総  論

――1998年済州島国際シンポジウムを振り返る―

 昨年(1998年)8月21日から24日にかけて、私たち“国際シンポジウム「東アジアの冷戦と国家テロリズム」日本事務局”は、韓国・台湾・沖縄の各シンポ事務局とともに、韓国・済州島で「21世紀東アジアの平和と人権――済州4・3第50周年記念国際学術大会――」と題する国際シンポジウムを開催した。すでに私は、日本事務局・済州島シンポ担当者としての立場から、開催前にはその経緯と目的を紹介し、また終了後にはシンポジウムの内容を報告したことがある(「98済州島国際シンポジウム開催に向けて」『けーし風』第19号、1998年6月、「『済州四・三』五〇周年国際シンポジウムを終えて」『インパクション』第110号、1998年10月、など)。ここではこれら旧稿をもとに、あらためて私なりに済州島シンポジウムの成果と課題を総括しておきたい。

台湾シンポジウムから済州島シンポジウムへ

 台湾・韓国・沖縄・日本の4事務局が、共同主催で「東アジアの冷戦と国家テロリズム」をテーマとする第1回目の国際シンポジウムを開催したのは、1997年2月のことである。開催地は、「2・28事件」として知られる国民党政権の台湾民衆虐殺事件から50周年を迎えた台北であった。台湾では1947年の2・28事件に続いて、1950年代には政府に批判的な立場の人々が逮捕、投獄、処刑される白色テロルの嵐が吹き荒れた。この「50年代白色テロル」の真相究明や政治受難者の名誉回復・補償の運動に取り組んでこられた台湾の方々から国際シンポジウム開催が提案され、これを契機に実現したのが97年台湾シンポジウムであった。

 顧みれば冷戦体制は、日本帝国主義の抑圧から解放された東アジア民衆の、民主化や統一への願いを封じ込め、これを弾圧する構造として機能してきた。台湾の2・28事件や50年代白色テロルも疑いなくこうした構造の産物であり、東アジア各地の民衆の受難と連動しつつ発生した悲劇と言えるだろう。しかし一方で戦後の日本は、このような東アジア冷戦体制を政治的・経済的に支えることによって、戦争責任を曖昧にし、経済成長を遂げてきた。そこでこのシンポジウムでは、戦後東アジア各地で同時代的に発生した、さまざまな民衆虐殺・弾圧事件の真実とその関係性を検証する作業を通じて、事件発生の根本要因となった東アジア冷戦構造の本質を明らかにするとともに、これを真に克服するための、新たな民衆連帯のあり方を模索しようとしたのである。台湾シンポジウム開催に向けて日本事務局が発足したのは、96年5月のことであった。(台湾シンポジウム開催の目的、経過、およびシンポの内容については、本事務局発行の『白色テロル 日本と台湾、アジア戦後史の闇――五〇年代に迫る』『東アジアの冷戦と国家テロリズム――台湾シンポジウム報告集』を参照。)

 台湾シンポジウムを成功裡に終え、主催者の4事務局は、議論を継続、発展させるために、翌1998年に第2回目のシンポジウムを韓国・済州島で開催することにした。1998年は、米軍政と李承晩政権の弾圧政策により3万名以上が犠牲になったと言われる「済州島4・3事件」の勃発から50周年にあたり、歴史的な節目を迎えたこの事件の現場で再開を約束したのである。多数の済州島出身者が居住する関西地方を中心に活動している日本事務局にとって、済州島シンポジウムの開催は、帝国日本の植民地支配体制と東アジア冷戦体制の連続性・継承性を再考させる契機となった。

 台湾シンポジウム終了後、日本事務局では、97年6月にピース大阪で報告集会「東アジアの冷戦と戦後補償を考える」を開催し(総論:徐勝、パネリスト:松沢哲成、宋連玉、猪八戒、杉原達〔司会〕)、同年11月には前出の報告集を刊行して、台湾シンポの成果を世に問う一方、済州島シンポジウム開催に向けたさまざまな活動に取り組んできた。その中心は「4・3事件」の実像と、その解決に向けての課題を認識するところにあったと言えるが、こうした問題意識を共有する場として、次のような6回の公開学習会が設定された。

第1回 1997/9/23 於:アピオ大阪
ドキュメンタリービデオ「眠れない喊声」上映会――制作者金東満さんを囲んで
第2回 1997/10/31 於:弁天町市民学習センター(大阪)
「4・3事件の歴史的評価をめぐって」 講師:文京洙
第3回 1997/11/30 於:部落解放、教育・研究センター(大阪)
講演と対談の集い「文学からみた民衆の受難と復権――冷戦下の東アジアから日本を問う」 講師:金石範、陳映真
第4回 1998/1/30 於:弁天町市民学習センター
「朝鮮の解放から分断への分岐点――4・3事件前後の国内情勢」 講師:李景
第5回 1998/4/26 於:大阪市立中央青年センター
「済州島は4・3事件50周年をどう迎えたか」 講師:金昌厚
第6回 1998/6/7 於:アピオ大阪
パネルディスカッション「東アジアの平和を創造する――沖縄から、朝鮮・韓国から、中国から日本へ」 パネリスト:新崎盛暉、浅井基文、徐勝(司会)

 このほか出版・普及活動として、98年4月に資料集『東アジアの冷戦と済州島4・3事件 白色テロル第2集』を刊行し、また4・3事件をテーマとするビデオ「眠れない喊声」「レッドハント」の日本語版を制作した。とくに「レッドハント」は、この映画の上映を理由とする徐俊植氏逮捕への抗議運動としての意味も込め、各地の市民運動団体との連携の下に、全国で20回にわたる上映会を催すことができた。なお98年3月には事務局メンバーが沖縄を訪れ、フィールド・ワークを兼ねた学習会も実施している。

「4・3」真相究明運動とシンポジウム開催の意義

 「済州島4・3事件」の真相は、民衆虐殺の実態を糊塗しようとする韓国の歴代反共政権により、長く歴史の闇に葬られてきた。ところが1987年の6月民衆抗争以後、韓国社会の民主化が進む中で、事件の真相究明作業はようやく本格化し、90年代半ばには、済州道議会や済州道当局までもが真相調査に乗り出すようになった。98年2月に成立した金大中政権のもとで、与党・新政治国民会議は党内に特別委員会を設け、5月には同党主催の公聴会が開かれるなど、済州島シンポジウム開催前には、中央政界レベルでの取り組みも軌道に乗ったかに思われた。

 だが一方で、「4・3」真相究明運動を牽制しようとする国家権力の妨害工作が、完全に終息したわけではなかった。先述のように97年11月、この事件を題材にした映画「レッド・ハント」を人権映画祭で上映した徐俊植氏が、国家保安法違反の嫌疑で逮捕されたほか、98年の初めにはこの映画の制作者・趙成鳳氏や、徐俊植氏とともに人権映画祭の実行委員をつとめた金東元氏が、当局に拘束される事件が起こった。また徐俊植氏逮捕に先立ち、97年10月には、前出のドキュメンタリー・ビデオ「眠れない喊声」を制作した金東満氏が、日本での上映会から帰国した直後に、やはり国家保安法違反の嫌疑で逮捕されている(徐俊植氏と金東満氏は公判で係争中)。さらにシンポジウム開催直前になって、出席を予定していた在日の作家・金石範氏が、駐日韓国大使館より韓国への入国を拒否される事態が発生した。

 このような情勢の中で、韓国事務局(正式名称は「東アジア平和と人権韓国委員会」)はシンポジウムの開催にあたって、公安当局に弾圧の口実を与えないよう、細心の注意を払わなければならなかった。台湾シンポジウムで掲げた「国家テロリズム」という表現を避け、テーマを「平和と人権」という一般的な表現にとどめたのも、こうした事情によるものである。さらに当局の干渉を防止するため、このシンポジウムが国際的な注目を浴びた、一大イベントであることを印象づける手段が講じられた。そこには韓国国内においてさえ、ともすれば一地方の問題として片付けられがちなこの事件が、実はきわめて重大な世界史的意義をもっていることを内外にアピールするねらいも含まれていた。こうして済州島国際シンポジウムは、単なる学術会議としての性格を越えた、きわめて政治的色彩の強いものにならざるを得なかったのである。

 韓国事務局のこうした目論みは、充分達成されたようである。韓国の国会議員数名が出席した初日のオープニング・セレモニーでは、東ティモールのノーベル平和賞受賞者ラモス=ホルタ氏と、日本の田英夫参議院議員がゲスト・スピーチを行い、与党・新政治国民会議と野党・ハンナラ党の総裁から贈られた生花が会場を飾った。そしてこの場で、金石範氏が参加できなくなった事情と、この措置に対する抗議書簡を韓国政府に送ることが主催者から発表されると、憤激した韓国の国会議員たちは、ただちに金石範氏に旅券を発給するよう政府当局に申し入れる行動をとった。その結果、事態は急転回し、金氏は急遽、韓国への入国を認められ、シンポ最終日に済州島に到着するという劇的な経過をたどったのである。(金石範氏の入国許可に至る経緯については、本報告集所収の、金石範「かくも難しき韓国行き」参照。)

 今回、金石範氏がシンポジウム参加を果たしたことによって、金大中政権下の韓国の政治状況においては、「4・3」の真実を究明しようとする動きは、もはや誰にも妨げられないことが明白となった。韓国政府からも、開催意義を認められる格好になった今回のシンポジウムの成果が、「4・3」犠牲者への補償実現に、大きな弾みとなることを期待している。

済州島シンポジウムの構成

 97年の台湾シンポジウムでは、研究報告だけでなく、白色テロル犠牲者追悼祭への参加、受難者の証言を聴くセッションの設定、虐殺現場へのフィールドワークなど、参加者が体験をもって自らの認識を深めるための工夫がこらされた。そのねらいをシンポジウム日本事務局長(当時)の杉原達氏は、かつて次のように述べたことがある。

……まず第一に、台湾を台湾の枠内で、あるいはまた済州島を済州島の枠内でというように、いわば特殊を特殊の内部だけで理解する方法ではなく、具体的で多様な個別の生活史を、東アジアの同時代的な連関のなかに位置づけていく方法を、意識的に追求すること。そして第二に、学問的営為と追悼・復権のための社会活動とを、相即不離の関係にあるものととらえ、両者を同時に展開するという視点に立つこと。(杉原達「思想としての『現場探訪』」『思想』第877号、1997年7月、1頁)

 こうした方法と視点を継承しつつ、さらに台湾シンポジウムの反省点をも踏まえ、済州シンポジウムでは構成上、とりわけ次の2点に配慮した。第一に、前回取り組みの弱かった、冷戦体制下での女性の受難の実態について、集中的に議論する場を設定すること。第二に、少人数による分科会討論をプログラムに組み入れ、参加者どうしの直接の対話を通じた問題意識の共有をはかること。

 こうして済州島シンポジウムは、別掲のように、初日にオープニング・セレモニー、第2〜3日に学術報告・討論(受難者の証言を含む)、そして最終日にはフィールド・ワークを配置する構成を取った。このうち狭義のシンポジウムと言うべき第2〜3日は、まず総論(主題1)を置き、続いて国家暴力と女性の問題が集中的に討議されたあと(主題2)、各地域での民衆虐殺・弾圧の具体的事例が報告され(主題3)、ワークショップ形式の分科会(主題4)で締め括るというプログラムになっている。またこのシンポジウムの重要な柱であるフィールド・ワークでは、二つのグループに分かれ、軍警による「討伐作戦」で生命の危険にさらされた住民が身を隠した洞窟や、集団虐殺された犠牲者の墓地、またアジア太平洋戦争末期に旧日本軍が建設した飛行場跡などを訪れた。このほか、地元済州島のマダン劇グループ「漢拏山」や、民衆歌謡グループ「コッタジ」の公演、済州在住の画家・姜堯培氏の作による「4・3」をテーマとした絵画展の見学、さらにビデオ上映やパネル展示など、多彩な文化行事も催された。とくにフィールド・ワークと文化行事は、地元済州島の方々の熱意に支えられた充実した内容で、参加者に深い感銘を与えたことを強調しておきたい。

成果と課題

 以上のような多様な内容をもつ済州島シンポジウムの全貌を、要約して紹介することは到底不可能である。詳細は本報告集所収の各論考に譲るしかないが、それとても完全とは言えない。さしあたりここでは全体会議の雰囲気を中心にお伝えしたいが、それでも18本にのぼる発題の内容を、安易に整理することはためらわれる。あえて私なりに2点だけ、その特徴を指摘しておきたい。

 第一に、今回のシンポジウムの大きな特色は、政治受難者の証言、あるいは受難者の復権をめざす社会的実践についての報告が、発題全体の過半を占めたことである。台湾シンポジウムでも「歴史の証言」と題して、政治受難者の証言を聞くセッションが設定され、大きな反響を呼んだが、今回はいっそう個別具体的な国家暴力の様相が、さまざまな事例を通じて明らかにされることになった。東アジア民衆の歴史に刻まれた冷戦体制下での人権蹂躙の実態を、済州島という民衆虐殺の現場で、参加者が共有し合った意義はことのほか大きい。

 地元済州島の若い研究者である呉金淑氏の報告は、「4・3」当時の女性に対する性暴力と拷問致死、また弾圧者との強制結婚をはじめとする生存者の受難の諸相を、丹念な聴き取り調査をもとに明らかにしたものであったが、報告の後半は、犠牲者遺族のハルモニが自ら体験を語る時間に充てられた。その内容は夫が虐殺された当時の模様と、その後の生活の苦しさを淡々と語るものであったが、このような国際学術会議の場で、「4・3」被害者が直接証言するのは前代未聞のことであり、参加者に大きな衝撃と感銘を与えた。

 また台湾の「50年代白色テロル」について、多様な角度からその実態が報告されたのも印象深かった。台湾先住民族の一人として、白色テロルの政治的受難を体験したワタン・タンガ(漢名・林昭明)氏は、先住民族が国民党政権下で受けた政治迫害について証言した。同じく白色テロルの受難者である馮守娥氏は、出獄後も権力の監視下におかれた女性受難者の困難な状況を語ったが、決して屈することなく生活の現場で闘いを実践してきた馮氏の体験は、聴く者をむしろ勇気づけるものであった。

 第二に特筆すべき点は、今回、国家暴力と女性の問題を正面から取り上げたことによって、ジェンダーの視点から冷戦体制の本質に接近しようとする成果を得たことである。

 「4・3」の女性体験については、先述の呉金淑報告とハルモニの証言に加え、韓国の金成禮氏が、反共国家の暴力を女性に対する性暴力との親和性に連結させる、独自の見解を表明した。また藤目ゆき氏の報告は、戦後米軍支配下の日本において、米兵による強姦犯罪が多発する一方、「買春」の制度化と、「売春婦」を生み出す社会的構造が形成される過程を明らかにするものであった。その他、先の馮守娥氏の証言も含め、全体会議では冷戦体制下における東アジア女性の受難と闘いの体験が、さまざまな事例を通じて明らかにされたのである。

 このようにジェンダーの視点から、今後このシンポジウムが深めるべき論点の方向性が提示されたことは、確かに大きな収穫であった。しかし冷戦体制の下で女性が置かれた状況について、シンポジウム参加者が問題意識を共有できたとは必ずしも言えないようである(とくに「女性と暴力」分科会で噴出した問題については、本書所収の宋連玉氏の報告を参照)。ジェンダーの問題を初めて集中的に取り上げたことは疑いなく意義ある試みであったが、一方でそれはまた克服すべき課題の大きさを浮き彫りにする結果となったように思われる。

 国家暴力とジェンダーの問題に見られるように、済州島シンポジウムは、今後に向けて多くの課題と反省点も残した。前述のごとく、「4・3」真相究明運動への政治的効果に配慮し、シンポジウムの規模が大きくなり過ぎた点は、率直に言って日本からの参加者をとまどわせた。ゲスト・スピーカーとして登壇したラモス=ホルタ氏の人権観に異を唱え、台湾からの参加者が退席する一幕もあった。

 また日・中・韓の3言語が飛び交うシンポジウムで、通訳は運営面の成否を握る決定的な問題であるが、今回は施設面の欠陥などで、懸命の努力を傾けているボランティア同時通訳者の能力を、充分引き出すことができなかった。台湾シンポジウムの経験を生かせない結果となり、スタッフの一員として痛恨の思いである。

 通訳の問題は、分科会でとくに大きな壁に突き当たった。施設・人員の面から全体会議のように同時通訳ができない分科会では、逐語通訳に多くの時間を費やすことになり、議論を深めるには至らなかった。当初からある程度、想定された難問ではあったが、時間不足は予想以上に深刻で、ほとんどの分科会が予定した発題者の発言、ないしは自己紹介だけで時間切れとなってしまった。分科会の問題点はそれだけにとどまらず、参加者の関心が分断される弊害や、全体会議での問題意識と連結させることの困難さも指摘されている。参加者の直接交流を目的に設定した分科会であったが、いかほどの意義があったのか、批判的に検討されなければならないと考えている。

 ともあれ今回のシンポジウムの成果については、本報告集に収載した諸論考より、読者の批判を仰ぎたいと思う。本書は、全体会議の発題原稿、分科会やフィールドワークの報告、参加記などで構成されているが、補足説明の必要が指摘された林書揚報告と、論文提出のみとなった浅井基文報告については、劉進慶氏と李三星氏のコメントを付したこと、「平和の理念」分科会は事情により報告を掲載できなかったことを、ここでお断りしておきたい。

沖縄シンポジウムに向けて

 済州島シンポジウム終了後、日本事務局は態勢を整え直し、今年11月に沖縄で開催予定の第3回シンポジウムに向けた活動を開始した。昨年12月20日の済州島シンポジウム報告集会(於:エル大阪)では、駐韓米軍犯罪根絶運動本部事務局長の鄭袖鎮氏による問題提起を受け、パネル・ディスカッション形式で、宋連玉氏、藤目ゆき氏、長志珠絵氏(司会)が、国家暴力とジェンダーの問題を中心に済州島シンポジウムを振り返った。また沖縄から浦崎成子氏、韓国から金恩實氏にお越しいただき、四国・善通寺から駆けつけて下さった金永子氏とともに、貴重な提言をいただいた。済州島シンポジウムの成果を分かち合うとともに、沖縄シンポジウムへの課題をも展望する、実りある集いとなった。

 沖縄シンポジウムの全体構想も、沖縄・日本両事務局の調整を経てほぼ固まってきた。フィールド・ワークや証言を中心に、何よりもまず沖縄の米軍基地問題の実態に触れること、日本での開催という意義を踏まえ、冷戦体制を支えた日本の役割をあらためて検証すること、また分科会とは違った形式で、参加者の主体的な企画による交流・自由討論の時間を設定することなどが、プランの骨子となっている。また日本事務局では、沖縄シンポジウムに向けての公開学習会の準備も進行中で、3月14日に「沖縄と安保」というテーマで第1回を開く予定である(講師:有銘政夫氏、丹羽雅雄氏)。

 戦後、東アジアで最も持続的に強靱な反米闘争を展開してきた地である沖縄で、このシンポジウムを開催することの意味を、ヤマトンチューの一人として自問し続けたいと思う。東アジア各地の固有の問題の解決を、冷戦構造の総体的克服へと発展させていくための展望を、沖縄シンポジウムはどこまで提示できるだろうか。私たちの活動は、いよいよ正念場を迎えている。

(『済州島シンポジウム報告集』1999年4月)


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