6170号 | 最終改正2002.12.5 |
国家人権委員会法 | 2001.5.24 | 第6481号 | 最終改正2005.3.31 |
民主化運動記念事業会法 | 2001.7.24 | 第6495号 | |
三清教育被害者の名誉回復および補償に関する法律 | 2004.1.29 | 第7121号 | |
特殊任務遂行者補償に関する法律 | 2004.1.29 | 第7122号 | |
特殊任務遂行者支援に関する法律 | 2004.1.29 | 第7160号 | |
日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法 | 2004.3.5 | 第7174号 | |
老斤里事件犠牲者審査および名誉回復に関する特別法 | 2004.3.5 | 第7175号 | |
東学農民革命参与者等の名誉回復に関する特別法 | 2004.3.5 | 第7177号 | |
日帝強占下親日反民族行為真相糾明に関する特別法 | 2004.3.22 | 第7203号 | |
日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法 | 2005.1.27 | 第7361号 | 全文改正 |
真実・和解のための過去事整理基本法 | 2005.5.31 | 第7542号 |
盧武鉉韓国大統領が包括的な過去清算の推進を表明したのは、昨年(二〇〇四年)八月一五日の光復節慶祝辞においてであった。大統領は「歪曲された歴史を正さなければならず」「真相をきちんと明らかにして歴史の教訓としなければなりません」と述べたうえで、「過ぎた歴史で争点になってきた事案を、包括的に取り扱う真相糾明特別委員会を国会内につくることを提案」した。そして真相糾明は「反民族親日行為」だけでなく「過去、国家権力が犯した人権侵害と不法行為」をも対象にしなければならないと明言したのである。過去事法は盧武鉉大統領のこうした意思を立法化したものであり、これまで韓国政府が積み重ねてきた過去清算への取り組みを、ひとまず総合する性格をもっていると言える。
現在の韓国社会において、過去清算とはどのような意味をもっているのだろうか。一例として、歴史研究者の安秉旭の見解を紹介しておこう。
跛行的に展開した歴史の過程において、多くの否定的な遺産が形成、蓄積され、虐殺と弾圧、人権蹂躙の事実は隠されたまま、また別の犠牲と抑圧を引き起こしてきた。犠牲者たちは名誉を傷つけられ、補償を受ける権利を奪われてきた。一方で、日帝植民地支配と南韓の独裁政権に協力し、そのような統治を遂行した人びと、そのような統治のためにつくられた制度と手段は、歴史が変わっても克服されず、韓国社会の民主的発展を阻む障害物となってきた。したがってその遺産がこれ以上否定的な影響を及ぼしたり、社会葛藤の要因とならないようにしなければならないという社会的要求から「過去清算」問題が提起された。(安秉旭:二〇〇四、二二〜二三頁)
ここで過去清算とは「韓国社会の民主的発展を阻む障害物」たる過去の「遺産」――具体的には「日帝植民地支配と南韓の独裁政権」の支持者や制度・手段――を克服する作業と把握されている。過去清算が何よりも韓国社会の民主主義を発展させるための取り組みと意識されている点に、とくに注目しておきたいと思う。
では過去清算とは、具体的に何をおこなうことなのだろうか。李來榮と朴恩弘は、社会学者・金東椿による次のような整理を紹介している(李來榮・朴恩弘:二〇〇四、二八〜二九頁)。
このうち過去清算の出発点であり最も基本となるのは、言うまでもなく、1の真相糾明である。韓国において、国家機関が遂行した民衆弾圧・虐殺、人権蹂躙の事実は長く隠蔽されてきたため、さまざまな事件の原因、被害の実態、責任の所在などを解明することが、あらゆる作業に先行しなければならないのである。これまでの過去清算関係特別法の内容も、多くは調査委員会を設置して真相糾明にあたらせることを主眼としており、この点は今回制定された過去事法も同様である。
その他の項目のうち、3については物質的補償や追悼・記念事業などの形で、比較的順調に実施されてきた。しかし、2の司法的処罰は実際にはきわめて困難であり、ほとんどは棚上げにされた状態にある。4・5についてもこの間、さまざまな措置がとられてはきたものの、いまだ清算への道のりは遠いと言わざるを得ない。最近暴露されたように、金泳三文民政権成立以降も、国家情報院(旧・国家安全企画部)が政財界・マスコミ関係者などへの盗聴を続けていた事実は、権威主義政治の象徴たる諜報機関の改革が容易ではないことを証明する格好となった。
さて先に、過去清算は韓国社会の民主主義を発展させるための取り組みであると指摘したが、過去清算のこうした性格を決定づけたのは、権威主義政治体制を終結させた一九八七年の六月民衆抗争であった。周知のように六月抗争は、全斗煥大統領が民主化勢力の大統領直接選挙制導入要求を拒絶し、盟友・盧泰愚民主正義党(民正党)代表に政権を「禅譲」しようとしたところからはじまった。言い換えれば六月抗争は、一九八〇年の光州民主化運動を弾圧し、多数の市民の虐殺を通じて政権を掌握した執権政治勢力のなかで、政権がたらい回しされることに抗議した民衆運動だったのである。
六月抗争を沈静化するために発表された六・二九民主化宣言で、民主化勢力は大統領直選制を勝ち取ったが、八七年一二月の大統領選挙では、野党候補の分立により民正党の盧泰愚候補が当選する結果となった。しかし選挙に勝利したとは言え、盧泰愚大統領が民主化された国家の為政者としての正統性を確保しようとすれば、六月抗争の発端となった光州問題の解決にすすんで取り組むほかなかった。こうして過去清算は、まず光州民主化運動とその弾圧に対する再評価を糸口に、政府自らが推進しなければならない政治課題として登場することになったのである。
全斗煥政権を引き継いだ盧泰愚政権は、前政権との差別化をはかるため、光州問題の清算に着手しなければならなかった。しかし盧泰愚政権の基盤は、全斗煥政権のそれ――ハナ会(1)を中心に形成された「新軍部」とよばれる政治勢力――を継承するものであり、ほかならぬ盧泰愚大統領自身が全斗煥前大統領と行動をともにしてきた盟友として、光州市民に対する虐殺の責任を免れない立場にあった。
したがって盧泰愚政権の清算方針は、自らに累が及ばない範囲で限定的にこれを実施しようというものであった。政治改革と過去清算の推進を旗印に、盧泰愚が当選直後に設置した民主和合推進委員会は政権発足にあわせて建議案を提出し、「光州事態」を「民主化運動の一環」と再規定して慰霊事業や死傷者に対する補償を推進する一方、真相糾明作業は速やかに終結させ、責任者不処罰の方針で「和合」を実現するよう勧告した。そしてこの建議案にもとづき、政府は一九八八年四月、遺族に対する物質的補償の実施を決定したのである。
しかし「先に真相糾明・責任者処罰、後に補償・記念事業」の原則を提起していた光州抗争の遺族・負傷者や市民団体は、和合と安定の名のもとに真相糾明と責任者処罰を曖昧にしようとする政府の方針に反対し、徹底調査を要求する運動を展開した。時を同じくして、いわゆるセマウル本部非理事件(2)で全斗煥一族の不正蓄財が明らかになり、八八年四月二六日の総選挙で与党民正党は過半数議席を割り込む敗北を喫した。多数派となった野党の要求におされ、国会は八八年五月に「光州特委」「五共(3)特委」を設置し、同年一一月からはじまったいわゆる五共聴聞会を通じて、新軍部政権の不法な政権掌握過程と不正・腐敗が印象づけられることになった。世論におされた検察は「五共非理特別捜査部」を設置して、新軍部関係者四七名を拘束し、また二九名を不拘束起訴処分としたのである。
追いつめられた盧泰愚政権は、この「五共政局」を乗り切るため、全斗煥前大統領をスケープゴートにして危機を回避しようとした。一九八八年一一月、全斗煥は一族の不正蓄財に対する謝罪文を発表し、以後、江原道山奥の白潭寺で隠遁生活に追いやられ、翌八九年一二月三一日には五共聴聞会の証人喚問を受け、国会で証言させられるに至った。
全斗煥国会喚問終了を契機として盧泰愚政権は攻勢に転じた。喚問直後の九〇年一月三日、盧泰愚大統領は特別談話を発表して「五共清算」の終結を宣言し、「光州特委」「五共特委」は解散させられた。そして一月二二日には野党三党のうち、金泳三率いる統一民主党(民主党)と金鍾泌の新民主共和党(共和党)が、これまで対立してきた与党民正党と合同して民主自由党(民自党)を結成し、巨大与党勢力が形成された。光州を中心に全羅道を支持基盤とする金大中の平和民主党(平民党)は、孤立を余儀なくされたのである。
盧泰愚政権は国会での数的優位を背景として、九〇年七月一四日に「光州補償法」(正式名称は「光州民主化運動関連者補償等に関する法律」)などを通過させ、補償金支給を開始することで光州問題の清算をはかろうとした。こうして同年八月より犠牲者・負傷者に対する補償金が支給されはじめたが、虐殺の責任は問われないまま封鎖されることとなった。以後、民主化勢力が三党野合の結果としての巨大与党出現に批判の矛先を集中させたこともあり、過去清算に対する追求は一時的に沈滞していった。
一九九二年一二月の大統領選挙では、与党民自党の金泳三候補が勝利し、翌九三年二月に金泳三政権が発足した。韓国では三二年ぶりの文民出身大統領の誕生であった。金泳三大統領は就任直後より、軍部に対する文民統制の確立に着手した。全斗煥・盧泰愚両政権を支えた新軍部勢力の中核組織であるハナ会が、九三年五月に解体されたのをはじめ、新軍部勢力出身者は要職から排除され、次第に影響力を失っていった。
しかし金泳三大統領による新軍部勢力の排除は、あくまでも政権基盤のなかでのヘゲモニー確保を目的としており、政権基盤そのものを動揺させるような過去清算への取り組みには消極的であった。金泳三は大統領就任後、最初の「光州」記念日を目前に控えた九三年五月一三日に談話文を発表し、そこで「五・一八光州民主化運動」という語を使用して抗争を積極的に評価したうえで、記念事業(記念日制定、望月洞墓地聖域化、記念公園・記念塔建設など)や被害者の慰労・支援事業(死傷者追加申告、負傷者医療支援、政治犯の赦免・復権など)の実施計画を発表した。しかし遺族や市民運動団体などが要求していた真相糾明・責任者処罰の要求は拒絶し、清算の基本姿勢が盧泰愚政権と変わらないことも明らかとなった。金泳三政権の微温的な清算方針に反発した市民運動団体は、翌九四年五月、全斗煥・盧泰愚の両大統領経験者を含む三五名を、一二・一二粛軍クーデター(4)、光州虐殺の責任者として告発した。だが検察は、一二・一二クーデターについて軍事反乱の容疑を認めながらも、「成功したクーデターは処罰できない」として、九五年七月不起訴処分としたのである。
しかし政権に対する支持率急落は、金泳三大統領に過去清算方針の見直しを迫ることになった。政権発足当初九〇パーセント近くあった支持率は、二年後の九五年四月には四五パーセントにまで落ち込み、同年六月の地方選挙で与党民自党は惨敗していた。同年一〇月に盧泰愚前大統領の不正蓄財が暴露され、翌一一月に収賄容疑で拘束されると、金泳三大統領は失地回復のために「歴史立て直し運動(ヨクサ・パロ・セウギ・ウンドン)」を提唱し、「光州」虐殺関連者処罰の意向を示すなど、従来の責任者不処罰方針を転換した。
九五年一二月五日に民自党は否定的イメージを払拭しようと「新韓国党」に改称したが、その前々日には、全斗煥元大統領が一二・一二クーデターの反乱首謀者容疑で逮捕されていた。しかし一九八〇年の事件に対し内乱罪での処罰はすでに時効を迎えていたため、国会は一二月一九日に「五・一八民主化運動等に関する特別法」などを可決して、一二・一二クーデターと光州虐殺に対する公訴時効を停止した。両大統領経験者をはじめ光州虐殺関連者への司法処罰の道が開かれ、「成功したクーデターも処罰できる」ことになったのである。こうして大法院は九七年四月、全斗煥に無期懲役、盧泰愚に懲役一七年を宣告するに至った。ただし彼らは同年一二月、大統領により赦免、釈放されており、司法処罰は結局中断されたのである。
「光州」清算問題はこうして一段落することになった。しかし清算を目指す過程で歴史の見直しが進むと、光州抗争以外の、解放後のさまざまな民衆弾圧・人権蹂躙事件に対する関心が、韓国社会に改めて広く喚起されることになった。市民運動団体はすでに包括的・根本的な過去清算に向けて取り組みをはじめており、一九九六年一月には、朝鮮戦争期の代表的な民間人虐殺事件である居昌事件(5)犠牲者に対する特別法が制定されていた。
一九九七年一二月の大統領選挙に勝利して誕生した金大中政権は、大統領本人が軍事政権から迫害を受け続けた被害者であるにもかかわらず、政権初期には過去清算問題に手をつけることができなかった。その理由の一つは、前政権末期に発生したいわゆるIMF経済危機の克服を政策の最優先課題としなければならなかったからであり、いま一つは政権奪取のため、朴正煕政権で中央情報部(KCIA)部長、首相などの要職を歴任した金鍾泌と協力関係を結んでいたからであった。だが経済危機が一段落し、金鍾泌との関係が冷却化した一九九九年後半ごろから、金大中政権は過去清算事業に取り組みはじめた。とくに九九年九月二九日、アメリカのAP通信が老斤里事件(6)についてスクープ報道したことを契機に、朝鮮戦争期の民間人虐殺事件に対する一般の関心は一気に高まった。
一九九九年一二月一六日には済州道民の長年の宿願であった「四・三特別法」(済州四・三事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法)が国会を通過し、翌二〇〇〇年一月一二日に公布された。一九四八年四月三日に起こった南朝鮮労働党済州島委員会の武装蜂起は、南朝鮮単独政府樹立=南北分断への反対と、警察・右翼青年団体による白色テロルへの抵抗を目的とするものであったが、警察・軍などによる抗争鎮圧の過程で約三万名の済州道民が犠牲となっていた。しかし歴代の政権は、この済州四・三事件の犠牲者を「共産暴徒」と決めつけ、国家による民間人虐殺の責任を認めようとしなかった。一九八七年の六月抗争以後、済州道の社会運動団体は四・三事件の真相糾明や犧牲者の名誉回復を求める運動をねばり強く展開してきたが、金大中政権に至って、ついにその解決のための特別法が制定されたのである。(四・三特別法については、徐勝:二〇〇四、文京洙:二〇〇五、を参照。)
この特別法は、事件の発生に共産主義者の関与が明白であるにもかかわらず、国家による民間人虐殺の責任を国家自らが再検証する方針を打ち出した点で、画期的な意味をもっていた。特別法にもとづいて設置された「済州四・三事件真相糾明および犠牲者名誉回復委員会」は二〇〇三年一〇月一五日に最終報告書を大統領に提出し、その勧告をふまえて盧武鉉大統領は同年一〇月三一日、過去の国家権力の過ちを認め、犠牲者遺族と済州道民に対して公式謝罪した。反共国家として出発した韓国の最高権力者が、冷戦イデオロギーを越え、国家樹立の正統性に関わる事件への加害責任を認めた歴史的意義はきわめて大きい。
また「四・三特別法」とともに二〇〇〇年一月一二日には「民主化運動関連者名誉回復および補償等に関する法律」が、三日後の一月一五日には「疑問死真相糾明に関する特別法」も公布された。前者は、民主化運動関連の死亡者・負傷者・有罪判決者などへの補償と名誉回復を目的としていたが、対象時期を一九六九年八月七日以降とし、国家保安法違反者は除外されるなどの限定条件が付されていた。にもかかわらず、二〇〇一年一二月三一日までに一〇八〇七名の申請が受理され、補償と名誉回復の措置がとられた。この法律は二〇〇四年三月に改正され、同年末まで追加申請が受け付けられた。
一方、後者にもとづき設置された疑問死真相糾明委員会では、民主化運動に関連した疑問死事件八二件の真相調査を進めようとしたが、少数の調査人員、制限された権限などの制約に加え、国家情報院・国軍機務司令部・警察など調査対象機関の非協力、妨害により、調査は思うように捗らなかった。結局、委員会設置期限満了の二〇〇二年九月の時点では、一九件を疑問死事件と認定するにとどまり、三三件は棄却、三〇件は調査不能と決定せざるを得なかった。その後、調査継続を求める世論の後押しを受け、二〇〇二年一二月の特別法改正により委員会の調査は再開されたものの、保守勢力から「北朝鮮のスパイを民主化運動の貢献者と認めた」などの猛烈な非難を受け、活動は困難をきわめた。二〇〇四年一二月に委員会は最終的に解散し、その活動は「過去事法」により設置される新しい委員会へと引き継がれることとなった。
その他、二〇〇一年五月には国家人権委員会法が制定され、同年一一月に独立した国家機構として国家人権委員会が発足した。委員会自身の捜査権は制限され、与えられた権限は告発や制度改善勧告のレベルにとどまっているが、人権侵害に対する再発防止のための予防的制度として、その役割が期待されている。
二〇〇三年二月に成立した盧武鉉政権は、権威主義政権に連なる政治勢力を排除した、初めての本格的な改革派政権と言える。金大中政権期に定着した過去清算への取り組みは、盧武鉉政権に至って不可逆の政治方針となり、韓国近現代史全体の包括的な見直しが進むことになった。
二〇〇四年の一月から三月にかけて、韓国の国会は次々と個別の案件に関わる特別法を通過させていった。まず解放前の民族運動や植民地統治に関わるものとして、東学農民革命、強制動員、親日反民族行為などに関する特別法が制定された。次に権威主義政権期の、三清教育(7)被害者、特殊任務遂行者に対する補償法も制定されている。金大中政権期に大きな衝撃をもって報道された、朝鮮戦争期の米軍民間人虐殺事件=老斤里事件についても特別法が制定された。
しかしこのような過去清算の立法化が進行していた時期は、盧武鉉政権が危機に瀕していた時期でもあった。権威主義政権期以来の既得権に固執する最大野党ハンナラ党(一九九七年一一月に新韓国党から改称)と与党から野党に転じた民主党は、盧武鉉政権と激しく対立し、二〇〇四年三月一二日、国会は大統領弾劾追訴案を可決したのである。だが巨大野党勢力の横暴は市民の厳しい批判を受け、四月一五日の総選挙では少数与党であったウリ党が議席を三倍以上伸ばし、過半数を制して勝利した。韓国の有権者は守旧派の価値観が支配する政治風土への回帰を、明確に拒否したのである。五月一四日に憲法裁判所は弾劾追訴案を棄却し、政権基盤を固めた盧武鉉は大統領職務への復帰を果たした。
こうして危機を乗り越えた盧武鉉大統領は、冒頭述べたように、二〇〇四年八月の光復節で包括的な過去清算を目指す方針を打ち出し、今年五月に過去事法を成立させたのである。また二〇〇四年三月に公布されながら内容の不備を指摘され、事実上施行を凍結されていた「日帝強占下親日反民族行為真相糾明に関する特別法」は、二〇〇五年一月二七日に「親日」の二字をとって「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」として全文改正された。改正により真相糾明にあたる委員会の権限が強化されるとともに、調査の範囲が拡大され、日本の植民地時代に関東軍中尉であった朴正煕元大統領も調査の対象となる可能性が出てきた。真相糾明委員会は五月三一日に設置され、委員長には日本でも著名な歴史家の姜萬吉高麗大名誉教授が就任した。
盧武鉉大統領の方針を受け、国家の関係各機関にも調査委員会が設置された。国家情報院の「過去事件真実糾明を通じた発展委員会」は二〇〇五年五月に、金大中拉致事件(一九七三年)、人民革命党事件・民青学連事件(8)(一九七四年)、大韓航空機爆破事件(一九八七年)など七件の調査をおこなうと発表し、注目を集めている。また国防部も二〇〇五年五月に「過去事真相糾明委員会」を発足させている。
さて過去事法の目的は、第一条で次のように定められている。
抗日独立運動、反民主的または反人権的行為による人権蹂躙と暴力・虐殺・疑問死事件などを調査し、歪曲されたり隠蔽された真実を明らかにすることによって、民族の正統性を確立し、過去との和解を通じて未来へ進むための国民統合に寄与することを目的とする。
「民族の正統性」確立や「国民統合」への寄与を目的に掲げている点には、率直に言って違和感がないわけではないが、法律はあくまでも国家機関の定める規範であり、またこの法律が保守勢力とのせめぎ合いのなかで制定されたという事情を勘案すべきであろう。むしろここでは「過去との和解を通じて未来へ進む」というこの法の精神を評価したいと思う。
そして具体的な真相糾明の範囲は、第二条で以下のように規定された。
このうちとくに問題視されているのが、野党ハンナラ党の主張により挿入された第五の項目である。「大韓民国の正統性を否定したり、大韓民国を敵対視する勢力」という名目で、かつての民主化運動が誹謗・中傷される可能性が危惧されたのであり、与党ウリ党から多数の反対者が出たのもこの項目によるところが大きかった。一方、第二の項目で「海外同胞史」が対象に加えられた点はとくに注目され、過去の在日韓国人に対する政治的弾圧事件も調査対象として取り上げられることが期待される。
そして調査対象の選定と「真相決定」(=事実の確定)は、独立機関として設置される「真実・和解のための過去事整理委員会」が遂行することとなった。調査期間はひとまず四年と定められているが、二年以内の延長も可能となっている。
過去事法の成立により、韓国の過去清算はいよいよ正念場を迎えた。しかし日本では一部マスコミが「日帝強占下親日反民族行為真相糾明に関する特別法」を「反日法」などと歪曲して報道する姿勢に象徴されるように、その意義が正当に伝えられているとは言えない。韓国で「親日派」清算がいまだ重要な課題と認識されているのは、もちろん植民地支配に対する協力自体も問題ではあるが、それ以上に、分断と冷戦構造がもたらしたイデオロギー対立のなかで、解放後も「親日派」の系譜を引き継ぐ政治勢力が、権威主義政権の中核勢力として権力を掌握し、民衆に対する暴力・虐殺・人権蹂躙の主体となってきたからである。冒頭述べたように、過去清算の目的が韓国社会の民主主義を発展させるところにあることを看過してはならない。
したがって過去清算は、たんなる被害者の立場からの告発にとどまってはいない。日本でも翻訳され高い評価を得た『韓洪九の韓国現代史』の著者韓洪九が、ベトナム戦争における韓国軍の民間人虐殺事件の真相糾明に取り組んでいるように、加害者としての自らの歴史も過去清算の射程におかれているのである(韓洪九:二〇〇五)。玄武岩の適切な要約にしたがえば、韓国の過去清算は「単に日本に対するナショナリズムや、あるいは国家権力に対する政治的反応に収斂されるのではない。それは、被害と加害を問わず、韓国民自らがかかわった民衆に対する権力型暴力への総体的な見直しであるといえよう」(玄武岩:二〇〇五、二一八〜二一九頁)。
繰り返し指摘してきたように、過去事法には不備な点も残されている。またこれまでの過去清算の過程で、責任者処罰が事実上実行されていないことに対する不満も、根強く存在しているようである。さらに日本の治安維持法を継承し、反共国家体制の「基本法」として民主化運動の弾圧に猛威を振るってきた国家保安法は、盧武鉉政権がその廃止を公約しながらも、野党の反対でいまだ実現には至っていない。私たちが韓国の過去清算の歴史から学ぶべき点は多いが、その将来はいまだ楽観視できない状況なのである。
そして昨今、日本の右派勢力の一部は、守勢にまわった韓国の守旧勢力との連携を模索しつつ、過去清算に象徴される韓国での改革のうねりを「左傾化」として宣伝し、攻撃しはじめている。そのような意味で韓国の過去清算は、東アジアにおける和解と平和の実現を阻もうとする勢力との対決を余儀なくされているのである。こうしたなかで私たちが韓国の過去清算の意義を正当に理解できないまま傍観者の位置にとどまるならば、それはたんなる知的怠慢にとどまらず、東アジアの平和と民主主義を築くうえでのパートナーを失うことになりかねない。
韓国の過去清算は、まさしく「日本」にとっての「現在」の問題として取り組むべき課題を私たちに投げかけている。そのことに私たちはもっと目を凝らすべきではなかろうか。
*『東亜日報』『中央日報』『朝鮮日報』は日本語サイトあり。
(1)ハナ会 一九六二年、全斗煥・盧泰愚・鄭鎬溶など慶尚道出身の陸軍士官学校一一期生を中心につくられた軍部内の私的グループ。維新体制下では朴正煕大統領の庇護のもとに、軍の中堅幹部職を独占した。一九七九年、朴正煕大統領殺害後、一二・一二粛軍クーデターで軍の実権を掌握し、翌八〇年には五・一七クーデターで政敵を逮捕、光州民主化運動を弾圧して、全斗煥政権の中心勢力となった。
(2)セマウル本部非理事件 一九八八年三月、全敬煥セマウル運動中央本部会長(全斗煥前大統領の実兄)の拘束にはじまり、同年一一月までに全斗煥の親姻族五名が七八億ウォンの横領嫌疑で検察に拘束された事件。
(3)第五共和国 一九八〇年一〇月(大統領間接選挙、任期七年、再選禁止を骨子とする憲法改正)から一九八八年二月(盧泰愚大統領就任)までの期間。全斗煥政権の時期にほぼ一致する。
(4)一二・一二粛軍クーデター 一九七九年一二月一二日、全斗煥・盧泰愚などの新軍部勢力が起こした軍事クーデター。朴正煕大統領殺害後、合同捜査本部長をつとめていた全斗煥保安司令官と戒厳司令官の鄭昇和参謀総長は捜査方針などをめぐって対立し、全斗煥を中心とする新軍部勢力は軍の主導権を掌握するため、鄭昇和を大統領暗殺による内乱幇助の容疑で逮捕した。以後、新軍部勢力は第五共和国の中心勢力として登場することになった。
(5)居昌良民虐殺事件 一九五一年二月、慶尚南道居昌郡神院面一帯で繰り広げられた民間人大量虐殺事件。当時、智異山を根拠地にパルチザン部隊が活動しており、住民とパルチザンの内通を疑った韓国軍部隊が住民六六三名を虐殺した。同年三月二九日に国会で事件が暴露され、軍法会議は責任者らに懲役刑を宣告したものの、のちに大統領特赦で全員釈放された。
(6)老斤里事件 一九五〇年七月、朝鮮戦争初期に退却中の米軍が、住民を避難させる過程で虐殺した事件。七月二六日、米軍は住民を黄澗面老斤里の京釜線側に移動させた後に銃撃し、三〇〇名以上が死亡した。遺族らは一九九七年八月、国家に対し損害賠償を請求したが棄却されている。しかしこの事件は一九九九年AP通信の報道で広く知られることとなり、アメリカ政府は真相調査を実施、二〇〇一年一月一三日にクリントン大統領が遺憾の意を表明した。
(7)三清教育隊 一九八〇年、五・一七クーデターによる非常戒厳宣布直後、国家保衛非常対策委員会(国保委)が社会浄化策の一環として軍部隊内に設置した機関。八月四日、国保委は「社会悪一掃のための特別措置」を発表し、暴力団と社会風土紊乱事犯に対する純化教育・勤労奉仕・軍事裁判の実施を宣言した。以後、一九八一年一月までに約六万名が逮捕され、うち約四万名が「人間改造」を名目とする苛酷な訓練に従事させられた。一九八八年の国防部の発表によれば、五四名が死亡したという。
(8)人民革命党・民青学連事件 一九七四年四月、「人民革命党」などの指示を受けた「全国民主青年学生総連盟」(略称「民青学連」)が政府転覆を計画したという理由で、反政府運動関係者が拘束、処罰された事件。一九七三年八月の金大中拉致事件で高まった反維新体制の世論を背景に、一〇月のソウル大生のデモ以来、全国的に反独裁・反政府運動が広がった。知識人・宗教人・野党政治家などが民主憲政回復と共和党政府の人権弾圧を糾弾する改憲署名運動を繰り広げたのに対し、朴正煕大統領は一九七四年一月八日に緊急措置一号・二号を公布して改憲に関わる議論を禁じた。さらに「民青学連」なる学生運動指導組織の存在を宣伝し、四月三日の緊急措置四号で民青学連への関与が禁止され、違反者への最高刑を死刑と定めた。民青学連は実態の曖昧な「人民革命党」などの操縦を受けているとして、一千名以上が連行され、このうち一八〇名が軍法会議に回付された。大法院は一九七五年四月八日、人民革命党系とされた八名の死刑判決を確定し、彼らは翌日処刑された。その他の被疑者も無期懲役、懲役一五〜二〇年の重刑に処されたが(懲役二〇年の日本人二名を含む)、一九七五年二月一五日の大統領特別措置により大部分は釈放された。
(『情況』第3期第6巻第9号、2005年10月)