書 評

朴賛勝著『韓国近代政治思想史研究 民族主義右派の実力養成運動論』

(ソウル、歴史批評社、1992年)

 解放後の南北朝鮮における歴史研究は、植民地期日本人学者により歪められた朝鮮史像――植民地支配を合理化するためのイデオロギーたる「停滞論」「他律性史観」などに立脚した歴史像を徹底的に批判、克服し、朝鮮民族の主体的な歴史発展の道筋を究明するため不断の努力を続けてきた。このような研究姿勢が、実学から開化思想に至る近代的思惟の形成、商品貨幣経済の進展、身分制の動揺、民乱・農民戦争にみられる農民の革命的力量の蓄積過程など、李朝後期から近代に至る時期の各分野において、目覚ましい業績をあげたことは周知のとおりである。しかし冷戦体制の産物たる南北分断の現実のもとでは、解放後の政治状況に直結する植民地時代の研究――とりわけ一九二〇年代以降の民族解放運動について、望ましい方向で研究が進められてきたとは言い難い。南北のイデオロギー対立を背景に、民族運動の歴史的評価をめぐって互いに相容れない見解が流布し、それは研究者がこの問題に接近する態度をも規定した。朝鮮民主主義人民共和国では金日成体制の正統性を植民地期の民族解放闘争に求める形で歴史叙述がなされていったのに対し、韓国の歴史学界では大韓民国臨時政府など特定の主題を除いて、研究そのものが全般的に不振であるという状況が長く続いたのである。

 韓国において植民地時代の研究が本格的にはじめられたのは、八〇年代に入ってからのことと言ってよい。とりわけ一九八七年の六月抗争以後、歴史研究と社会的実践の結合をめざす若手研究者の活動が活気を帯びるなか、植民地期の民族解放運動史研究は社会主義運動研究を中心に、飛躍的な発展を遂げた(これら若手研究者の活動については、拙稿「韓国における歴史研究の新たな動向」『朝鮮史研究会会報』第一〇八号、一九九二年八月、参照)。一九五七年生まれの本書の著者・朴賛勝氏は、こうした新進研究者の活動においてリーダーシップ的な役割を果たしてきた方の一人であり、李朝後期から植民地時代に至るまでの幅広い分野で旺盛な研究成果を発表しておられる気鋭の研究者である。本書は著者がソウル大学校国史学科に提出した博士学位論文をもとに、既発表論文を加え再構成されたものである。

 ところで私たちは通常三・一独立運動以後の民族解放運動を大きく民族主義運動と社会主義運動の二つに分類し、さらに民族主義運動を日本の支配に妥協的な(ないしは「改良主義的な」)グループと非妥協的なグループに分けて理解している。このうち従来、研究者の関心が集中しているのは国内外の非妥協的民族主義運動と社会主義運動、そしてこの両者による民族協同戦線運動についてであり、本書の主題である妥協的民族主義者の政治活動を体系的に扱ったものとしては、ロビンソンの近著を除いてほとんど存在しないと言ってよい(本誌第七号所収の松田利彦氏による書評 Michael Edson Robinson, Cultural Nationalism in Colonial Korea, 1920-1925, Seatle: University of Washington Press,1988. 参照)。これは民族解放運動の「本流」をどこに求めるかという研究者の視角が反映されたものと言え、体制寄りで日和見的とイメージされる改良主義的な政治活動については、副次的な関心しか払われなかったからと思われる。

 このように必ずしも評判のよくない妥協的民族主義者(著者は主として「民族主義右派」という呼称を用いている)を研究の対象とする理由を、著者は次のように述べている。

民族主義右派と呼ばれる政治勢力は一九二〇年代にはブルジョア民族主義右派の陣営にとどまっていたが、一九三〇年代以後には次第に親日への道を歩み、反民族の立場に立つようになる。そして彼らは一九四五年解放以後、韓民党などの旗のもとに結集し極右勢力を形成しつつ、南韓の支配勢力として登場することになる。したがって一九二〇年代までのブルジョア民族主義右派の政治思想を検討することは、解放以後南韓支配勢力の思想的淵源を明らかにする重要な作業と言える(一六頁)。

 著者の関心は、分断体制の一翼を担った解放後韓国の支配勢力の「思想的淵源」をさぐるところに置かれている。言わば南北分断をもたらした内的要因を思想史的な脈絡で明らかにしようとする作業であって、統一された民族国家建設のために克服されるべきパラダイムを、歴史的に究明する試みと評価することができるだろう。韓国における民族解放運動史研究が、短期間のうちにこのような懐の深い議論を提示する水準に至ったことに、まず敬意を表したいと思う。

 以下、本書の内容紹介に移るが、管見の限りで本書については池秀傑氏、尹海東氏による書評がすでに発表されている(池秀傑「〈先実力養成・後独立論〉の実像と虚像」『歴史批評』第一七号、ソウル、一九九二年五月。尹海東「『韓国近代政治思想史研究』批評」『歴史問題研究所会報』第一八号、ソウル、一九九二年六月)。私の本書に対する感想も両氏の指摘と重なる部分があるが、これらが韓国で発表されたものであることを勘案して、重複をいとわず私なりの意見を書き留めることにした。あらかじめご了解をお願いしたい。

 まず本書の大まかな構成を掲げる。

序論

 1 「実力養成運動論」の概念

 2 既存研究の検討

 3 研究の目的と方法

第一章 韓末自強運動論とその各系列

 1 韓末「自強運動論」の台頭とその政治思想的背景

 2 大韓協会系列の先実力養成論と政党政治論

 3 皇城新聞系列の先実力養成論と文明開化論

 4 大韓毎日申報系列の先独立論と国粋保全論

 5 青年学友会系列の先実力養成論と人格修養論

第二章 一九一〇年代の実力養成論と旧思想・旧慣習改革論

 1 実力養成論と旧思想・旧慣習改革論台頭の背景

 2 実力養成論とその性格

 3 旧思想・旧慣習改革論とその性格

第三章 一九二〇年代初頭の「文化運動」と「文化運動論」

 1 「文化運動」台頭の背景

 2 「文化運動論」の論理

 3 「文化運動論」の内容と「文化運動」

 4 「文化運動」の性格

第四章 一九二〇年代中盤〜一九三〇年代初めの自治運動と自治運動論

 1 自治運動台頭の背景

 2 自治運動論の論理

 3 自治運動論展開過程

 4 自治運動の性格

結論

 先に触れたように、このうちの第二〜四章が博士学位論文として提出されたものであり、第一章は別個に発表された論文(「韓末自強運動論の各系列とその性格」『韓国史研究』第六八輯、一九九〇年三月)を原形としている。もともとこれらは一貫した構想のもとに執筆されたものであり、本書の上梓にあたって元来の構成を復元させたわけである。すなわち旧韓末から植民地期にかけて唱えられた「実力養成運動論」を著者は四つの段階に区分し、各段階にそれぞれ一章を割り当てているのである。著者によれば「実力養成運動論」は「韓末保護国治下において〈外勢支配下での実力養成運動論〉が台頭しはじめた自強運動段階、一九一〇年代新知識層により実力養成運動論がより理論化される段階、一九二〇年代初め実力養成運動論の論理がより完結され現実のなかで実行にうつされた文化運動段階、一九二〇年代中盤、実力養成運動論の妥協的傾向が大きく強化された自治運動段階」(三六七頁)という展開過程をたどるという。以下、各段階の「実力養成運動論」の内容をいま少し詳細に検討していくことにしよう。

 まず保護国期の「自強運動論」について。「自強運動」とは一般に「愛国啓蒙運動」と称される運動のことであり、すでに姜在彦氏が「愛国啓蒙運動」の内容を「実力培養=自強運動」と規定することによって、この用語を意識的に強調しつつ使用したことがある(「李朝末期の実力培養=自強運動」『近代朝鮮の変革思想』日本評論社、一九七三年。のちに『新訂朝鮮近代史研究』日本評論社、一九八二年、に再収)。本書の場合「自強運動」は、旧韓末に展開された啓蒙活動、殖産興業の動き、政治活動などが〈自強=実力養成〉を本質的理念としていることを強調するための語として、ここに一九二〇年代実力養成運動の思想的な源流を求める意図があると思われる。

 「自強運動論」は、この時期本格的に受容されはじめた社会進化論を理論的支柱に、一八九〇年代後半より独立協会、儒教知識人と『皇城新聞』、海外留学生などによって唱えられた自強論(著者はこれを「開化自強論」と呼んでいる。愼■廈氏の論稿中の用語を借用したものであろう)の影響を受けつつ、さらには保護政治の「文明開化」「施政改善」というスローガンにも幻惑されながら出現した。そして著者によれば、その内部には現実認識や運動の具体的方法論などの違いから、四つの系列が存在したという。

 第一は、大韓自強会・大韓協会に結集した勢力−尹孝定を中心とする憲政研究会系と權東鎭・呉世昌など天道教系の人物に、前政府高官の金嘉鎭や鄭雲復・崔錫夏ら西北学会の一部会員をも含んだ「大韓協会系列」である。彼らはこの時期大垣丈夫らが唱えた、東洋の盟主が日本であることを前提とするアジア連帯論に同調、朝鮮の富強が実現されれば国権回復は可能であるという楽観的展望のもとに、保護政治を「先進文明国の指導」と肯定的に評価していた。彼らは社会進化論にもとづく国家間の生存競争の論理を受け入れ、保護国下での自強をめざす「先実力養成・後独立論」の立場より、義兵闘争は民族を滅ぼすものと激しく非難した。一方でこの系列は、保護政治の枠内で政治権力への参画をめざす権力志向的な性格から、大韓協会に政党としての機能をもたせることを主張していた。

 第二は、張志淵・朴殷植・南宮檍・柳瑾を中心とする「皇城新聞系列」である。この系列は日朝両国が独立を維持しつつ同盟を結ぶという「純粋な」(?)意味でのアジア連帯論には同意していたが、朝鮮の保護国化には反対であった。しかし彼らも保護国化の一次的責任は自らにあるとして「先実力養成・後独立論」の立場をとり、義兵闘争にも批判的な主張を展開した。ただこの系列にとって、文明開化は「東西古今の参酌折衷」という原則のもとで漸進的になされるべきであり、とりわけ儒教の近代的宗教への改革を主張していた。この系列のなかでもとくに朴殷植は、国民精神の培養を強調した点で注目される。

 第三は、梁起澤・申采浩・張道斌などの「大韓毎日申報系列」であり、これには全徳基ら尚洞青年学院系の人物や李東輝などの前職武官も含まれる。彼らはまず人種間の競争を前提としたアジア連帯論自体に批判的であり、保護政治は征服者の収奪のための政治にほかならないと断じた。この系列も他と同様、当時の世界を生存競争の時代と認識し、自力による実力養成を強調しつつも当初は「先実力養成・後独立論」の立場にあった。しかし一九〇九年ごろからは先実力養成論に反対して「先独立」を主張、義兵闘争にも同情的な態度を見せつつ、独立がむしろ富強の前提になるとの考えに立つようになった。秘密結社・新民会と密接な関係をもつこの系列は、国外で独立軍を養成し、武装闘争を展開する路線へとその主張を転換させていったのである。彼らはまた近代化至上主義に流れがちな文明開化論に反対し、「愛国精神」に基づく国家意識の鼓吹、精神武装のための「国粋保全」を唱えて、一部は民間の壇君崇拝をもとに大*教という新宗教を創始するに至った。

 第四は、安昌浩・尹致昊・李昇薫・崔光玉・朴重華・崔南善・玉觀彬などの「青年学友会系列」である。彼らは青年学友会の機関誌『少年』を中心に論陣をはり「皇城新聞系列」と同様「純粋な」意味でのアジア連帯論には賛同したが、保護政治に対してはきわめて批判的であった。この系列も新民会と深い関係にあったが、その基本的立場は「先実力養成・後独立論」であった。またこの系列の特色として、指導者の団結と国民の実力培養のための人格修養を、国権回復運動における優先課題とした点が挙げられる。

 次に著者は、一九一〇年代を実力養成運動論の本格的な理論化がすすむ段階と規定し、その背景としてまず日本留学生を中心に新知識層が登場してきたことを指摘する。「併合」後に急増した日本留学生は一九一〇年代後半に入って順次帰国し、新しい知識層を形成しはじめた。彼らは日本での留学生活を通じて西洋ブルジョア文明の洗礼を受け、朝鮮に近代資本主義文明をもたらすことによって国権回復へのきっかけをつかもうとしたのであった。本書では日本留学生学友会の機関誌『学之光』や、朝鮮国内で崔南善が発行していた雑誌『青春』などの分析を通じて、新知識層の思想内容を検討している。一方、日本帝国主義はこの時期、産業開発、文明教育の普及、民風改善などを提唱したが、著者によればこれら政策は朝鮮人側の実力養成論、旧思想・旧慣習改革論とも類似性をもつものであったという。

 一九一〇年代の実力養成論は旧韓末の「先実力養成・後独立論」を継承するものであり、やはり社会進化論的な立場から、独立を遠い将来のことと見なして、まずは文明開化と実力養成、民族性改良に力を注がねばならないと考えていた。しかしこれは日本に対する「抵抗」というより、資本主義文明の建設を通じて独立を獲得しようとするものであったと著者は評価する。実力養成論の内容は教育と産業の振興にあり、教育振興論では実業教育と科学教育が強調され、旧韓末のような国家意識や民族魂を鼓吹する教育論は影をひそめてしまった。また産業振興論では地主資本の産業資本への転化による「上からの資本主義化」が構想される一方、自給自足を通じた民族資本の成長をめざし、一九一五年には朝鮮産織奨励契が設立された。この組織は日本の弾圧を受けただちに解散させられたものの、その理念は一九一八、一九年の企業設立運動に引き継がれていく。

 またこの時期、新知識層は旧思想・旧慣習の改革によって、実力養成の土台となる社会的条件をつくり出そうとした。彼らは儒教を時代遅れのものと批判し、これにかわって西洋の新思想や国粋思想をもつことを主張する一方、両班制度・婚姻制度・祖先崇拝に見られる旧慣習にも批判を加えた。著者によれば、これら新知識層の実力養成論、旧思想・旧慣習改革論は、究極的目標として「独立」をめざしたものであり、李光洙・閔元植・兪萬兼など親日知識人による「同化主義的実力養成論」「文明開化主義的社会改良論」とは区別されるべきであるという。

 一九一〇年代の実力養成論と旧思想・旧慣習改革論は、一九二〇年代初頭の「文化運動」によって実行に移された。三・一運動直後に優勢であった、アメリカをおもな標的とする外交運動論の非現実性が明らかになるにつれ、アメリカへの幻想を捨て、将来の独立に備えるべく「文化運動論」が唱えられるようになったというのである。著者はこの運動の社会経済的基盤を、会社令の撤廃などで新たに登場してきた「民族資本」に求めようとする。 「文化運動論」は新文化建設・実力養成、精神改造・民族改造をその理論的支柱としていたという。第一次世界大戦終結前後より、正義・人道、自由・平等を標榜して世界的に流行した「世界改造論」は、朝鮮においては新文化建設論の台頭を促した。当初それは近代社会への「改造」を漠然と志向するレベルにとどまっていたが、「世界改造」への展望が次第に失われると、再び台頭した社会進化論にもとづく実力養成論がこれを補強し、新文化の建設は資本主義的文明の樹立を意味するものと認識されるに至った。そのイデオローグの役割を担ったのが、宋鎭禹を中心とする『東亜日報』である。他方精神改造論は、この時期日本より伝わった、個人の内的改造を強調する「文化主義哲学」の影響を受け、朝鮮社会「改造」のため知・徳・体の涵養を通じた人格修養を重視した。精神改造論は一九二二年ごろ朝鮮人の民族性を批判する民族改造論へと進展し、その主唱者である李光洙は安昌浩の意を承け、民族改造論の実践のため修養同盟会を結成している。

 さてこのような論理のもとに展開された「文化運動」を、著者は青年会運動、教育振興運動、物産奨励運動に分けて論じている。一九一九年末から一九二〇年末ころまで、新文化建設のための中心的組織として全国各地に結成された青年会は、人格修養、風俗改良、農村改良などを目的に設立され、主要事業として講演会、討論会、夜学講習会、運動会などを開催した。『東亜日報』の提案に応え、一九二〇年一二月には二二四の青年会が参加して朝鮮青年会連合会が結成されるが、この団体の役員であった安廓・張道秀・李秉祚らは同会の非政治性を強調し、改良主義的な修養団体としての性格を明確にした。一方総督府では青年会運動を「穏健な方向」へ誘導すべく対策を講じるとともに、自ら官製青年会の組織に乗り出して、この運動を完全に体制内的な性格に変質させようとした。

 教育振興運動の理論的根拠たる新教育普及論は、もともと新文化建設論との関連のもと、新知識の習得と人格向上を目的に提唱されたものだが、のちには実力養成の主要手段としての役割が強調されるようになったという。そして三・一運動後に「向学熱」が急速に高まると、各学校への入学志願者が増加したにもかかわらず、学校不足が解消されなかったため、教育振興運動はさしあたり各種学校設立運動、準学校教育運動として展開されていった。このうち最初に着手された私立普通学校・私立普通高等学校設立運動は、総督府により学校設立条件が強化されていたためほとんど成果をあげることができなかった。民間の募金による大学設立をめざした民立大学期成運動は、『東亜日報』の積極的支援のもと、一九二二年三月に結成された民立大学期成会がその推進主体となるが、この運動は当時影響力を増しつつあった社会主義勢力に対抗する、ブルジョア民族主義陣営の牽制策としての性格をももっていた。しかし地方組織の中核となるべき青年会の多くが、この時期社会主義路線へと方向転換しつつあったため、下部組織を欠いたまま運動を展開せざるをえず、募金活動の不調もあいまって、この運動は一九二四年夏に事実上中断された。一方、学校に通えない者を対象に、書堂の改良(漢文だけでなく朝鮮語・日本語・算術なども教える)、昼夜学講習会の設置(昼間は児童、夜間は労働者・農民を対象とする)がすすめられ、とくに改良書堂は初等教育に大きな比重を占めるようになったが、これら準学校教育の内容は官憲側の設置する講習会ととくに差がなく、著者はこれを「民族教育運動」と性格づけることには消極的である。

 最後に物産奨励運動は、政治的権利を主張する前に経済上の実力を養わねばならないとする「経済的実力養成論」にもとづき展開された。しかし著者によれば、この「経済的実力養成運動論」は究極的な経済的・政治的独立を目標としつつ、一方で総督府の支援を期待する、二律背反的な性格が内包されていたという。著者はこれを当時朝鮮の民族ブルジョアジーが置かれていた状況−経済的基盤の脆弱さと、それにともなう彼らの「動揺性」「妥協性」が反映されたものと主張する。著者は物産奨励運動を、「民族資本家上層」とその主張を代弁する実力養成運動論者が主導し、「民族資本家下層」「小ブルジョア階級」を代弁する「民族主義左派」も参加して展開された運動と規定するが、この時期民族ブルジョアジーが朝鮮民衆に目を向け、物産奨励運動を提唱したのは、総督府の支援を受けられなかった彼らが植民地権力への期待を放棄したからだというのである。この運動は一九二二年六月、まず平壌で*晩植らが朝鮮物産奨励組合を組織したのを皮切りに、同年一〇月に日朝間の関税廃止決定が報道されたことで各地に拡散、翌二三年一月のソウルにおける朝鮮物産奨励会の設立(理事長は兪星濬)以降、本格的に展開されはじめた。物産奨励運動はまず土産品(国産品)愛用の大衆啓蒙に重点を置き、その結果、一時的にではあれ、朝鮮物産の消費が大きく刺激された。しかしこの運動は外貨(外国商品)排斥を主張するものではなく、日本の支配を前提に「民族資本」の成長をめざしたものであり、運動の是非をめぐって社会主義者との間に激しい論争が展開された。そして「民族資本」の競争力不足は、土産品愛用で得られた利益を設備投資に向けることができずにむしろ物価上昇を招き、加えて社会主義者からの猛烈な非難が運動の組織力を弱めたため、早くも一九二三年夏には運動の熱気は冷めてしまった。こうして二四年初めの朝鮮物産奨励会一周年記念講演会を最後に、物産奨励運動は事実上頓挫したのである。

 以上のようにして「文化運動」の三つの流れ−青年会運動、教育振興運動、物産奨励運動は結局すべて挫折したわけであるが、総督府権力はこれを体制内的運動、さらには親日御用的な運動へと誘導しようと試み、実際に相当の成果を収めたという。しかし「文化運動」失敗の本質的原因は、運動自体がもっていた改良主義的路線にあったと著者は指摘する。すなわち精神改造・民族改造運動は、独立運動と言うより究極的には近代市民社会の建設をめざす運動であった。また実力養成運動も、当時の「民族資本」の「抵抗」と「妥協」の間を「動揺」する立場に規定され、彼らの唱える「準備論」(独立の機会に備える)も現実の中ではとくに意味をもたなかった。「文化運動」が挫折し、また社会主義運動・労働運動が高揚してくると、危機感をもった「民族資本家上層」と「民族主義右派」は植民地権力に接近し、総督府により積極的な保護を求める一方、今度は政治的側面での実力養成を唱えて「自治運動」を繰り広げるようになった。

 一九二〇年代中盤より一九三〇年代初めにかけて展開された「自治運動」を、著者は三つの段階に分けて説明する。第一次「自治運動」は、民立大学期成運動と物産奨励運動が挫折した直後の一九二三年末から二四年にかけて繰り広げられ、国内の宋鎭禹・金性洙ら東亜日報系、崔麟を中心とする天道教系に、国外の安昌浩などが連携し、独立運動に到達する準備段階としての自治権獲得運動として、合法的な政治結社を結成しようとしたものであった。しかしこの動きは非妥協的民族主義者と社会主義者の猛烈な反発に遭い、失敗に終わった。

 第二次「自治運動」は一九二五年末より二七年にかけて展開された。「併合」以降、日本の朝鮮支配政策の基調原理は同化主義(内地延長主義)にあったが、この時期に至り総督府は民族運動の分裂と植民地支配の安定的運営のために自治制を検討し、また一部日本人も同様の趣旨から自治論を提唱していた。これに刺激される形で崔麟を中心に、東亜日報系をも包摂してすすめられたのが第二次「自治運動」である。この動きに危機意識を感じた非妥協的民族主義者は、社会主義者と連携して新幹会を誕生させた。しかし総督府の自治案は、内地延長主義に固執する日本政府の反対で実現に至らなかったため、朝鮮人側の「自治運動論」もしばらく影をひそめることになった。

 第三次「自治運動」は、斎藤実総督の再任を契機に一九二九年より三二年にかけて、もっとも拡大された勢力のもとで展開された段階である。崔麟ら天道教新派を中核とするグループ(組織としては天道教青年党、朝鮮農民社など)と東亜日報系に、安昌浩の指導する修養同友会とキリスト教の一部勢力(信友会)を加え、新幹会本部の幹部(金炳魯・朴文熹ら)と朝鮮青年総同盟の中央幹部(金在翰・李恒發ら)も「合法運動」「当面利益獲得運動」を提唱して「自治運動」への方向転換を模索したという。しかし一九三一年、斎藤実にかわって宇垣一成が新総督に就任し、また「満州事変」が勃発するなど、朝鮮をとりまく内外情勢が変化すると「自治運動論」は退潮に向かった。以後「自治運動」論者は、その親日的な性向を露骨に表面化させていくことになる。

 「自治運動論」は、独立の機会に備える準備が必要であるとする「準備論」と、独立を達成する一段階としての自治権獲得をめざす「段階的運動論」から構成されていたが、これはかつてブルジョア民族主義右派の唱えた実力養成運動論を政治的側面にまで拡大させたものと著者は見る。すなわちこの運動は経済的・文化的実力養成運動が限界に突き当たった段階で、総督府権力に隷属化した「民族資本最上層」と、その立場を代弁する「民族主義右派」中の妥協主義者たちが、民族運動の目標を「独立」から「自治」に引き下げて植民地権力との妥協をはかった運動と評価するのである。一方、斎藤実総督をはじめとする一部の植民地権力者も、同化主義的な支配政策の限界を認識して自治制に方向転換すべきと考えたため、「同床異夢」ながらも両者の利害関係が合致して生まれた運動であったというのが著者の見解である。

 以上、旧韓末より一九三〇年代初頭までの実力養成運動論と、これにもとづき展開された「文化運動」「自治運動」について概観した。著者はこれまで述べてきたところを結論部分で次のように総括している。まず実力養成運動論は、もともと帝国主義者の植民主義理論たる社会進化論的世界観にもとづき、朝鮮民族は自ら力量を養わなければ−換言すれば資本主義文明を樹立しなければ、独立は不可能であると主張した。そして脆弱な段階にありながらも資本蓄積に対する欲求を発動させようとしていた資産階級は、植民地支配という状況のもとで、経済的には「自立的発展」と「従属的発展」の間で、政治的には「抵抗」と「投降」の間で動揺せざるを得ず、彼らが自らを合理化できる唯一の論理がほかならぬ実力養成運動論であった。要するに「実力養成運動論は、外から与えられた植民主義の論理が、内から表出される新興資本階級の資本蓄積欲求と結合し、内在化しつつ現れたもの」(三八二頁)と評価できる。

 一方、実力養成運動論に立脚して展開された「文化運動」は、朝鮮社会の近代化という側面だけを考えれば一定の意義を認めうるものの、植民地統治下におけるその限界性を認識できなかったがゆえに、また資本主義文明の樹立が一次的目標に設定され、独立は二次的目標にとどまったがゆえに、運動の進展にともない妥協主義的な性格が濃厚となっていった。そして「文化運動」の延長線上で繰り広げられた「自治運動」は、隷属資本へと転化しつつあった「民族資本最上層」と、政治的欲求の充足を求める一部の妥協主義者が、植民地権力との野合のもとに展開された運動という側面をもっていた。結局「〈文化運動〉と〈自治運動〉は、植民地・従属国一般にみられるブルジョア民族主義右派運動の、改良主義的で妥協主義的な性格を典型的に示したもの」(三八三〜三八四頁)だったのである。

 冒頭でも触れたように、本書はこれまで研究の手薄であった一九二〇年代「民族主義右派」(妥協的民族主義者)の政治活動を本格的に扱った研究書として、大きな意義をもっている。また「民族主義右派」による「文化運動」「自治運動」の思想的源流を、旧韓末の「自強運動論」、一九一〇年代の実力養成論および旧思想・旧慣習改革論に遡って、その歴史的な形成過程を究明しようとした点は、先のロビンソンの著書とも通じるところがあり興味深い。本書は実力養成運動論の展開過程を、膨大な史料を駆使しつつ体系的に論ずべく努めており、本書によって新たに提示された歴史的事実もきわめて多い。韓国の新鋭研究者たちによって積み重ねられてきた真摯な研究活動が、このような水準の高い研究書を生む段階に至ったことを読者の一人として喜びたい。

 しかしながら率直に言って、本書を読みながら著者の論理展開にさまざまな疑問を感じたことも事実である。本書の扱う領域に関して論評できるような能力は私にはなく、充分な批評となりえないことをご了解いただいたうえで、以下思いつつくままに疑問点を述べておきたい。

 まず問題となるのは、旧韓末の「自強運動」を扱った第一章と、第二章以下の叙述に連関性が薄い点である。これは実は著者も充分承知しているところであって、そのため本書の第二〜四章だけを博士学位論文として提出したと述べているが(四頁)、元来の構想を復元した形で刊行された本書においても、結局その弱点は克服できなかったように思う。 もちろん著者は「自強運動」のなかで「大韓協会系列」の政党政治論が一九二〇年代中盤以降に台頭した自治論の先駆となったこと、「青年学友会系列」の人格修養論も二〇年代以降の民族改造論に発展していったことなどを指摘してはいる。しかしそれは、表面的な議論の類似性や人的つながりから導かれた印象論以上のものではなく、それぞれの論議の内容を比較、分析しながら継承、発展の過程を明らかにしたわけではない。また著者の指摘にしたがえば、旧韓末の「自強運動家」は一九一〇年代に大部分が運動から離れ、この時期の実力養成論の主力となったのは、むしろ新たに登場した留学生を中心とする新知識層であったから、かりに「大韓協会系列」中の天道教系の組織が維持され、「青年学友会系列」の人物が一定の活動を見せていたにしても、「自強運動」の理念が一九一〇年代の実力養成論にどこまで反映されたかは、なお検討を要する課題と言える。

 そして以上の問題は、そもそも著者の用いる「自強運動」という概念が、果たして妥当なものかを考えさせることになる。本書の一節に「〈自強運動〉は当時実力養成という意味で使用されていた〈自強〉という用語を借用してつけた名前である」(一八頁)とあるとおり、著者が「自強」を「実力養成」という意味にとらえていることは、すでに触れたところである(しかも本書の文脈にしたがえば「実力養成運動論」の実体はほぼ一貫して「先実力養成・後独立論」にほかならない)。ところが著者は「先実力養成・後独立論」を放棄し「先独立論」へと転換した「大韓毎日申報系列」をも「自強運動」の一系列とみなし、また新民会を「韓末自強運動団体のなかで最も核心的なもの」(八三頁、傍点引用者)と評価しながら、その活動をとりわけ独立軍基地建設運動にスタンスを置いて紹介するなど、明らかに「自強」という語に単純な「実力養成」(すなわち「先実力養成・後独立」)以上の意味づけをおこなっているのである。

 このような「自強」という語に対する概念規定の曖昧さは、結局一九一〇年代以降の実力養成運動論の源流を、いわゆる「愛国啓蒙運動」(=著者の言う「自強運動」)に求めようとする本書の基本的立場に由来するものと思われる。著者は旧韓末の愛国啓蒙運動がさまざまな内容の主張を内包していた点に注目し、これを四つの系列に分けて説明するという意義ある作業をおこなったにもかかわらず、各系列の主張がそれぞれその後どのような運動論に継承されていくのかを−全く念頭に置いていないわけではないが−充分論じることなく、これらをすべて一括して実力養成運動の先駆に漠然と位置づけてしまった。本書の主題からは離れるが、これは愛国啓蒙運動における多様な主張のうち、植民地期の実力養成運動論に収斂されなかった部分−近代主義とは異なった方向への発展の可能性を秘めた部分を認識しながらも、結局さほど重要視しなかったということであろう。この点から、愛国啓蒙運動の主張を類型化し、その延長線上に三・一運動期の思想状況を展望した月脚達彦氏の論稿(「愛国啓蒙運動の文明観・日本観」『朝鮮史研究会論文集』第二六集、一九八九年三月)に、著者が一言も言及していないのは残念というほかない。

 もう一つ疑問に感じるのは、実力養成運動論の主体となった「民族主義右派」の性格、階級基盤に対する著者の把握についてである。著者が「民族主義右派」の階級基盤とする「民族資本家上層」に関し、すでに池秀傑氏は次のようにその問題点を指摘しておられる。

本書は資本金規模と雇用労働力の数を基準にして、資本金二〇万円以下、雇用労働力二〇〇人以下の中小資本家を民族資本家に、そして民族資本家をさらに資本金五〜二〇万円、雇用労働力五〇〜二〇〇名の民族資本家上層と、それ以下の民族資本家下層に区分される(一九〇頁)と見るが、これはあまりに便宜的で主観的な規定である。/[中略]さらに一九二四年ごろから本格化した自治運動の階級的基盤を説明しながら本書はまた「民族資本家最上層」という表現(二八八〜二八九頁)を使っているが、これもしっくりとした適切な表現ではないと感じる。/本書の主張をそのまま受け入れるならば、自治運動が展開される時期に至るとブルジョア民族主義内部には、@自治論を主張する「民族資本家最上層」と、A自治論に傾かず依然、経済的・文化的実力養成だけを主張する一部の「民族資本家上層」と、B自治論に反対し、非妥協的な自治運動を主張した「民族資本家下層」が存在したと見なければならない。[中略]民族資本家を、資本の所有規模や雇用労働者の数を基準に、最上層・上層・下層に細分することは、経済決定論的な視角を過度に介入させた一般化である(前掲「〈先実力養成・後独立論〉の実像と虚像」三六二〜三六三頁。なお引用文中の頁数は本書の該当頁を示す)。

 以上のような池秀傑氏の批判に私も同感であるが、さらに若干の問題点をつけ加え、著者の「民族主義右派」に対する性格規定がいまだ曖昧な範疇にとどまっていることを指摘したい。

 第一に、池秀傑氏が指摘するように、著者は「自治運動」を主導した階級を「民族資本家最上層」と表現しているが、さらに「自治運動」を展開した政治勢力として「ブルジョア民族主義右派のなかでも日帝の政治的支配を不可避の現実と認定し、日帝権力に妥協する側に大きく傾いた者たち」(三五六頁)を挙げている。これは本書の文脈から考えて「民族資本家最上層」の政治的主張を代弁する勢力として位置づけられるべきものであろう。しかし本書では「ブルジョア民族主義右派」と「妥協的民族主義者」は、ほぼ同義語として扱われているのだから「ブルジョア民族主義右派のなかでも……日帝権力に妥協する側に大きく傾いた者たち」とは「妥協的民族主義者のなかでもとくに妥協的な者たち」という、あまり意味のない規定にすぎない。著者がこのような苦しい表現を用いたのは「附日輩」(職業的親日分子)=同化主義論者という前提のもとで、「自治論者」を「附日輩」ないし「親日派」と区別する必要があるからと思われる。その意図は充分理解できるが、それにしてもあまりに粗雑な規定と言わざるをえない。

 以上の点とも関連し、第二に著者は「民族主義右派」と「附日輩」「親日派」は明確に区別されるものと繰り返し強調している。しかし著者が一九一〇年代の李光洙の主張を「親日派」の代表としてとりあげながら「文化運動」段階においては彼の「民族改造論」を「民族主義右派」の立場に立つ主張として掲げているのはどうしたことだろうか。また李光洙の活動は、当時国外に亡命中であった安昌浩の意をくみとって展開されたものだったのだから、李光洙を「親日派」と規定する以上、安昌浩も「親日派」に分類してしかるべきであろう。しかし本書はそういう立場をとらず「自治運動」段階における安昌浩の活動を「民族主義右派」の範疇にとどめているのはどうしてだろうか。

 第三に、著者は植民地・従属国において「民族資本」が「抵抗」と「妥協」の間で「動揺」する存在であることを繰り返し強調する(これは毛沢東『中国革命と中国共産党』一九三九年、が示した、民族ブルジョアジーの二重性に関する規定――ある時期には革命の一つの原動力となりうるが、ある時期には反革命の手助けをする危険もある――にもとづく理解であろう。なお植民地朝鮮における「民族資本」概念定立の是非をめぐっては論争が進行中であるが、本稿でこれに触れる余裕はなく、ここでは著者の論理展開の可否を検討するにとどめる)。しかし本書において「民族資本」の「動揺」とは、もっぱら「民族主義右派」とその階級基盤たる「民族資本家上層」の行動様式を説明する論理として用いられている。著者は「民族資本」の登場する時期を一九一〇年代末から二〇年代初頭ごろに設定しているようであり、とすれば「民族主義右派」が比較的「抵抗」的な姿勢を見せたのは、民衆の闘争力量が示された三・一運動直後−二〇年代初頭「文化運動」期のごく短い期間だけであって、その後は一貫して植民地権力に接近する方向で政治活動を繰り広げている。これは果たして「動揺」と言えるものなのだろうか。本書の内容においてむしろ「動揺」と呼ぶにふさわしいのは、第三次「自治運動」への参加を模索した新幹会や朝鮮青年総同盟の幹部――著者の分類にしたがえば「民族主義左派」とその階級基盤である「民族資本家下層」――の行動ではなかろうか。本書の「動揺」の論理は「民族資本」に「革命の一つの原動力」としての役割を期待するより、「民族主義右派」の行動様式の根拠を曖昧にする機能を果たしたように感じる。なお付言すれば、三次にわたる「自治運動」中、あえて「運動」と評価しうる段階は第三次のみであり、第一次・第二次「自治運動」は単なる政界の裏工作にすぎないという印象であるが、いかがなものだろうか。

 以上、大きく二点にわたって本書に対する感想を述べてきたが、結局これらは著者の使用する用語の混乱、相互矛盾に関わる問題ということができる。そしてそれはおそらく各政治勢力の性格を階級基盤と結びつけるうえで、あまりに単純化した図式を適用したためと思われる。各政治勢力の階級基盤を解明する作業は当然なされるべき課題に違いないが、同時に過度に図式的な分類方式が民族解放運動の内包する、多様で豊富な内容を切り捨てる方向に収斂されないか、一抹の不安も感じるのである。

 いささか辛口の批評となったが、本書の刊行された意義は先にも述べたとおり非常に大きなものがある。一九二〇年代の改良主義的な運動路線に関する研究は、今後本書の提示した枠組みを基調に展開されるであろう。本書の理解に関し、私の未熟さのために誤解した箇所があればご寛恕を請うとともに、今後の著者の一層のご活躍をお祈りしたい。

『朝鮮民族運動史研究』第9号、1993年9月


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