朝鮮近代史を学ぶ意味

 『学会報』編集委員の神崎ゆかり先生から「学習の手引き」執筆を依頼されたのは、夏休みも終わりに近づいたころだったと思います。そのときは「どうせ順番にまわってくるものなのだから」と、あと先のことも考えずにお引き受けしたのですが、いざ書く段になると、どうしてもいい知恵が浮かんできません。そのうち他の仕事が忙しくなり、全く原稿に手をつけられずにいるうちに、締切日を大幅に過ぎてしまいました。結局こうして大した考えもまとまらないまま、ワープロと睨めっこするはめとなりました。

 いろいろと言い訳は出来るのですが、私が「学習の手引き」なるものを書けないのは、要するに大阪産業大学の学生の皆さんに、どうしたら自分の考えていることをうまく伝えることができるのかが、まだよく分からないということだと思います。大学の一般教育とは、専門課程に進む前段階の学生さんに、幅広く学問の手ほどきをすることで、社会生活の糧となる教養を身につけていただく場であると、私自身は漠然と理解しています。私の担当する歴史学の場合も当然そうあるべきでしょうが、実際のところ私の日朝関係史・朝鮮近代史の授業では、基本的な事実関係を多く紹介することに重点をおいています。「近くて遠い国」という言葉がよく使われますが、高校までの歴史教育において、この隣国・朝鮮について学ぶ機会は非常に少ないと言わざるを得ません(現在、不幸にして朝鮮半島には北緯三八度線を境界として、南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国という二つの国家が存在していますが、これはもともと一つの国家であったものが南北に分断されている、きわめて不自然な状態です。この文では朝鮮半島に存在すべき統一国家を、一三九二年に李成桂という人が建てた王朝の国号をとって「朝鮮」とよぶことにします)。朝鮮は一九一〇年から四五年にかけての足かけ三六年にわたって、日本の統治下にありましたが、日本の近代にとっても、この朝鮮植民地支配は決定的に重要な意味をもちました。つまり日本という国家、日本人であることの意味を考えるうえで、朝鮮植民地支配の実態を知ることは、非常に大きな手掛かりを与えてくれるものなのですが、残念ながら大半の学生さんは、この点についてほとんど何も知らないし、また関心もないように思います。だから私の授業では、植民地支配を中心とする近代の日本と朝鮮の関係について、まずは基礎的な事実を説明しているわけです。

 とは言え私の力不足のせいか、日本人にとって朝鮮の歴史を知ることがなぜ大事なのかを分かってもらうことは、なかなか簡単ではないようです。とにかくどのような方法を使っても、まず朝鮮(あるいは韓国)について関心をもってもらうように、この文章も書かなければと思うのですが、正直言って適当な材料が見当たらないのです。

 長々と原稿の書けない言い訳を並べてきましたが、結局ここは私にとって最も身近な問題をネタに、皆さんの関心を引くしかないと腹をくくりました。私にとって最も身近な朝鮮(あるいは韓国)と言えば、私の「つれあい」ということになります。プライベートなことを書くのは全く気が進まないのですが、万策尽きた今となっては、恥を忍んで、私たちの生活体験をもとに日本と朝鮮の関係を考えてみることにしましょう。

 私と妻は、私が韓国に留学していたときに知り合い、私の帰国直前に結婚しました。したがって私の国籍は「日本」、妻の国籍は「韓国」ということになります。ときどき日本人と結婚して日本にやって来たのだから、妻の国籍も自動的に「日本」に変更になると考える方がおられますが、たとえ日本人の配偶者であっても、日本の法務省はそんなにたやすく外国人に対して日本国籍を与えはしません。妻は日本に来てすでに一年七カ月になりますが、最初は三カ月間滞在許可のビザで入国し、一年に限って在留期限が延長され、さらにこれを一年延長して現在にいたっています。一年ごとの在留期限の更新が、やがて三年ごとになり、こうした「実績」を積んで、はじめて永住許可が認められます。日本国籍を取得できるのは、さらにその後ということになります(もっとも今のところ妻も私も、妻の国籍を「日本」に変更することは考えていません)。

 妻は韓国人ですから、私たちは夫婦で姓が違います。いま話題になっている「夫婦別姓」というわけですが、これも一般の日本人にはなかなか理解してもらえず、何か「正式の」夫婦でないように思われるようです。日本や西欧諸国のように夫婦が同じ姓を名のるのとは違って、朝鮮や中国では男女とも結婚以前の姓をそのまま使用します。国籍が「韓国」である妻は当然、韓国の民法の適用を受けますから、従来通りの姓を名のることになります。今の日本で「合法的に」夫婦別姓が認められている、ほとんど唯一のケースでしょう。

 私が妻の日本国籍取得(いわゆる日本への「帰化」)に消極的な理由は、過去の日本による朝鮮植民地支配がどのようなものであったかを知っているからです。一九一〇年の日韓「併合」で当時の大韓帝国(一八九七年に李氏朝鮮王朝は国号を「韓国」に改めます。歴史上これを「大韓帝国」とよんでいます)は日本の植民地となり、朝鮮人はすべて自国の国籍を失って日本国籍を押しつけられることになります。日本の統治政策によって土地を失った朝鮮の農民たちは、ロシアの沿海州へ、中国東北地方(「満州」)へ、また日本へと移り住んでいきます。とくに戦時期には日本国内の労働力不足を補うため、朝鮮人が鉱山や軍事施設に強制連行された結果、一九四五年の時点で在日朝鮮人の人口は二〇〇万人を超えるまでに急増します。日本の敗戦で朝鮮は独立し、朝鮮人は日本国籍から離脱しますが、在日朝鮮人のなかには、生活の基盤が日本にあって帰国しても生計を立てられる見込みがなかったり、また祖国の南北分断、朝鮮戦争の勃発などの混乱を避けるなどの理由で、日本に残ることになった人も多数いました。現在日本にいる七〇万人ほどの韓国・朝鮮人は、このような人たちとその子孫が圧倒的多数です。なかには日本国籍を取得した人もいますが、大半は日本への「帰化」を拒んでいるわけです。何代にもわたって外国に定住しながら、その国の国籍を取得しないのは、実は世界的に見ても特異なケースなのですが、それだけ彼らにとって、日本での生活はみずから望んではじまったものではない、朝鮮民族のアイデンティティーを維持していきたい、という思いの強さを示すものと言えるでしょう。私は日本社会のなかで差別を受けながらも、朝鮮民族としての誇りを大切にして生きてこられた在日朝鮮人の方に、数多く出会ってきました。妻が「日本人」となることを私が望まないのは、こういった事情があるからです。

 ところで日本国籍の取得は拒否しても、日本式の氏名(これを「通名」と言います)を名のっている在日朝鮮人はたくさんいます。これは、日本社会に根強い朝鮮人差別が存在しているため、自らの生活を維持していくうえでの、やむを得ない自己防衛手段であったと言えるでしょう。ただここで注意しなければならないのは、歴史的に見て、朝鮮人が日本名を名のるようになった決定的な契機は、植民地時代におこなわれた「創氏改名」であったということです。「創氏改名」とは、普通、朝鮮人の姓名を日本式にかえさせたこと(たとえば金→金本といった具合に)と理解されていますが、厳密に言うとこれは正確とは言えません。「創氏改名」の最も重要な内容は、朝鮮の伝統的な家族制度を、日本の「家」中心の家族制度に改編するところにあったと言えます。朝鮮の家族制度は、日本の「家」制度とは異なり、父系の血族集団を中核に構成されています。その特徴を簡単に言うと、子は必ず父親の姓を受け継ぎ、祖先の霊をまつるため、男女を問わず、その姓は終生変わることがありません。結婚して夫婦が別姓となるのもこのためで、日本のように妻が夫の名字に変えることなどは絶対にありません。

 日本はこのような朝鮮の家族制度を、日本式の「家」制度に改編しようとしました。「家」の標識である「氏」を新しく設定することによって(「創氏」)、妻を含む一家がすべて同じ名字を名のるようにさせました。このとき新たにつくられた「氏」として、できるだけ日本風の名字をつけさせること、またこれに合わせて名前も日本風のものに変えさせること(「改名」)が奨励されたため、「創氏改名」と言えば朝鮮人の名を奪い、日本風の名につけかえさせたものと理解されているわけです。

 話が少しややこしくなりましたが、ではなぜ日本は朝鮮人に日本式の「家」制度を押しつけようとしたのでしょうか。日本の「家」制度をもっとも純粋な形で維持しているのは「万世一系」の天皇家です。近代の日本では天皇中心の統治体制をつくりあげるため、日本のすべての家族を「ミニ天皇家」に編成しなおす法体系が整えられました。天皇家は全国の「家」の頂点に立つものととらえられ、国民は「臣民」、すなわち家来として天皇に忠誠を尽くすよう求めらました。日本式の「家」制度を朝鮮に導入するということは、植民地朝鮮の津々浦々にまで「ミニ天皇家」をつくりだし、朝鮮人を家族単位で天皇の支配に服させることをねらったと見るべきでしょう。当時の日本は中国との戦争が長期化するなか、朝鮮人をも兵士や「慰安婦」として戦場に駆り出さねばならない状況に追い込まれていました。「家」制度の導入は、朝鮮人を戦争に動員するための文化的装置をつくり出そうとしたものにほかなりません。またこれは逆に日本の「家」制度が、天皇の名のもとに遂行される戦争に人びとを動員するうえで、きわめて有効に機能していたことを示す証拠と言えます。

 ところで私の妻が日本国籍を取得すれば、同時に従来の姓を放棄し、私の名字を名のらなければならなくなります。戦後「家」制度は法的には解体しましたが、日本人の意識のなかには、まだまだ「家」に対する執着が根強く残っています。このような危険な側面をもつ日本の「家」制度のなかに、彼女を巻き込んでいいものでしょうか。私が妻の「帰化」を望まない、もう一つの理由です。

 「創氏改名」の意味を探っているうちに、いつのまにか日本の「家」制度の問題を考えるようになってしまいましたが、実はこうしたことは朝鮮の近代史を勉強する過程でしばしば起こることなのです。外国史を学ぶメリットとして、それまで何の疑問も抱かなかった日本の歴史や文化の特徴を、あらためて認識するようになる点がありますが、日本ときわめて深い関係にある朝鮮の歴史には、そのような材料がとくに多いのです。日本で大政治家のように思われている伊藤博文は、朝鮮人にとっては国を滅ぼした張本人であり、第一級の悪玉です。日清・日露戦争は、日本から見ると世界の「一等国」に伸し上がるきっかけとなった、輝かしい成果かもしれませんが、朝鮮民族から見れば、朝鮮の支配権をめぐる侵略者同士の縄張り争いにすぎません。朝鮮民族の立場に立つことによって、私たちは日本の近代に対する全く違った評価が存在することに気づきます。私たちは朝鮮近代史・日朝関係史を勉強することによって、無意識のうちに自己を相対化する作業をおこなうことになるのです。そして私たちは自らの意思と信じてとった行動が、実は時代状況に大きく規定されていることを――つまり歴史的に規定されていることを知るでしょう。

 自らの独善に陥らないで、客観的に、また謙虚に自己を相対化できる能力。社会生活をいとなむ一個人として、何より重要な資質と言えはしないでしょうか。最後はいささか説教くさくなってしまいましたが、いま話題になっている戦争責任や植民地支配に対する謝罪の問題も、こうした認識が根底にあってこそ、真に意義あるものになると思うのです。隣国の歴史を学ぶことによって、こじれている日韓・日朝関係を望ましい方向へと導くための方策を、一緒に考えてくださればと思います。皆さんのしなやかな感受性に期待しています。

(『大阪産業大学学会報』第26号、1994年2月)


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