(1)前史
a)1920年代半ば、青年会・農民同盟が多数設立
1924(南満)、1925(北満)
南満韓人青年同盟傘下の青年会(1926.12。興京)
b)朝鮮共産党満州総局設立(1926.5) ゙奉岩ら火曜派。寧古塔(吉林省)
┌東満区域局(龍井):崔元沢、金竜洛。最も早くから活動、組織
├北満区域局(依蘭)
└南満区域局(盤石)
27年に組織急速拡大→第2次朝鮮共産党事件裁判への抗議デモ(10.2)→日中警察、28名検挙文書押収(10.3。第1次間島共産党事件)
*以後、各区域局分立。各々「総局」を自称
c)各派の分立
韓相睦(北風会)、総局再組織(28.2)
第2次間島共産党事件
・メーデーデモ(28.5.1)→検挙(5.10)
・国際反帝デーデモ(28.8.1)→検挙(9.2)
金燦再組織:北満中心(阿城県)、火曜派
南満へ勢力拡大、民族主義者と合作。暴動(1930.3.1)→第3次間島共産党事件(4.17)
d)民族唯一党運動:台頭してきた社会主義者も参加(民族主義退潮傾向)
┌国民府(1929.3。興京):朝鮮革命党
│ 傘下に朝鮮革命軍(1929.8)、梁世奉(〜1937)
│
└革新議会(1928.11。吉林)=在満民族党組織策進会
日本の弾圧で自然解散
↓
韓族総連合会(29.7。北満〔海林〕):旧新民府軍政派+無政府主義者
韓国独立党(30.7):韓国独立軍(31.1)、李青天
e)1929年ごろより左右対立
右派は軍閥と協調して左翼弾圧→国民府、韓族総連合会から左翼脱退(勢力弱化)
日本軍の攻撃、共産主義勢力の伸張で33年以降弱体化、38年ごろには消滅
(2)中国共産党への朝鮮人の入党:満州事変以前
a)朝鮮共産党満州総局(1926.5):゙奉岩・金哲勲(火曜派)
│
│日本の弾圧=間島共産党事件([1]27.10、[2]28.5、[3]30.4)
│←コミンテルン第6回大会(1928.7〜9)「一国一党原則」
↓
解体(1930.1)=中共入党:中共満州省委(28.9設立)と合意
中共の指導のもとで中国革命に参加(反帝=帝国主義とそれに結びつく勢力はプロレタリアートの共通の敵)→朝鮮の独立・革命への展望を開く
*解体・入党:30.3ML派、30.6火曜派、30.8ソウル−上海派
│
│李立三路線
↓
b)間島5・30蜂起(1930):中共満州省委による「赤い5月」闘争の一環
龍井で7000名が鉄道、日本領事館、中国人地主、朝鮮人対日協力者を襲撃
旧ML派が満州省委の指示を実践(中共入党のために党方針に対する忠誠を競う)、大衆基盤の分厚さを示す
↓
日本の弾圧(第4次間島共産党事件):大きな犠牲(2000名逮捕、うち死刑32名、投獄391名)
*その後も極左冒険主義的な蜂起が続くが、第5次間島共産党事件(1930.11)あたりを契機に方針修正
c)極左路線修正→組織基盤整備
小規模武装部隊組織、山間奥地に解放地区=ソヴィエト建設、地主の土地没収、貧農に分配
*しかし局地的・分散的
*階級矛盾の強調→抗日各階層の闘争力量を結集できず
(3)東北人民革命軍の成立
a)背景
満州事変(1931.9)→下からの抗日統一戦線(民族・階級)結成の機運
*中共中央:土地革命に固執、抗日より革命優先
*満州省委:下からの統一戦線の動きを追認。しかし中央の硬直性で独自の行動に踏み切れず
b)南満:朝鮮人4%
中共磐石県委員会(1930.8):打狗隊(赤衛隊)、李紅光
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中共満州省委磐石中心県委(1931.8)
書記:全光(呉成崙)、磐東区委書記:李東光(李相俊)、軍事責任者:李紅光
抗日遊撃戦への転換
磐石義勇軍(1932.6):李紅光
↓
南満遊撃隊(1932.11):楊靖宇(満州省委)指導
│
│←「1月書簡(1・26指示信)」(1933)
│分散的な部隊結集、共産党以外の反日部隊も包摂
↓
東北人民革命軍第1軍独立師(1933.9)=抗日パルチザン結成の先駆、朝・中統一戦線のモデル
楊靖宇師長兼政治委員、李紅光参謀長
「赤軍」ではなく「人民革命軍」、ソヴィエト政権ではなく選挙による人民政府樹立、 地主の土地を無差別に没収しない
│
│南下して勢力拡大、他部隊統合
↓
第1軍第1師(李紅光師長、主戦力)・第2師(曹国安)に改編(1934.11)
李紅光部隊(第1師)、東興鎮戦闘(平北厚昌郡、1935.2.13):200余名、深夜に市街戦。日本に衝撃
*李紅光は1935.5に戦死
c)東満
中共満州省委東満特委(1930.10)→各県委(31.4〜8)
秋収暴動(31.9)・春荒暴動(32.3)
遊撃隊組織進展(1931末〜)←満州事変
│
│統合
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東満4県で遊撃隊成立(32末〜33初)=ソヴィエト政府樹立
↓
東満遊撃隊(1933.1)
│
│「1月書簡」=中共満州省委、第1軍に続き第2軍創建指示
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東北人民革命軍第2軍第1独立師(1934.2) 師長:朱鎮(朝)、政治委員:王徳泰
↓
東北人民革命軍第2軍(1935.5):独立師師部を軍部に昇格
軍長:王徳泰、政治委員:魏拯民(東満特委書記)
*1935.10現在、1300名中70%朝鮮人(第3団政治委員:金日成)
*以後、東北人民革命軍は1936年までに第11軍まで編成
朝鮮人多数、第3軍・第4軍には幹部
(4)反「民生団」闘争
a)民生団(1932.2〜10)
親日朝鮮人による間島自治主張(間島の満州からの切り離し)
↓
間島協助会(1934):日本警察の丸抱え組織、遊撃地区に対する懐柔・道案内・帰順誘導・監視
│
│中国人の警戒、疑心暗鬼生む
↓
b)反「民生団」闘争
「民生団」スパイの名目で朝鮮人党員430名粛清(過去に民族主義運動団体で活動、自治のみならず朝鮮独立を唱えただけで)
*以後も粛清続く→革命組織に大打撃、大衆基盤失う→東満遊撃地区壊滅
c)粛正の中止
35年初より見直しの機運:大荒■会議(35.2)、腰営溝会議(汪清県、35.3。第2軍政治委員連席会議)
│
│中共中央(コミンテルン駐在代表団)より魏拯民を経て新路線伝達
│ (迷魂陣会議、1936.3、安図県)
↓
南湖頭会議(1936.2、寧安県):民生団粛清中止
(5)東北抗日連軍と在満韓人祖国光復会
a)コミンテルン第7回大会(1935.7.25〜8.20)
反ファッショ人民戦線の結成提唱、魏拯民参加
期間中、中共「8・1宣言」(抗日民族統一戦線呼びかけ)
↓
中共中央、新路線=統一戦線を基盤とする「抗日連軍」への改編
「革命」優先から「抗日」優先へ。共闘してきた非共産軍(国民党の影響下)との亀裂修復に努力=革命の旗を下ろす
↓
反「民生団」闘争の終結
間島自治承認、韓国民族革命軍・党組織、中共内に朝鮮人独自組織
b)東北抗日連軍の編成
迷魂陣会議(1936.3、安図県)=魏拯民が新方針伝達
東北抗日連軍第2軍←東北人民革命軍第2軍の改編。第3師(師長:金日成)を編成
↓
河里会議(金川県)で東北抗日連軍第1路軍編成(1936.7)←旧東北人民革命軍第1・2軍
総司令・第1軍長:楊靖宇、副指令・第2軍長:王徳泰、政治委員:魏拯民
同時に東南満省委編成←東満省委+南満省委
書記:魏拯民、組織部長:李東光、委員13名中に全光
*しかし「西征」(1936.6〜10)の失敗で第1、3師崩壊
第2路軍(1937.9)←第4・5・7・8・10軍 吉東省委
総司令:周保中 朝鮮人…第7軍長:李学万、第7軍政治主任・参謀長:崔石泉
第3路軍(1939.4)←第3・6・9・11軍 北満省委
総司令:李兆麟 朝鮮人…総参謀長・第3軍長:許亨植、北満省委書記:金策
c)在満韓人祖国光復会宣言(1936.6.10):呉成崙、厳洙明、李相俊
統一戦線の結成=「抗日」目的、「革命」という語なし。朝鮮人独自組織のよびかけ。中国革命と連帯しつつ在満朝鮮人の真正な自治の実現
中国革命の勝利と利害一致→朝鮮人の支持回復
↓
祖国光復会長白県工作委員会(1936.9):第1路軍第6師長・金日成中心
甲山に韓人民族解放同盟(=祖国光復会の国内組織)結成
普天堡戦闘(1937.6.4):日本人施設放火、電話線切断、追撃した警官隊・軍に打撃→日本に衝撃
恵山事件(1937.10、38.9):739名検挙、国内組織は壊滅
(6)ソ連領への退却
a)関東軍「北部東辺道討伐」(1936〜38)
治本(包囲攻撃・兵糧攻め)、治標(焦土作戦)→多くの幹部が戦死・投降。程斌(第1師長)の投降
*「西征」(1936.6〜12)の失敗で第1・3師壊滅
第2次老嶺会議(1938.7):第1路軍改編
総司令:楊靖宇、副司令:王徳泰(39.5戦死)→魏拯民、警衛旅:朴得範(朝)、第1方面軍:曹亜範(←第2師)、第2方面軍:金日成(朝←第6師)、第3方面軍:陳翰章(第4・5師)
b)「東南部治安粛正工作」(1939.11〜42.3)
通化・吉林・間島に7万5000名投入、集中攻撃
戦死:楊靖宇、魏拯民、曹亜範、陳翰章
投降:呉成崙
c)ハバロフスク会議(1940.12):ソ連極東方面軍と東北抗日連軍領導幹部
幹部温存、力量蓄積して長期闘争に備える方針決定
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1941年、ソ連に脱出・退却=200余名中80名朝鮮人(金日成、崔庸健、金策など)
東北抗日連軍教導旅(旅長:周保中〔旧第2路軍総指揮〕)、野営訓練
解放後、帰国「満州派」=共和国の中核へ