建国準備委員会から人民共和国へ(テキスト:3−2 建国準備委員会の活動)
(1)解放直後の南部朝鮮の政治状況
8.15〜9.7:外からの圧力なし(9.8米軍進駐)→自主建国運動の高揚
呂運亨・遠藤柳作(政務総監)会談(8.15)
┌遠藤:治安維持、日本人の生命・財産保護を要請
│ 民衆の信望厚い呂に「ラジカル」学生デモ抑制の役割期待。ソ連向けにも適任
└呂:5条件提示
[1]政治・経済犯釈放、[2]3カ月間の食糧確保、[3]治安維持・建国運動に不干渉、
[4]青年・学生の訓練に不干渉、[5]労働者・農民の組織に不干渉
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遠藤受け入れ=総督府から事実上、行政権移譲
自然発生的に大衆組織(労働者・農民・青年)出現→左翼と結びつく経験
呂運亨は全政治勢力の結集をもくろみ宋鎮禹に参加要請→宋、拒否(情勢傍観、左派主導警戒?)
(2)建国準備委員会の設立(8.15)
政府樹立までの過渡的準備機関。民族主義左派・社会主義勢力網羅(独立運動闘争経歴の持ち主)
8.16、ビラ掲示。呂運亨、5000人群衆を前に演説(遠藤との会談結果報告)
安在鴻、ラジオ放送「国内・海外の3千万同胞に告ぐ」
――当面の政策発表(治安維持、食糧の確保と通過・物価の安定、政治犯釈放、親日派・在朝日本人問題)→政治権力が朝鮮人側に移ったと印象づける
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*朝鮮民族の権力機関として建準誕生
同日、政治犯釈放(1万6000名)
治安維持組織=建国青年治安隊(青年・学生2000名動員)→日本人に対する報復は10数件のみ(自制の努力)
8.17、中央部署として5部を置く(左右を問わず任命)→8.22、1局12部に拡大
各地に自発的に支部結成、8月末までに145(当時、全国に247の市・郡)
38度以北にも=平南建準支部(8.17。晩植)→共産党平南委と合作、平南人民政治委員会樹立(8.29?)
*協同戦線体としての性格。ただし宋鎮禹系(民族主義右派)は不参加
┌民族主義左派:安在鴻・(金炳魯・)許憲など
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│ ┌呂運亨系(朝鮮建国同盟)
└社会主義┼朴憲永系(朝鮮共産党再建派):李康国・崔容達など
└〔朝鮮共産党長安派(8.16組織):鄭柏〕
主流は次第に社会主義者へ=日本の支配に最後まで抵抗、政治犯釈放で数的に圧倒
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民族主義者の反発(9.4安在鴻辞任、後任副委員長・許憲):米軍占領の情報で独自性の発揮のぞむ
(3)朝鮮人民共和国の成立
建準、全国人民代表者大会召集(9.6。ソウル、1300名)←9.7米軍上陸予定(実際は9.8)
*左右勢力総網羅(呂運亨・許憲の穏健的傾向)=米軍上陸直前に朝鮮人の団結アピール
ただし左派優勢(最後の20年間の抗日闘争に対する寄与の度合い反映)
朴憲永は入らず→しかし直系グループは入閣
*87名中、62名の経歴:63%が投獄歴、多くは解放と同時に出獄。左右分類可能な者55名のうち42名は左(平均年齢は民族主義者66歳、社会主義者47歳)
*しかし臨時政府建国綱領(1941)でも同様の方針。植民地下で土地・主要生産機関は大部分、日本と親日派所有→左右を問わず当然の主張
《人共の評価》
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9.8 米軍上陸、人共を認めず ┐
韓民党(9.16創立)、臨政の非難 │→弾圧へ、米軍政と対立
10.10 アーノルド軍政長官、人共否認声明┘