編集部から甲午農民戦争についての原稿を依頼されたとき、真っ先に思い浮かんだのは白山から望んだ湖南平野の風景だった。今から百年前、緑豆(ノクトゥ)将軍・全琫準ひきいる農民軍が本陣をかまえた白山。国鉄の新泰仁駅からほど近いところにあるこの山を私が訪れたのは、九一年の秋も終わりに近づいたころだった。それは山と言うより小高い丘に近い、意外に低いものだったが、頂きから視界をさえぎるものは何もなく、見わたす限り晩秋の田園風景が広がっている。なるほど農民軍の根拠地として、四方の敵の動きをにらむにうってつけの場所だったろう。農民戦争の指導者・全琫準の住居が井邑郡梨坪面に復元され、最初の戦勝地・黄土峴には立派な記念碑や展示館が建てられていたが、私に百年前の戦乱をしのばせてくれたのは、むしろこの白山からの眺めだった。

 甲午農民戦争(かつては「東学党の乱」とよばれた)は、決して偶発的に起こった事件ではない。すでに命脈尽きかけていた王朝権力のもとで、農民からの収奪は過酷なものとなり、開国(一八七六年)がもたらしたインフレーションは民衆の生活苦にいっそう拍車をかけた。国家は民衆を統制する力を急速に失い、朝鮮の一九世紀は「民乱の世紀」と呼ばれるほど、各地で農民反乱が頻発した時代であった。そして民衆宗教としての東学は、人間の平等と世直しを訴えることで、地域ごとバラバラにくりひろげられていた民乱を、一つにまとめあげる理念と組織を提供した。有能な指導者が周到な準備をもって挙兵すれば、朝鮮全土にいっせいに反乱の火の手が上がる条件は、充分に整っていたのである。

 小柄ながら頑強なからだつきから、緑豆将軍と称された農民戦争の最高指導者・全琫準(一八五五〜一八九五)。没落両班の出身と言われる彼の生涯には分からないところが多いが、出生地は農民戦争の震源地に近い、全羅北道高敞郡高敞邑徳井里とする説が有力である。貧困のため、彼は二〇代から三〇代前半まで各地を転々とするが、その間、志を同じくする者たちと親交をむすび、その多くはのちに彼とともに挙兵することになる。一八九〇年ごろ東学に入教した全琫準は、やがて全羅北道古阜郡(現在は井邑郡の一部)に定着、九二年より古阜接主(「接主」とは東学地方組織の責任者のこと)として、この地方一帯の教団組織をひきいることになった。

 このころ東学教団の主流派は、反逆者として処刑された教祖・崔済愚のぬれぎぬを晴らし、東学の布教を合法化させるための運動を展開中であった。忠清道に根拠をおき「北接」とよばれた彼らは、一八九二年一二月、全羅北道の参礼駅で数千人規模の集会を主催したあと、翌九三年三月には四〇名の代表者をソウルに送りこみ、景福宮の門前で三日三晩、伏して国王に直接陳情するという行動に出た。しかし東学の活動はこのような「穏健な」手段にとどまらなかった。時を同じくしてソウルの各国公使館には「荷物をまとめてさっさと国に帰れ、さもなくば、きさまらを攻撃するから覚悟せよ」という内容のビラが張りつけられたのである。

 最近の研究によれば、この掛書事件は「北接」の陳情路線に不満をもち、直接行動を主張する「南接」(全羅道を根拠地域とする)系統のグループが仕掛けたものであり、しかもこれを主導した人物がほかならぬ全琫準であったという。それはともかく、この事件をきっかけに東学の運動は「反侵略」という明確な政治スローガンを旗印に掲げることで、中央政府との対決姿勢を急速に強めていくことになった。

 こうして四月に忠清北道の報恩で開かれた二万人の集会は、開催を呼びかけた北接幹部のもくろみを越え、無数の「斥倭洋」(日本や西洋を追い払え)の旗がはためく、きわめて政治的な色彩の強いものとなった。集会にもぐりこんだ南接系活動家の主張が、参加者に共感をもって受け入れられたのであろう。しかし政府との衝突をおそれた北接幹部は、政府特使として派遣された開化派の俊英・魚允中の説得に応じ、集会を解散してしまった。

 ところが同じころ全羅北道の院坪では、南接がもう一つの集会を開いていた。ここでは政府に対し、徹底抗戦を叫ぶ声が圧倒的であり、集会を主導した全琫準は、報恩での動きをにらみつつ、集会参加者を一挙にソウルに向けて進撃させる計画をたてていた。報恩集会の解散で、この方針が実行されずに終わると、全琫準はみずからの拠点・古阜で挙兵するため、各地の状況を視察し、同志の糾合を急いだ。どこかで点火しさえすれば、燎原の火のごとく、全国に革命の炎が燃えひろがることを確信しながら。

 朝鮮随一の穀倉地帯・湖南平野の中でも、とりわけ豊かな地域として知られた古阜。この地を縦断する東津江のほとりに、いま「万石洑遺址碑」と記された石碑が、ひっそりと建っている。「洑」とは灌漑用の堰と水路のことで、農民を駆り立て、ここに新しい水利施設をつくった当時の古阜郡守・趙秉甲は、いざこれが完成すると、農民に高い使用料を強要するなどして、私腹をこやしていた。万石洑は郡守趙秉甲に対する古阜郡民の怨みの象徴として、今日に伝えられているのである。

 一八九三年末、全琫準を中心とする古阜の農民指導者たちは、各地に檄文を送り、彼らの定めた四項目の行動目標を伝えた。

  一、古阜城を撃破し、郡守趙秉甲をさらし首にすること

  一、武器庫と火薬庫を占領すること

  一、郡守に媚びへつらい、人民を苦しめた下級役人を厳しく懲らしめること

  一、全州監営(全羅道の行政府)を陥落し、ソウルにただちに向かうこと

 「全州監営を陥落し、ソウルにただちに向かうこと」。古阜での蜂起は、この大目標に向けての第一歩であった。

 明けて一八九四年二月一五日、全琫準ひきいる千名の農民は、ついに古阜の郡役所を襲撃した。彼らは長年の苛斂誅求のもとになった徴税台帳を焼き捨て、牢獄に閉じ込められていた罪なき人びとを解放した。逃亡した趙秉甲は郡守の職を解かれ、新任郡守が悪政を改めることを約束したため、農民たちはひとまず解散した。しかしやがて派遣された政府の特使は、蜂起に参加した農民を処罰し、その財産を奪い取ろうと画策した。農民たちの怒りが頂点に達したとき、茂長で再挙兵の準備を進めていた全琫準は、直属の兵をひきいて白山に陣をはり、全羅道全域に向けて決起の檄を飛ばした。四月下旬のことである。

 全琫準の部隊は五月四日、古阜・泰仁の武器庫を襲い、ここに農民蜂起は本格的な革命戦争へと発展した。全琫準の檄にこたえ各地から集結した農民たちで、白山はさながら梁山泊のような活気ある雰囲気につつまれた。農民軍は白山に「湖南倡義所」という名の本陣をかまえ、全琫準はその最高指揮官に選ばれた。副官には、南接幹部の中でも最も人望の厚い孫和中(または孫化中)と、全琫準が放浪中に親交をむすんだ古くからの盟友・金開南が就任した。そしてこのとき発表された農民軍の行動目標も「ソウルに進撃し、特権貴族を滅ぼせ」とむすばれていた。

 白山を中心に活動をはじめた農民軍に対し、全羅道監営は急ぎ数千の兵を派遣、両者は五月一四日、古阜の東方に位置する黄土峴という峠であいまみえた。この最初の本格的な戦闘に農民軍は圧勝し、勢いづいた彼らは茂長、霊光、咸平、羅州と南下しながら各地を制圧、さらにきびすを返して全羅道の首府・全州に向け、北上を始めた。一方、黄土峴での敗北に衝撃を受けた中央政府は、近代的装備でかためた当時の最精鋭部隊を送りこみ、五月二七日にその先発部隊が長城郡の黄龍村で農民軍と対戦した。しかしこの戦闘でも農民軍は完勝し、五月三一日には一万名の農民軍が全州に無血入城した。

 農民軍による全州占領は、中央政府に大きなショックと恐怖をもって受け入れられた。過去二度、清国の軍事介入で命脈を保った経験をもつ当時の政権は、今度もとばかり、躊躇なく清国に出兵を要請した。しかしこれは朝鮮の行く先を誤らせる決定的な失策であった。朝鮮支配の機会をうかがっていた日本が、清国の派兵を口実に、朝鮮に兵を送りこんできたのである。

 事態が思わぬ方向へ進展したことにあわてた朝鮮政府は、農民軍との妥協に転じた。六月一〇日、両者の間に全州和約が締結され、腐敗官僚の処断、身分制の否定、人材の登用、土地の均等な分配など、農民軍の改革要求が全面的に受け入れられた。こうして農民軍はひとまず解散したが、これらの改革を実行するため、全羅道各地に執綱所という農民の自治権力機構が設置された。全羅道一円という限られた空間ではあったが、朝鮮の歴史において、はじめて農民による自治が実現したのである。

 しかしこの執綱所自治のさなか、ソウルでは日本軍がクーデターを起こして親日的な開化派政権を樹立させ、さらに日清開戦後には、清国軍を完全に朝鮮から追い出すことに成功した。朝鮮は日本による単独占領の危機に直面したのである。日本との対決が避けられないことを知る全琫準は、再蜂起に向け、早くから参礼に農民軍を集結させていた。だが日本軍と戦うためには、対立関係にあった北接の協力が不可欠であった。そして北接との関係修復に一カ月もかかったことが、日本軍に余裕をもって農民軍との戦闘を準備させる結果となった。日本軍と朝鮮政府軍は、農民軍の機先を制し、ソウルへの進路に位置する忠清道の首府・公州に陣取ったのである。

 ようやくにして忠清南道の論山に集結した二万名の南接・北接連合軍は、一一月一九日から二二日にかけ、公州に総攻撃をしかけた。いったんは退却した農民軍だが、一二月四日からの第二次攻撃では、日本軍と政府軍を最後の防衛線・牛金峙にまで追いつめた。しかし農民戦争最大の激戦となったこの戦闘で、農民軍は多数の死傷者を出し、ついに論山へと後退せざるを得なくなった。追走する日本軍・政府軍は論山で農民軍を撃破、全羅道に敗走した全琫準は、本拠地の院坪、泰仁で最後の反撃に出たが、これも失敗に終わった。農民軍を解散した全琫準は、少数の部下と南下しつつ再起をはかっていたが、一二月二八日、全羅北道淳昌郡にひそんでいたところを逮捕され、翌一八九五年の四月二三日に処刑された。日本軍と政府軍は九五年一月まで掃討作戦をくりひろげ、ここに農民戦争は終わりを告げたのである。

 甲午農民戦争は、王朝体制の崩壊、外国勢力の浸透という危機的状況の中で、苛斂誅求に苦しめられていた朝鮮農民が立ち上がり、社会変革に向けてみずからの意志と闘争力量を高らかに示した、朝鮮近代史の大きな転換点であった。一九八〇年代、韓国の民主化運動が進展するなか、甲午農民戦争を近代民衆運動の出発点としてとらえる評価は、すっかり定着した感がある。私たちはやはり、偉大な緑豆将軍をしのんで今も歌いつがれている、あの有名な伝来童謡を思い起こしながら、この文をむすぼう。

  鳥よ 鳥よ 青鳥よ

  緑豆の畠に下り立つな

  緑豆の花がホロホロ散れば

  青餔売り婆さん泣いて行く

    (日本語訳は、金素雲訳編『朝鮮童謡選』岩波文庫、による)

『MILE』第56号、1994年5月


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