序にかえて

――済州島四・三事件と私たち――

 

「済州島四・三事件」とは何か

 一九四八年四月三日。分断国家樹立の危機せまる朝鮮で、東アジア現代史最大の悲劇の一つが幕を上げた。
 この日の未明、朝鮮の南端・済州島では、左派勢力に率いられた「武装自衛隊」が、警察支署や右翼青年団の宿舎などをいっせいに襲撃する武装蜂起が発生した。いわゆる「済州島四・三事件」の勃発である。
  「済州島四・三事件」とは、一九四八年四月三日にはじまる済州島民衆の抗争と、これを理由に軍・警察・右翼青年団などが引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。数万名にのぼる犠牲者を出したこの事件は、いったいどのような歴史的背景のもとに発生したのだろうか。
 日本の植民地支配から解放された直後の朝鮮では、民衆による自主独立国家建設の動きが急速に拡散していた。日本敗戦の日=一九四五年八月一五日に、呂運亨を中心に組織された朝鮮建国準備委員会(略称・建準)は、民族解放運動勢力の統一戦線体として、事実上、朝鮮の行政と治安を担う存在となった。全国各地に一四五の建準支部がつくられ、これらは朝鮮民衆による地方自治機関の役割を果たしていた。
 建準に集結した政治勢力は、同年九月六日に、朝鮮人民共和国の樹立を宣言して建準の組織を解消し、各地の支部は人民委員会に再編成された。しかし九月八日に南朝鮮に進駐してきた米軍は、人民委員会を左翼組織と決めつけ、やがて全面的に弾圧するに至った。一方で米軍政は、民衆運動勢力を抑圧するために右翼や親日派勢力と結びつき、これを統治基盤の確立に利用しようとした。
 済州島でも一九四五年九月一〇日に建準支部が創設され、同月二三日、これは済州島人民委員会に改編された。植民地期の民族解放運動勢力を中核とする済州島人民委員会は、強力な自治機関として民衆の圧倒的支持を受けていたが、それは済州共同体社会の中で、きわだった階級対立・イデオロギー対立が存在しなかったという事情によるところが大きいと思われる。また他地域と違って、一九四七年初めの時点までは、米軍政との間に直接的な抗争も発生しなかった。
 ところが一九四七年三月一日(すなわち三・一独立運動の二八周年記念日)、統一された自主独立国家の樹立を訴える民衆のデモに警察が発砲し、六名が死亡する事件が起こった。この事件を契機に、米軍政は「陸地」――朝鮮半島本土を済州島の人々はこう呼ぶ――から警察官や右翼青年団を済州島に送り込み、彼らの執拗な迫害を避けようと、多くの島民が漢拏山中に身を隠したり、島外に脱出する事態となった。年が明け一九四八年に入ると、済州島には、民衆が白色テロルから身を守るためには、自ら立ち上がらざるを得ないと思い詰める、緊迫した雰囲気が漂いはじめた。四月三日の武装蜂起は、以上のような背景のもとに決行されたものであった。
 この日の蜂起は、解放後の南朝鮮各地で繰り広げられていた反米武装闘争と比較して、とりたてて規模が大きいものではなかった。しかし同年五月一〇日に実施された、南朝鮮単独政府樹立のための代議員選挙が、済州島の二選挙区では民衆の抵抗によって、投票率が五〇パーセントに満たず無効となると、米軍政は国防警備隊(のちの韓国軍)を本格的に動員し、苛酷な鎮圧作戦に乗り出した。
 済州島民衆に対する強硬弾圧の方針は、この年の八月一五日に成立した大韓民国政府に引き継がれることになった。李承晩・初代大統領のもとで、一一月には法的根拠の疑わしい戒厳令が済州島一円に宣布される一方、いわゆる「焦土化作戦」が展開され、この美しい島で集中的な殺戮が繰り広げられた。一九四九年の春には武装遊撃隊はほぼ壊滅状態となり、大規模な「討伐作戦」は、ひとまず終わりを告げた。しかし国家権力による島民の虐殺はなおも続き、とくに一九五〇年六月の朝鮮戦争勃発後には、かつて漢拏山から投降した人々が予備検束されたうえ、殺害される事件がしばしば起こった。その後、一九五三年には対遊撃戦特殊部隊が投入され、ゲリラ残余勢力をほぼ根こそぎにし、翌一九五四年九月二一日、漢拏山禁足地域の全面開放が宣布されて、六年六カ月に及んだ流血事態は、ようやく幕を下ろすことになった。
 殺戮を正当化するため、「討伐隊」による犠牲者には、一様に「アカ」のレッテルが貼られた。反共イデオロギーを自らの権力基盤とする歴代独裁政権のもとで、生存者たちは「アカ」の嫌疑がかけられることを恐れ、長く沈黙せざるを得なかった。しかし一九八〇年代末、韓国社会の民主化のうねりとともに、彼らはようやく重い口を開き、みずからの体験を語りはじめた。とくにここ数年にわたって実施された済州道議会の調査などの結果、約一万五千名に上る「四・三」犠牲者の実名が示され、今となっては氏名を把握できない死亡者をも勘案すれば、犠牲者総数は少なくとも三万人は下らないだろうと推測されている。同じく済州道議会の調査によれば、犠牲者の八割以上は軍・警察・右翼青年団など「討伐隊」の手で殺害された人々であり、そしてその多くは武装抗争と直接関わりをもっていないことが、もはや明白となった。「四・三事件」の実像は、こうして次第に明らかになったのである。
  だが受難の体験を語る島民は、全体から見れば、いまだごく一部に過ぎない。多くの被害者は、さらなる迫害への恐怖から、あるいは「四・三」で受けたトラウマ(心的外傷)から、いまも口を閉ざしたままである。
 そして昨年一〇月、「四・三」を題材にしたドキュメンタリー・ビデオ「眠れない喊声」を制作した金東満氏が、国家保安法の「利敵行為」にあたるとして拘束され、続いて一一月には、やはり「四・三」をテーマとするドキュメンタリー映画「レッド・ハント」を人権映画祭で上映した徐俊植氏が、同じく「利敵行為」を理由に検挙される事件が、相次いで起こった(金東満氏はすでに釈放、徐俊植氏は公判で係争中)。「四・三」を口実とする国家権力の抑圧政策が、今日もなお維持されていることを、私たちは改めて思い知らされたのである。

真相究明・名誉回復・追悼事業

 「四・三」の悲劇は、膨大な人的・物的被害にとどまらない。「討伐隊」による被害者と、「武装隊」による被害者との間に生じた拭い難い不信感は、済州共同体社会に深刻な亀裂をもたらした。とくに圧倒的多数を占め、長く無念の思いを封じ込められてきた前者には、非業の死を遂げた犠牲者の恨が解きほぐされることを切望する気持ちが強い。済州島のクッ(村や家の安泰などを祈る伝統的なシャーマニズムの儀式)ではほとんど例外なく、表象化された「四・三」の死の物語が語られるという。多くの島民にとって「四・三」犠牲者の魂は、いまだ安らかに眠れないまま、受難の現場をさまよう存在なのである。
 「四・三」の真相究明と、犠牲者の「名誉回復」・追悼事業は、とりわけ「討伐隊」による被害者にとって長年の悲願であったが、これらを求める運動が本格的に推進されるようになったのは、一九八七年の六月抗争以後のことである。まず「四・三」を題材にした文学作品が一般の関心喚起を先導し、続いて若手政治学者による専門的な研究論文の出現が「四・三」の新たな解釈への道を開くことになった。
 「四・三」の真相究明に大きな役割を果たしたのは、済州四・三研究所と済民日報で、一九八九年以降、両者によって体験者へのインタビューや資料発掘が精力的に進められてきた。また一九九三年には、済州道議会に四・三特別委員会が設置され、先に述べたように、同委員会が済州道当局の協力を得て犠牲者の調査を実施したことで、被害の実態はかなり明らかになってきた。
 こうした済州島での調査を踏まえて、死亡者およびその遺族の「名誉回復」のための特別法制定が要求されるようになった。しかしその出発点となるはずの、国会での「四・三特別委員会」構成は、済州道議会などの度重なる請願にも拘わらず、いまだに実現していない。また韓国政府が、これまで「四・三」関係の公文書を公開していないことも、強調しておく必要があるだろう。
 追悼事業としては、済州島の社会運動諸団体が結成した「四月祭共同準備委員会」により、一九八九年に最初の慰霊祭が開催されたが、一方で「武装隊」による犠牲者遺族を中心とする「済州島四・三事件民間人犠牲者遺族会」も、一九九一年より別途に慰霊祭を開いてきた。両者は済州道議会の仲介で歩み寄り、一九九四年以降、合同の慰霊祭を実現させてきた。しかし昨年九月、「四・三」五〇周年を目前に、済州道当局の主導で組織された「済州四・三事件犠牲者慰霊事業汎道民推進委員会」に対し、「四月祭共同準備委員会」側は委員の人選に偏りがあるとして参加を拒否し、五〇周年の慰霊祭は分裂開催の危機に瀕している。
 傷つけられた共同体意識を回復する道のりは、いまだ前途険しいようである。犠牲者の追悼という立場から、真相究明作業のいっそうの進展を願ってやまない。(「四・三」真相究明運動の経過については、本書所収の姜太權論文を参照していただきたい。)

日本にとっての「四・三事件」

 では日本近現代史にとって、あるいは現代日本社会にとって、「四・三事件」はいかなる意味をもっているのか。とくに日本人の立場から「四・三」を考える今日的意義は、いったい何なのか。思いつくままに、さしあたり次の三点を指摘しておきたい。
 第一に、「四・三」において済州島民衆を力づくで弾圧した政治勢力、言い換えれば南朝鮮単独政府樹立に加担し、南北分断体制構築への道を開いた政治勢力の中に、多数の「親日派」が存在していた点に留意しなければならない。かつての朝鮮に対する植民地統治の過程で、日本帝国主義は朝鮮民族の一部を対日協力者として抱き込み、民族解放運動勢力の分断をはかってきた。日本が朝鮮支配の安定をもくろんで育成した親日派勢力が、解放後は済州島民衆を生存の危機にさらす存在になっていったという歴史的脈絡から、私たちは目をそらすわけにはいかない。
 また日本帝国主義は、個々の被支配民族内部の分裂をはかるだけでなく、支配下においた諸民族を階層化・差別化することによって分断し、各民族の抵抗運動が相互に連携することを困難にさせた。日本の植民地支配が崩壊した後も、圧倒的な軍事力をもって情報を独占するアメリカが、その版図の大部分を継承し、分断支配構造は維持されることになる。第二次大戦直後の激動する東アジア情勢のもとで、固有の課題をかかえた各地域の運動が連携し合う関係を築くことは、いっそう困難であった。
 「四・三」の悲劇がかくも深刻なものとなった背景には、こうした日本の植民地支配の残滓に、地理的条件などが相俟って、済州島の運動が孤立した闘いを余儀なくされたところが大きいと考えられる。そして類似の状況は、おそらく台湾にも、沖縄にも、存在していたことであろう。
 第二に、「四・三」という膨大な犠牲者を出した事件が、日本社会にほとんど知られていないことの異常さを認識しなければならない。冷戦は、被害者たる済州島の人々に沈黙を強い、彼らを孤立化させる一方で、日本社会の構成員の大多数から、隣人の悲痛な体験を知る機会を奪ってきた。敗戦直後、植民地帝国のイデオロギーに染まっていた日本の民衆は、冷戦の実態を把握するための目と耳を奪われ、さらに日本政府は韓国の軍事独裁政権を支えることによって、間接的にではあれ「四・三」の真実を明らかにする道を塞いできたのである。
 その結果、日本社会は冷戦がアジアの民衆を抑圧する装置として機能していることに、思いを馳せる想像力を欠くことになった。今日まで日本社会が戦後補償問題への態度を曖昧にしつづけているのも、私たちがアジア民衆の受難の実態に対する歴史的想像力を欠如させている点と無関係ではあるまい。「四・三」の真実を知ることは、私たちの冷戦に対する認識の空白を埋める作業の一つであり、日本社会に経済的繁栄をもたらした構造の本質に接近するための重要なステップとなるであろう。
 第三に、在日の済州島出身者の中には、「四・三」前後の白色テロルを避け、日本に渡航してきた人々が数多くいるという点も重視しなければならない。数千名と推測されるこれらの人々のほとんどは、耐え難い悲しみを心の奥底に沈めたまま、この五〇年間、沈黙を守ってきた。
 彼ら/彼女らは、日本社会の構成員として私たちと生活をともにする仲間である。先に述べたように、「四・三」の悲劇は日本の植民地支配の残滓が加担することによって引き起こされた。その「四・三」で負った心の傷が癒されないまま、彼ら/彼女らがこの社会で放置されていることに、私たちは鋭い痛みを感じざるを得ない。そして韓国現代史における「四・三」の重大な意味を考えるとき、また「四・三」と連動するかのように、日本では四・二四阪神教育闘争が時期を同じくして展開されたことを想起するとき、「四・三」に象徴されるアメリカの弾圧政策が、「在日」社会全体に深刻な影を落としていることを見据えなければなるまい。
 「四・三」被害者の心の傷が癒されるためには、何よりも彼ら/彼女らが自らの体験を率直に語ることのできる通路が、日本社会の中に開かれていなければならない。そしてそのためには、日本の朝鮮植民地統治に加えて、冷戦構造が「在日」社会のあり方をいかに規定してきたのかという点をも、視野に収める必要が出てくるだろう。すなわち日本人が在日韓国・朝鮮人とともに生きる社会を築くための歴史認識を培うプロセスの一つとして、「四・三」の真実を知ることは重要な意義を持っているのである。

本書のねらいと構成

 私たち国際シンポジウム「東アジアの冷戦と国家テロリズム」日本事務局は、昨年二月、国民党政権による台湾民衆虐殺事件(いわゆる二・二八事件)から五〇周年を迎えた台北で、台湾・韓国・沖縄の友人とともに、第一回目の国際シンポジウムを開催した。研究者だけでなく一般市民も多数参加したこのシンポジウムは、長い間、闇に葬られていた民衆虐殺の真実と、その背景にある東アジアの冷戦構造を明らかにし、東アジア各地で同時代的に連動して起こったさまざまな民衆弾圧事件の関係性を、検証しようとするものであった。
 台北シンポジウムの問題意識を継承しつつ、今年八月に済州島で開催を予定している第二回シンポジウムは、まず何よりも「四・三」真相究明の重要性を訴える場となるであろう。とくに私たちは過去の教訓から、韓国の「四・三」真相究明運動を孤立させないため、このシンポジウムを、「四・三」に対する国際的関心の高まりをアピールする重要な機会としてとらえている。そのうえで私たちは、より幅広く、国家権力によるさまざまな人権侵害の実態を、世界史的な脈絡の中で読み解く作業を通じ、東アジアにおける新たな民衆連帯・市民連帯のあり方について、共通の認識を深め、協力関係の構築をめざしたいと考えている。
 済州島国際シンポジウムに向けて、私たちは「四・三事件」の実態と運動の現状を、広く日本社会に伝えるため、この間、公開学習会やビデオ上映会の開催などに取り組んできた。本書の刊行も、まずこうした活動の一環として企画されたものである。
 また私たちは、台北シンポジウムと済州島シンポジウムを結ぶものとして、昨年六月に大阪で、「東アジアの冷戦と戦後補償を考える」と題する台北シンポジウム報告集会を開催した。先にも指摘したように、「四・三」をはじめとする東アジアの民衆虐殺・弾圧事件を生み出した冷戦構造は、実は日本帝国主義の植民地支配や侵略戦争の残滓に支えられたものであった。一方で戦後日本は、まさにその冷戦によって経済成長を遂げ、植民地支配への責任や戦争責任を回避することが可能になったのである。その意味で戦後補償問題は、「四・三」とともに、東アジアの民衆にとっては冷戦がいまだ終結していないことを証明する、決定的な根拠を提示するものと言える。そこで私たちは、冷戦が戦後日本社会のあり方を規定してきた事実を再確認するために、この報告集会での成果も合わせて本書に収録したいと考えた。
  以上のようなねらいをもって、本書は二部構成の体裁をとることにした。
 第一部は、「四・三」の実像を多角的に把握すべく、韓国で発表された文章の翻訳を中心に構成した。
 最初の姜太權論文は、長く済州島現地で「四・三」の真実を発掘する作業に携わってきた立場から、「四・三」真相究明運動の歴史と展望をコンパクトに整理したものである。この論文から私たちは、済州島における運動の現段階が、どのような歴史的脈略の中で生み出されてきたのか、また真の問題解決に向けていかなる課題を抱えているのかを、窺い知ることができるだろう。
 続く玄基榮氏の随筆は、現代韓国文学を代表する作家の一人である筆者が、自らの創作活動の深淵に横たわる「四・三」の記憶と、その恐怖の記憶に対峙してきた精神の軌跡を、回顧的に綴ったものである。「四・三」の真相告発を先導した済州知識人のメンタリティーを追跡しながら、私たちは長くこの事件の真実を語ることが禁じられてきた軍事独裁政権下の社会相に、思いをめぐらさずにはいられない。
 また韓林花氏のルポルタージュは、済州島のある集落での聴き取り作業をもとに、この集落において繰り広げられた「四・三」の惨劇を復元したものである。「四・三」体験者の証言は、すでにかなりの蓄積があり、その一部は日本にも紹介されているが、この文章は一集落の体験に焦点をしぼることによって、済州島民衆の視点から見た「四・三」の多様な側面を、率直に伝えるものとなっている。エピローグに収められた転向者の告白には、不快感を覚える読者もいるだろうが、暴力が人間性を破壊していく過程こそが、「四・三」の悲劇をより深刻なものにしていることを確認するためにも、そのまま掲載することにした。
 さらに「四・三」に対する済州道議会や済州道当局の立場を知る資料として、済州道議会四・三特別委員会『済州道四・三被害調査報告書 修正・補完版』(一九九七年)から、同委員会の責任で執筆された「四・三の概要」、道知事の声明、道議会議員による国会への請願書なども掲載した。このうち「四・三の概要」の大半は、金榮訓氏(済州道議会四・三特別委員会委員長)の「歴史の証言」として、本事務局発行の『東アジアの冷戦と国家テロリズム――台湾シンポジウム報告集――』(一九九七年)に収めたものであるが、済州道議会の「四・三」に対する歴史的評価を示すのみならず、「四・三」の事実経過を簡略に知るうえでも有用であるので、本書にも収録することにした。その他「四・三」に関する簡単な文献案内を掲載するとともに、巻末には、「四・三」当時の東アジア情勢を総体として把握するための関連年表を付した。
  第二部には、台北シンポジウム報告集会のパネル・ディスカッションでの発題をもとに、冷戦と戦後補償問題をめぐる三氏の論文を収録した。詳細は、第二部冒頭の松田京子氏の解説に譲るが、朝鮮の開国(一八七六年)から現在に至る、長いタイム・スパンの中で「慰安婦」問題の今日的意味を掘り下げた宋連玉論文、日・米との取り引きによって日本の戦争犯罪を免罪した国民党政権の姿勢を、美唄炭鉱での中国人被連行者の闘争を素材に明らかにした猪八戒論文、五〇年代国家テロルの歴史的背景を「ソ連帝国」と「米帝国」の角逐に求めたうえで、戦後日本社会の方向性を規定した諸要因を問題提起的に挙論した松沢哲成論文と、特色ある論稿がそろった。これらはそれぞれ独立したテーマの論文であるが、ここで示された諸問題が、「四・三」や、台湾の二・二八事件、五〇年代白色テロル、さらには沖縄戦後史などと、どのように相互に連関しているのかを理論的に組み立てていく作業こそが、今後の私たちの活動における最大の課題なのである。

 一九九八年。
 あの悲劇のはじまりから五〇年が経ち、韓国での「四・三」真相究明運動は、一つの正念場を迎えた。日本社会の「四・三」に対する認識を深めるためにも、この一年はきわめて重要な意味をもっている。
 「四・三」と東アジアの冷戦を理解するために、本書が広く利用されることを願っている。

(一九九八年三月八日)

(『東アジアの冷戦と済州島4・3事件』、1998年4月)


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